『自分の十字架を背負って』
<2002年9月30日 北陸連合長老会交換講壇 高岡教会にて>
「イザヤ書」53章1節〜6節
・今日与えられました聖書の箇所は、新共同訳聖書では、「弟子の条件」という小見出しが付けられています。弟子の条件とは一体何であるのか、ということを私自身、考えさせられます。私たちは、主イエスの本当の弟子として、自分の十字架を背負っていく覚悟をもっているでしょうか?こういう言い方はあまりよくないのかもしれせんが、主イエスの言われたことをもう一度思い起こして頂きたいのです。主イエスはとても厳しいことをおっしゃられています。
・主イエスは、「自分の十字架を背負って」と言われています。主イエスは十字架におかかりになられ、苦しみにあい、すべての人の、そして私たちの弱さと共に私たちの罪を背負って下さいました。その主イエス・キリストの苦しみは、私たちでは堪え難いような苦しみです。
・そのような覚悟で主イエスの背負われたような十字架を私たちも背負って主イエスに従っていけるでしょうか。25節において、主イエスは、共に歩むということ、また、主イエスに従っていくということの本当の意味というものを言っています。「自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない。」
・弟子になる覚悟は、「自分の十字架を背負って」という言葉によって、さらに強められています。十字架とは、死ぬ前の、死刑場へ赴くときの描写であります。すなわち、自分の死をもいとわないで、主イエスついてくることを求めておられるのです。そうでなければ、わたしの弟子ではありえない、とまで述べられています。28節におきましては、塔を建てようとするときに、その費用を計算するというたとえが示されています。そのようにしなければ、土台を築いても、失敗してしまうからです。 この譬えは次のようなことを指しています。私たちが、この教会を共につくりあげていくのに、その備えをして、すべてを完成させようとすることが大切であるということです。
・教会をつくりあげる備えとは、十字架を背負って、主イエスに従っていくということです。教会において、弟子の覚悟をもって、十字架を背負って従っていこうとすることそのものが、その備えであり、また、土台となっていくからです。主イエスの弟子であるということ、弟子となるということはそのような覚悟のうえに、成り立つことなのです。
日本基督教団 羽咋教会
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