主日礼拝説教 『人間を照らす光り』



<2004年10月31日 主日礼拝>
「ヨハネによる福音書」1章1節〜18節



  • 「初めに、言があった」、聖書にはそう記されています。

  • 私達はこの御言葉を聴くときに、おそらくこう思われることと思います。はじめとは、一体、何の始めだろうか。「初め」というのは、天地創造の時のことを指しています。無から創造されたこの世は、言葉だけが最初に存在していました。それは神の言葉です。

  • 初めに言葉があった、というのは創世記一章にある天地創造において、「初めに光りあれ」と主が言われたことを、指しています。神様が「光りあれ」と言われた時、始めて天地創造が始まったからです。

  • しかし、天地万物が作られるに先だって、最初に言葉があったのです。天地創造以前に「言葉」が存在していたのです。この言葉は、天地創造の際、神様が語りかけたときから神と共にあって、神様と
    本質的に等しい、と語られています。

  • このような点で、「はじめに言があった。そしてそこからこの言葉によって世界が創造された」、ということがヨハネによる福音書1章に記されています。今朝は、教会の歴史でいいますと、宗教改革記念の日です。宗教改革というのはご存じの通り、16世紀ドイツで起こった改革です。それは、私達の教会のはじめであります。この日、プロテスタントが生まれるきっかけとなった改革運動が起こりました。ドイツのM.ルターという人が、この改革の発端となりました。

  • ところで、彼によって起こったこの「宗教改革」というのは革命的な何かが起こったというのではなく、人間の内面的なところでの改革を意味しています。彼は福音の再発見をしました。その出来事によって彼は、福音の本当の意味を得ることができたといえます。その後、新しい福音の光りが与えられた、という回心を経験します。

  • 彼が、悩んでいたのは罪の問題であり、救われているかどうか分からなくなった、と言って悩んでいました。そのような中、新しい福音の光りが与えられたのです。突然のようにして、差し込んだ福音の光に彼は喜び踊りました。彼のこのような体験によって、本当に、御言葉には命が宿っていると言えるのではないでしょうか。

  • 肉となった言葉である主イエスは、神の子としての栄光を現すため、世に下り私達の間に宿られ、恵みと真理に満ちていました。しかし、私達と、この世の中は闇に属するため、その光りである御言葉を、主イエスそのものを理解しなかったのです。

  • 闇のなかに輝く光として、この世に来られたお方によって、私達は明るく照らし出され、光りに満ちた御言葉から、福音の光りが放たれるのです。M.ルターが、16世紀に獲得した福音の光り、それは、主イエスそのものから放たれたものにほかならない光りです。

  • 神様は言葉によって天地を創造され、また罪と悪に陥ったこの地上を恵みと真理に満たして下さいました。恵みとは、神様から与えられる無条件で一方的な、変わりない愛であり、真理とは主イエスご自身であり、命の御言葉です。そして、この言葉には力があります。
    闇に打ち勝つ力です。この世を造り出し、すべてのものを産み出す力です。

  • なぜならその言葉は、神によって生まれたからです。言葉が肉となった主イエス・キリストは、永遠の命の御言葉を、この世の光りとしてもたらして下さる救い主です。言葉は、私達のコミュニケーションの媒体でありますが、それだけにとどまらないのです。

  • 私達はこの言葉、神の言葉なしに命を得ることはできません。闇の世界に住む人間を明るく照らし出すまことの光り、主イエス・キリストと、主イエスの命である御言葉を受け入れ、御言葉によって生かされるものとなりますように。







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