『聖霊による洗礼』
<2002年6月2日 主日礼拝>
「ルカによる福音書」3章7節〜20節
・洗礼者ヨハネは、洗礼を授け、悔い改めの説教をしました。多くの群衆がそのために、いつもヨルダン川に集まっていました。「蝮の子ら」に向かって、悔い改めにふさわしい実、すなわち、改心することによって、結ばれる実を結ぶようにと、勧告しています。
・ヨハネは、洗礼を授けました。それは悔い改めの洗礼でした。旧約最後の預言者と言われていたヨハネは、悔い改め、来るべき神の国に備えるように、と罪の赦しを主張しています。
・悔い改め、それは、完全に神様に立ち帰ることなのです。罪を認め、それを告白し、悔い改め、神の国に備えることを求めているのです。ヨハネは、そのような「悔い改めの洗礼」を施したのでした。
・このようにハッキリと述べられたことによって、彼らはヨハネを待ち望んでいたメシアなのではないか、と思い始めるのです。しかし、ヨハネはメシアなのではなく、メシアと呼ばれるイエスの先駆者として、洗礼を授け、自分にはその値打ちがないことを自覚し、告げています。
・洗礼とは、キリスト教的生活の登竜門であり、私たちが罪から浄められて、新しくされるということです。ヨハネは悔い改めの洗礼を授けましたが、イエスはどうだったでしょうか。次のように記されています。「その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。 」(「ルカによる福音書」3章16節)
・洗礼とは、ある意味では、生まれ変わること、新生であると言われます。洗礼を受けることによって、その人の新しいキリスト者としての人生が始まるからです。聖書において、主イエスに洗礼を授けるのはヨハネでありますが、今、この世において私たちが授かる洗礼は、聖霊における、「キリストの御名による洗礼」です。
・それでは、主イエスの授ける、「聖霊と火による洗礼」とは一体どういう意味を現すか、私たちは理解できるでしょうか。あるイギリスの神学者が、このことについて、特に聖霊による洗礼の示している事柄について説明しています。
・それは洗礼の具体的な事柄なのですが、洗礼には浸礼、つまり、体を水に浸すものと、滴礼、水を頭に振り掛けることの2つの洗礼の仕方があります。現在、私たちが目にすることができ、また執行されているものは、滴礼が殆どであると思います。新約聖書に現されている「洗礼」とは、これに当たるギリシャ語、つまり、新約聖書の言語が浸礼と潅水礼(注水礼と滴礼)の両方の意味を含んでいるということを指摘して、洗礼について次のように述べられています。
・「浸礼は、キリストと共に死に、そしてよみがえる、という意味で再生を表現している行為であり、さらに加えると、潅水は、キリストの血をその人の良心に振りかけるという意味でまた聖霊をその人に注ぐという意味で、再生を表現していたのである。」(『幼児洗礼に関する考え方』20頁)と説明しているのです。(J.WESLEY)
・洗礼が聖霊によるものであることを改めて深く感じざるを得ません。洗礼を受けたイエスのうえに聖霊が鳩のように降ってきて、天から主の言葉が聞こえてきた、と記されています。
・私たちは、洗礼がキリストの血によるものである、そのことおいて聖霊によって洗礼を受けることが赦されているのです。私たちは、父と子と聖霊の御名によって、洗礼を受けることが赦されています。それはヨハネの水による洗礼を意味のあるものにし、私たちの信仰を確かにする、「見えざるしるし」であるのです。
日本基督教団 羽咋教会
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