- 悲しみにくれて、途方に暮れて、ただ泣いてしまうというような経験があるでしょうか?ただ、絶望と喪失感の中にある時、あるいは愛するものを失ったとき、私達は耐えられないような苦痛を味わいます。その苦痛によって、生きているのも愚かしく思える、そんな苦い経験を味わいます。その悲しみが、あとからあとからこみあげてきて、癒されぬままに涙の止まるのを待つしかない時。主イエスはそのように泣いている人を見て、その涙を拭ってくださるお方です。
- マグダラのマリアという女性が、泣いて悲しんでいるところに現れたお方、それが主イエス・キリストです。そのお方は、どのようにして私達の渇くことのない涙を、拭って下さるのでしょうか?主イエスが生きておられた時、主イエスの周りには、深い愛と信頼をもって関わり、従っていた女性たちがおりました。十字架のもとには、幾人かの女性が主イエスを見守るために傍らにいた、ということが、どの福音書にも共通して描かれています。女性達のなかでも、特に主イエスを信頼し尊敬していた女性がいます。その名はマグダラのマリア。マグダラのマリアと呼ばれる女性はとりわけ主イエスを心から愛し、忠実に仕えていたということが聖書のなかに印象的に記されています。
- マグダラというのは地域の名前です。マグダラは、ガリラヤ湖西岸のティベリアスの北西数キロのあたりに位置していた町であったそうです。彼女は十字架の出来事に心から衝撃を受け、絶望していました。どんなにか、主イエスを愛し、共に生き、共に苦しみ共に泣いたことでしょうか。彼女はもう、主イエスとの関わりを持てなくなった、と喪失感と絶望の淵に追いやられていたのです。
- 主イエスが墓に葬られたあと、週の初めの日の明け方早い時に、最初にマグダラのマリアが墓を訪ねました。彼女は墓の外に立ち、泣いていました。そのときの様子が書かれています。 「泣きながら、身をかがめて墓の中を見る」(ヨハネによる福音書20章11節)
- 当時は、大きな横穴式の家のようなお墓です。石を積み上げて作られた部屋のようなお墓には人が2人か3人くらい、入れるほどの広さでした。主イエスの遺体を見ようと、身をかがめたのです。
- すると遺体のおいてあったところに遺体はなく、白い衣を着た天使が二人、立っていました。マリアは、泣きながら訴えました。「わたしの主が取り去られました」。しかし実は彼女は、墓の中を確認する以前から、泣いておりました。泣きながら、墓の外に立っており、泣きながら、墓の中に入っていったからです。主イエスは十字架につけられ、死んでこの世にはいない、ということと遺体が取り去られた、ということの空虚さによってより悲しみが増し、再び泣いてしまったのです。
- ふと後ろを振り返りました。なくなったはずの主イエスが、立っておられるではありませんか。マリアはその姿を見ても、それが主イエスだとは分かりませんでした。主イエスは、優しくマリアにこう語りかけられました。「婦人よ、なぜ泣いているのか。誰を捜しているのか。」
- マリアははじめ、この声の主が園丁だと勘違いし、こう答えます。「あなたがあの方を運び去ったのなら、どこにおいたのですか。引き取りにいきます。」(同書 20章15節)
- マリアは、主イエス本人から声を掛けられてもまだ気づかずにいたのです。すると、主イエスは「マリア。」(同書 20章16節)呼びかけました。彼女はその聞き覚えのある懐かしい声に、嬉しくなり、振り返りとっさに
「ラボニ」(同書 20章16節)と答えました。「ラボニ」とは、旧約聖書の原語であるヘブライ語の「先生」という意味で、マリアは主イエスを心から敬愛し、尊敬の念を込めてこう呼んでいたのです。
- 「マリア」と「ラボニ」。短い言葉であるこの呼びかけが、主イエスとマグダラのマリアとの深い信頼関係を、告げています。二人の信頼関係がこの呼びかけによって回復した、ということを現しています。
- こうしてマグダラのマリアは、最初に復活のキリストに出会ったのです。復活のキリストに出会って、泣いていた彼女は、その出来事と、主イエスの告げた言葉を宣べ伝えていくものとなりました。もう、泣かなくてもよい、という主イエスの声が聞こえてきます。辛くとも苦しくとも、悲しみの涙は、主イエスがすべて拭って下さるからです。
- それが、復活という出来事によって成し遂げられる主イエスの慰めであり、救いなのです。泣いているところへ、復活されるほどの主イエスの大きな愛に、マグダラのマリアは実際に出会いました。彼女は、その目で、心で確かめてその愛に触れることができたのです。
- 旧約聖書のホセア書の6章には、復活の主イエス・キリストを告知している箇所があります。「さあ、我々は主のもとに帰ろう。主は我々を引き裂かれたが、いやし/我々を打たれたが、傷を包んでくださる。二日の後、主は我々を生かし/三日目に、立ち上がらせてくださる。我々は御前に生きる。我々は主を知ろう。主を知ることを追い求めよう。主は曙の光のように必ず現れ/降り注ぐ雨のように/大地を潤す春雨のように/我々を訪れてくださる。」(ホセア書6章1節〜3節)
- 曙の光りというのは、必ず私達の目の前に現れます。その光りのように、必ず私達の前に現れて下さり、優しい春雨のように静かに訪れて下さって、私達の魂を潤して下さるお方、そのお方が主イエス・キリストです。このお方に、私達の全てを明け渡して、歩んでいきたいと思います。そうするならば必ず、復活のキリストが「なぜ泣いているのか。もう泣かなくても良い」と、私達の前に現れて下さるのです。
- 復活のキリストに出会い、その深いまなざしにとらえられて、私達の歩みが新しくされることを望みたいと思います。
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