主日礼拝 説教断片 イースター礼拝説教 『信じるものとなる』




2006年4月16日 羽咋教会 イースター礼拝説教
聖書 「イザヤ書」40章1節〜5節、「ヨハネによる福音書」20章19節〜29節



  • 弟子達は既に聞いていた出来事が目の前で起こっても、まるで予想しなかったかのように驚きました。弟子達は丁度、ユダヤ人達を恐れて、家の中に入り鍵をかけていました。

  • 主イエスが捉えられ十字架につけられたということを知り、自分達も捕まるのではないかと恐れていたと考えられます。彼らが家に鍵をかけてこもっていると、突然、弟子達のまえに十字架につけられて死んだはずの主イエスが現れたのです。墓に埋葬されて丁度三日目がたった日です。実は弟子達は、家の中に鍵をかけ心を閉ざし、内にこもっていたのです。主イエスを十字架につけ、殺してしまったという恐ろしさに怯えていたと考えられます。

  • この様子は、心に鍵をかけ、閉じこもり、罪の縄目に縛られて生きている現代の私達の姿であると言えます。

  • 「そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。」(『ヨハネによる福音書』20章19節〜20節)

  • この時、主イエスは弟子達の中心におられたのです。そして、主イエスが十字架にかかられた時の手と脇腹の傷跡を見た弟子達は、本物の主イエスだと、喜んだのです。弟子達は、閉じこめられていた罪の状態から、解放され自由になった喜びを味わいました。既にマリアによってイエスの復活を耳にしていた彼らは、本当のことであったと知り、心から喜びました。

  • あのとき十字架につけられ、死んだはずの主イエスが目の前に再び現れたのです。信じられないくらいの、大きな喜びが目の前に表れたのです。主イエスは言われました。

  • 「あなたがたに平和があるように。」(同書、20章19節)

  • 「平和」というのは、当時、「シャローム」と言われます。このシャロームは、神が共におられる時、という意味です。神が共におられる時、その時こそが平安である、平和である、という言葉です。

  • 主イエスは、「なぜ十字架につけたのか」と責め立てるのではなく、「平和があるように。」と弟子達に心を込めて、平和をお与え下さったのです。しかも、復活の姿をとられ、再び弟子たちの前にあらわれて平和を下さった・・。それが復活のキリストです。

  • そして、弟子達に息を吹き掛けられ、次のように述べられました。「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」 (同書、20章22節〜23節』)

  • この時主イエスは、約束していた、「聖霊」をお与え下さったのです。「息」というのは、旧約聖書の創世記において、神様が私達人間を土の塵で形作られ、 最後に息を吹き入れられ生きる者となったことと、対応しています。再び新しく創造された人として、
    「主イエスによって」息を吹き入れられて、新しい命が与えられました。これこそが復活です。

  • 十二人の弟子のうちのひとり、ディデイモと呼ばれるトマスが、主イエスの復活を聞いたとき、信じられないという様子で次のように言いました。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」(同書、20章25節)

  • トマスは復活された主イエスを疑ったのです。本当に主イエスなのか・・・・確かな証拠を見て確認するまでは、しるしを見るまでは信じない。それから8日たち、トマスが家の中に鍵をかけていると、鍵をかけたはずの家の真ん中に、主イエスが立っておられました。‘直接、触れてみなさい。手と脇腹に触れて、確かめてみなさい・・・’、トマスの目の前に現れたのです。手には釘を打たれた跡がありました。脇腹には確かに、水と血の流れ出た傷跡がありました。

  • ‘このお方は、確かに、「肉体をもって」復活なさった主イエスであった。’そのことをトマスは、事実として受けとめました。
    この時トマスは、「わたしの主、わたしの神よ」(同書、20章28節』)と信仰告白を致しました。想像できないような、生々しい十字架の傷跡を見て、ようやく信じ、告白するようになったのです。しかし、大切なのは、「見ないで信じるもの」となることです。

  • 見ないで信じる者に、なれるでしょうか。                  キリストの十字架も復活も、私達は目の前に見ることはありません。しかしこの復活は、トマスにとっても弟子達にとっても、また私達にとっても「慰め」でありました。見たこともないこの出来事が、私達の慰めとなるのはどうしてでしょうか。しかもこの慰めは「罪の赦し」を与え、十字架という苦しみから「解放と喜び」を与えてくれるのです。この慰めと喜びは信じるという、信仰によって与えられるものなのです。

  • 旧約聖書のイザヤ書40章には、次のように告知されています。
    「慰めよ、わたしの民を慰めよとあなたたちの神は言われる。エルサレムの心に語りかけ彼女に呼びかけよ苦役の時は今や満ち、彼女の咎は償われた、と。罪のすべてに倍する報いを 主の御手から受けた、と。呼びかける声がある。」(『イザヤ書』40章1節〜2節)

  • みなさんよくご存じの、ヘンデルのメサイア「第二曲目」、序曲であるシンフォニーの次に、唄では第一曲目にこの箇所が歌われています。 神様は私達の打ち傷を、キリストの十字架と復活によって癒し、慰めて下さる。このことを、出だしにおいて堂々と、高らかに歌っているのです。

  • 主イエスは私達の「慰め主」であります。十字架という苦役を、みずから受けられたことによって私達を罪の縄目から解き放ち、そこから慰めをお与え下さるのです。

  • 主イエスは「わたしもあなたがたを遣わす」『ヨハネによる福音書20章21節』と弟子達を宣教へと派遣されました。だから私達はこの「聖霊」の、命の息によって慰めと命を与えられ、「伝道」の道へと遣わされていきます。

  • 遣わされた私達は、主イエスの与えられた「十字架と復活」により慰めを声高らかに歌い、語るものとなりたいと思います。「見ないで信じる者は幸いである。」見ずして信じるものにこそ、与えられる慰めなのです。











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