- 私たちは、生活するうえで何を食べようか、思い悩み、何か美味しいものを食べる時に、どれが良いのか、というように、自分の命のことで思い悩み、迷うことはないでしょうか?食べるということは生きるための必要不可欠な手段でもあります。そのようなことを主イエスは思い悩むな、と言われます。また、何を着ようか、と衣服のことで、思い悩みます。
- そのような現代の私たちにとって、思い煩わないで生きるということは、とても難しいように思います。「優柔不断」という言葉があります。私自身、子供のころにこの言葉には悩まされたものです。「自分が優柔不断である」ということを、両親に言われたり、自分自身もそのような欠点を子供の頃に自覚していたからです。
- 子どものころに、私どもの住んでいた家の壁には、この聖書の箇所が書かれた壁掛けが飾ってありました。聖句と共に描かれていたのは、野に咲く、美しい、1輪の「白百合の花」です。
- そのような聖句にある種の憧れをもって見つめ、また、そのように思い煩わない自分を願いつつ、日々過していたように思います。すると、神様によって導かれ、子供の頃自覚していた「優柔不断」という欠点は大人になるにつれ、うそのように克服され、無くなっていきました。「思い煩う」という言葉に関して、自分なりに固執し、祈りつつ過していたことが、実りをもたらしたのであり、恵みであったと思います。
- このようにして私たちが、みかけや外側のことに気をとられて、自分自身の見せかけの命の事で思い悩む事は、愚かなことである、と主イエスは言われます。どれだけ着飾ったところで、肝心なのは、私たちの命そのものであるからです。野に咲く花でさえも、神様は綺麗に粧って下さいます。また、空に飛ぶ鳥でさえも、神様は命を賜り、養って下さいます。
- そのようなものでさえも、神様が目に留めて下さるならば、私たち人間の命はどれほど思い悩んだからといって寿命がのばせようか、と述べられています。命とは、そのように思い悩んだところで、変わるものではないのです。なぜならば、私たちのすべてを、神様が養って下さるからです。
- 「烏のことを考えてみなさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、納屋も倉も持たない。だが、神は烏を養ってくださる。」(「ルカによる福音書」12章24節)
- 次に被造物として、野の花を譬えにあげられています。
「栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。今日は野にあって、明日は炉に投げ込まれる草でさえ、神はこのように装ってくださる。」(「ルカによる福音書」12章27節〜28節 )
- この箇所は、ある訳の聖書では、「ゆりの花」となっています。当時のパレスティナで百合に相当する花として、紫の「アネモネ」が考えられています。この花は、パレスティナの春を見事に華麗なまでにいろどり、王者の身に付ける紫の衣のようなきらびやかな姿で咲き誇ります。栄華を極めたソロモンでさえも、とありますが、ソロモンの衣は紫色です。その譬えとして用いられたのです。百合の花は、創造主である神様がおもいのままに被造物に注ぐ、恵みの豊かさを現しているのです。
- それに対して、主イエスは、御自身の到来により終末はすでに開始されたのであり、神の国はある面においてはすでに現在のものであるが、終末の完成という面において未来的な面も存在する、と説いたのです。
- オスカー・ クルマンという聖書学者は、この事実を主イエスの到来により今の世に「時の中心」が移されたのだ、と主張しました。これにより、終末の神の国の一部が現在すでに実現しているということを意味しています。今もすでに実現しているということなのです。
- ルカによる福音書の書かれた当時から、今もその実現がなされているのです。それゆえ私たちは、命のことで、思い悩んだりしている場合ではないのです。どんな小さな鳥でさえも、心をかけて下さる神様は、私たちの命を心に留めてくださらないはずがありません。鳥や野の花が、私たちのように「思い悩む」ということをするでしょうか?
- 主イエスは最後にこう締めくくられました。「擦り切れることのない財布を作り、尽きることのない富を天に積みなさい。 あなたがたの富のあるところに、あなたがたの心もあるのだ。」(「ルカによる福音書」12章33節)
- 何ごともひとりで思い悩まないで、神様に祈り求め、天に富を積む新しい歩みを進めてまいりたいと思います。
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