主日礼拝 説教断片 主日礼拝説教『ガリラヤから』




2005年6月26日 主日礼拝説教
聖書箇所 「ヨハネによる福音書」 7章42節〜50節


  • 主イエスは、ベツレヘムにおいてダビデの子孫として生まれたということが、福音書に書かれています。しかし、ここでは「メシアはガリラヤから出るだろうか。」と論じられているのです。ガリラヤとは、一体どのような町なのでしょうか。

  • 聖書の世界でしばしば私達が聞く「ガリラヤ」という場所は、主イエスが過ごされた地域としても知られています。この地方には、先住民のカナン人が残っていました。また、紀元前47年はヘロデ大王の領土で、主イエスの時代にはヘロデ・アテンィパスの所領となっていました。この地で多くの農民は、果物やオリーブを栽培し、国を愛する愛国心をもっていました。また、住民たちは勇敢な人びとであったそうです。その地には、主イエスの時代は人口が多く、ティベリアスやカファルナウム、ナザレなどの町や村がありました。イエスの生涯と宣教の活動地域であるといえます。イスカリオテのユダ以外の11人の弟子達はすべて、この地の出身であったといわれています。

  • メシアはこの地から出るのではなく、かつて偉大なる王様として名を残したダビデの子孫から出ると聖書に書かれてあるだろう、と議員達は言いました。 さて、私達の間にも、人を見るとき偏見や先入観というものはないでしょうか?その結果として、派閥や分裂を生じさせてしまうのが、私達人間の弱い面でもあります。

  • ここでは主イエスのことについて、三つの意見に分かれ、対立が起こりました。中には、イエスを捉えようと手をかけ、できなかった者もいたようです。祭司長達やファリサイ派と呼ばれる人びとは、下役たちをイエスのもとへ行かせましたが捉えることができなかったために、下役達を責めました。 「どうしてあの男を連れてこなかったのか。」(ヨハネによる福音書7章45節) 主イエスのことをあの男、と呼ぶほどに蔑み、下役達をも責めるのです。

  • さて、イエスが過ごしたガリラヤは、自然が豊かで花も咲く、とても美しい町でもありました。またガリラヤ湖という湖もあり、そこでは主イエスのなされた偉大な奇蹟を、弟子達は目にしました。そのガリラヤのナザレという町で育ち、ガリラヤ地方を舞台として宣教活動をされます。主イエスは、ガリラヤを自分自身のふるさととして心から愛していたのです。

  • 一方で、祭司長達はイエスがどこの出身であるか、という人間的なことに心を奪われ、こだわっていました。さらに、そのことを理由に主イエスのメシア性を否定し、何とかして捉えようとしていたのです。
  • 「あなたもガリラヤ出身なのか。ガリラヤからは預言者の出ないことが分かる」(同書 7章52節)

  • 彼らは、ユダヤ人指導者や議員という立場でありながら、出身や生まれた所に心を奪われ、主イエスの教えそのものや真実の姿には、耳をふさいでいたということになります。主イエスの内面や本当の姿を見ようとしなかった、彼らの不信仰による結果です。

  • 私達は、隣にいる人が誰であるか、あるいはいつも語り合い、顔をつきあわしておしゃべりする兄弟姉妹を知ろうとするとき、表面だけで判断してはいないでしょうか。表面だけで人を見るのではなく、内面やその人の心からあふれ出ることからその人を分かろうとするとき、私達は本当の意味でのコミュニケーションと対話ができるのだと思います。

  • そしてそこから、私達は「信じる」ということを知っていくのです。主イエスの場合も同じです。「イエスが誰なのか」この核心にせまる問いを知ろうとするとき、私達は表面ではなく、私達を愛して下さったその「十字架の愛」によって、そして私達に語って下さった御言葉によって、信じたいと思います。主イエスは世界中の人びとにとって、救い主メシアなのです。この信仰をどうして伝えていったらよいのでしょう。主イエスは、ただ単に人間として生まれた肉なるものとしてのキリストではなく、神の御子としてこの世に降ったメシアであるということを、この「私達が」証ししていくほかないのではないでしょうか。


    オリーブの木々








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