羽咋教会 主日礼拝説教『天からのもの』



<2004年4月25日 主日礼拝>
「ルカによる福音書」20章1節〜8節



  • 私たちは「権威」ということについてどのように考えているでしょうか?権威という言葉を日常の言葉として考えてみるならば、それは約2種類の使われ方をしています。

  • 第一に権威とは、「地位の権威」だとか、特定の力のある地位についたら、それだけで生まれるような権威を意味するものとして、使われます。権力に必然的に随伴する強制力のようなものです。第二に日常で用いられる言葉としての権威は、「機能の権威」というもので、その地位に期待されているだけの働きを示したとき、そこに生まれるものを権威と呼ぶことがあります。

  • 私たちは日頃「権威」という言葉の意味を取り違えて使ってしまいます。たとえば、世界の情勢に当てはめて考えてみますと、こういう言葉があります。「イラクのイスラム教シーア派の最高「権威」○○○師」あるいは、「権威と権力」について書かれた本や権威と宗教とを結びつけて記されている本があります。

  • このことから、「権威」というものが人間そのものから派生するものとして、認識されているということがわかります。しかし「権威」とひとことで申しあげることのできないような、「思想」や「歴史」がその背後にはあることをも、私たちは知っています。

  • ある日、主イエス・キリストが神殿の境内で教えておられたときの出来事です。神殿において主イエス・キリストはまさに、福音を宣べ伝えておられた時です。祭司長や律法学者たちが、長老たちと一緒に近づいて来て、言いました。「なんの権威でそのようなことをしているのか?その権威を与えたのはだれか。」(「ルカによる福音書」20章2節)

  • こう質問してきた律法学者と祭司長に、主イエスは応えました。「ヨハネの洗礼は、天からのものだったか、それとも、人からのものだったか。」(「ルカによる福音書」20章4節)

  • 彼らは「わからない」と答えました。わからないのに、主イエスを裁こうとしていたのです。主イエスは、神殿で福音を告げ知らせているその権威が、人からのものではなく、天からのもの、神による権威であるということを、ここで暗示しておられるのです。

  • 権威が人からのものではなく、天からのものである、とわかったときに私たちは祈りをもって、神様に従っていくことができるのではないでしょうか?さまざまな人と出会うとき、私たちは毅然として、「洗礼は天からのものです」と告白し、この地でのよき信仰の「証し人」となり、神様の権威を証ししていきたいと思います。







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