- 湖は波も少なく、海に比べて穏やかなのが特徴です。静かなはずの湖に突然のようにどこからともなく、不思議と強い風が吹いてきたのです。弟子たちが湖を渡っている途中です。穏やかなはずの湖がいっぺんで恐ろしい風の吹きあれる湖となってしまいました。弟子達は不安になり、湖を渡ることをあきらめようとしたことでしょう。
- 「二十五ないし三十スタディオンばかり漕ぎ出したころ、」(ヨハネによる福音書6章19節)と書かれています。さて、距離としてはどのくらいの距離でしょうか?スタディオンというのは、当時の距離を測るための長さの単位で、このスタディオンといのはローマにおけるマイルの8分の一にあたるそうです。日本の単位でいうと、185bだそうです。二十五ないし三十スタディオンというと、4キロ〜5キロほどということになります。
- このガリラヤ湖の全体は一番長いところで109スタディオンと言われています。ですから、約20キロほどの長さもある湖の約四分の一まで進んだ、といったところです。それくらいの距離を進んだ時に強い風が吹き、湖が荒れ始めたのです。あれるはずのない湖が荒れて、弟子達は不安になりました。この先どうやって進んでいけばよいのだろうか。
- するとそこへうっすらと人影が見えてきました。人影が湖のうえに見えるはずがありません。ある福音書にはこの部分に、「弟子達は幽霊だと思った」と書かれているほどです。湖の上に人が歩いている。弟子達は目を疑いました。良く見るとその人影が、主イエスだったのです。聖書にはこう書かれています。
「イエスが湖の上を歩いて舟に近づいて来られるのを見て、彼らは恐れた。」(6章19節)
- それが主イエスを見て最初に示した弟子達の姿でした。恐れ、驚き、疑い、迷い。これらの全ての言葉が私達信仰者の弱さを表しているように、信仰を抱いていてもなお、主イエスを信じきれないでいる私達の姿を現しているといえます。
- 湖の上を歩いておられる主イエスを見て、弟子達は恐れました。しかし、そのような弟子達の前に、たじろぎもせず、堂々としている主イエスがこう述べられたのです。「わたしだ。恐れることはない。」(6章20節)
- 主イエスはこうして怖がり、強風におびえている弟子達の前に、自らの姿を現して下さいました。波風の立つ湖のうえで、水平を保って静かに歩いておられるのです。
- 私達の人生も波風があります。心の中にも波があって、水平に保って生きていくと言うことは、なかなかできることではありません。しかし、主イエスはどのような波風のなかにあっても、まっすぐに、水平に、私達のもとへと歩いてきて「恐れることはない」と言って下さるお方なのです。
- 弟子達の姿から、不安におののき、恐れて「信じる」ということができなくなっている私達をイメージできます。さまざまなこの社会とこの世での出来事に取り囲まれて、素直に信じて従うことがなかなかできないでいる、いまの私達です。その私達の前に、主イエスはまっすぐに、そして静かに近づいて下さいます。
- ここで、弟子達は船に乗り込んだかどうかということは、詳しく書かれておりません。しかし、「イエスを迎え入れると目指す場所へ到着した」(同書 6章21節)と、このことだけは、はっきりと書かれているのです。
- 出エジプト記では、餓えと乾きによって神様に従わなかった人びとのことが記されています。彼らのうち、モーセに対する不信感のある者は、目指す場所へと到着することができなかった、と記されています。その事柄と同じことが、ここで述べられています。信じて従うもの、主イエスを受け入れるものは、目指す地へ到着したのです。
- 主イエスを受け入れて、心の内に迎え入れるならば、私達は主イエスと共に人生の目指す地点へと到着することができる、ということです。人生の旅を続けていく途中で主イエスが必ず現れて下さいます。「恐れることは何もない、そのまま私の姿が見えるのならば、信じてついてきなさい。そうすれば、あなたをこの波風の立つ湖から、新しい地へと連れて行きますよ」このように、言われているのです。
- 私達は人生の途上で主イエスと出会うことで、それぞれの道を目指す地点へと突き進んでいくことができるということです。さて、私達はこのことを信じることができるでしょうか?それでは、私達が今朝、主イエスの声に従って教会へと導かれている、この事実を、どう捉えたらよいでしょう。答えはひとつ、主イエスが導いて下さっているからです。
- 不安や恐れを信仰に変えて、主イエスの姿をしっかりと見据えて、信じて従っていきたいと思います。人生の波風の立つときも、不安ですすめないで居るときにも、静かに、そしてまっすぐに、主イエスが私達のもとへと近づいて導いて下さいます。2005年度の新しい歩みを、主に導かれて歩んでいきたいと思います。
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