らくりんバンバン

〈 落 鱗 板 々 〉

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過去ログのブランク 投稿者:らくりん  投稿日: 3月 7日(木)19時29分33秒

Genkoさん、
この掲示板は一定数以上の書き込みがあると、先に書いた物から順に消えていく
システムになっております。
私はそれを順次ダウンロードして保存しておいて、自分のホームページに
過去ログとしてアップロードして閲覧に供しています。

ただ、今のところ過去ログの整理は2001年末までしかしておりませんので
今年に入ってからの分で消えてしまったものは、オンラインでは読めなくなって
しまっています。

私の手元にはダウンロードしたファイルも、
それとは別に逐次テキストスタイルでも保存しておりますので、
すぐに必要だということであれば、送りますが。
ただ、そういう依頼がたくさん出てくると、一々対応するのも大変ですが……


らくりんさんへ 投稿者:Genko  投稿日: 3月 7日(木)19時13分06秒

(質問)
2002年1月1日〜2月15日までのカキコがここから消えています。過去ログにもありません。以前の自分の書き込みを確認したいのですが、どうしたらいいでしょうか?

(原発問題に寄せて)
真宗ブックレット『いのちを奪う原発』の発刊を教えてくださってありがとうございました。
私自身、これには以前からずっと反対の立場で、街頭署名などあると、どこの主催によるものであろうと必ず署名したものです。真宗はこういう社会性のある運動にコミットするからいいですね。
それはさて、先日の新聞報道によりますと、ベルギー政府がこの度本格的に原発施設完全撤廃を決議したとか。西暦2025年までに、国内の原発を全停止するようですね。
「ええ傾向やな〜」と思いました。最近EU諸国は、おおむね否定的に傾斜しているようですが。
原発一基に伴う各施設にかかるコスト(維持費を含む)があれば、他の代替エネルギー(風力・地熱・波力・太陽熱等々)施設で、何倍もの発電量を見込めるそうです。
翻ってわが日本も、あんな危険極まりない施設なんか、一刻も早く撤廃すべきだと思います。


戯れ論 投稿者:ぐっちん  投稿日: 3月 7日(木)15時27分52秒

 「墓守」「葬儀」「永代供養」などという非真宗的「ものがたり」の中に
生きるひとびとと共にあること。これは、疑いもない現実。

 その現実のまっただ中に、衆生のこころと弥陀のおんこころの出あう場所を
探り当てていく。「いっさいは幻想に過ぎないさ」などとスノッブを気取る
<わたし>の虚妄性が明らかになる場所。


ばっくれ僧正 投稿者:ぐっちん  投稿日: 3月 7日(木)15時05分04秒

 加藤典洋さんの『戦後を戦後以降にかんがえる』に興味深いはなしがあったのですが、
くわしい内容は忘れました。。。(そんな話書くなよ、無責任な。。。)

 大阪の児童養護施設から出されている「里親」についての報告者からの引用だったか。。。

 主人公は、ゆみちゃんという女の子。ゆみちゃんは、4さいくらい。「コトバ」をもって
いるので自分の生い立ちについての「ものがたり」を持っています。

 「あたしはね、おとうさんとおかあさんと、おにいちゃんといもうとの五人家族なの。
それでね。。。」といった、本当は彼女にはもう親御さんがいないのですが。いってみれば、
それはゆみちゃんがつくった架空のおはなし。

 そのゆみちゃんに対面した「新しいお母さんになるひと」は、こういったのです。
「そう、それはにぎやかね。わたしも、その仲間にいれてくれる?」

 ゆみちゃんはこたえました。「うん、いいよ」

 これで、「イノセンスの解体」(加藤典洋および芹沢俊介)の儀式はおわりました。里親と
ゆみちゃんの新しい生活がはじまりました。。。新しいお母さんは、まずはゆみちゃんの
おはなしを肯定しました。ゆみちゃんは、自分自身についてもっている「ものがたり」を
受け止めてもらいました。そこからゆみちゃんと、新しいおかあさんたちとの「現実」の世界を
生きることがはじまることとなりました。

 一切は虚構である。一切は幻想である。一切は根拠れすである。。。おれは、いっさいの
虚妄から自由である。こんな言説はもうこりごりです。 


ウソは大きい方が。。。 投稿者:ぐっちん  投稿日: 3月 7日(木)14時24分41秒

 つきやすい。(ジーオーグループ名誉会長大神源太)を見習ってるだけです。。。

 >三吉さんへの苦言、提言

 うん本当に惜しい。掲示板はどうしたんですか?ふれてはいけないプライベート問題かな?
でも、三吉さんの発言を聞いているといつも感じるのが「わたしだけが知っている」って
ことかな。

 昔、「TV探偵団」という番組があって、その番組放映以前の「なつかし番組」をオンエア
する企画だったけど。泉麻人が「わたしだけが知っている」というコーナーを担当していて、
「おたっきんぐ」はおれだとばかり、誰も知らんような番組についてコメントするんだな〜、
これが。(のちに林家こぶ平に担当者変更)

 そう、あーたほど頭がいいなら、迷える衆生のため、もっと平易なくだけた話をすべし。
(ぐっちんなんかこんにゃくや餅の話やぞーやらかいぞー)

 で、自灯明、法灯明。これをぐっちん流にくだけていうなら、「法に自らを問い、尋ねる
こと」であります。(←かんたんになってへんやないか!)三吉さんは、「法」を解読する
ことには長けていると思うのだけど(こっちの世界の虚妄性をあきらかにすること)、「自ら」
については「わしは汚いやつです」といってるだけしか聞こえてこない。

 おおきなお世話じゃってかんじだけど。「自分で自分を裁く裁判は八百長裁判」ってらく
りんさんがいってたかな?クレージーキャッツの歌に五万節がありました。
 
 ♪ 学校出てから十余年
   今じゃリッパな恐妻家
   呑んで帰って締め出され
   雨戸におじぎを五万回
   サバ云うなこのヤロー

 三吉さんが、わが身は汚いといってるのは、「誰」に向けての発言なのでしょう。雨戸
かな?
 それはともかく、「自ら」が「法」に向かう「動機」「理由」みたいなもんを掘り下げて
提示してくれれば、それはそれで、サッカープレイヤーにとって面白い「サッカー評論」に
なるんだけど。


すみません 投稿者:らくりん  投稿日: 3月 7日(木)11時17分49秒

URLを紹介した手前、一応アクセスして確認してみたところ、
東本願寺のともネットではまだ真宗ブックレット9の情報はまだ
アップされていませんでした。ったく〜。

それから、ネット注文、電話注文もできないみたいで、ファックスか郵便でと
なっておりました。
電話でも大丈夫じゃないかとは思うんですが……(∞;)
真宗大谷派の教務所には常備してあると思います。


真宗ブックレット新刊のご紹介 投稿者:らくりん  投稿日: 3月 7日(木)11時11分46秒

真宗ブックレット9『いのちを奪う原発』が発刊されました。
このテーマはチェルノブイリ事故から3年後の1989年に、ブックレット1号として
出る予定で、原稿もほぼ出そろっていたにもかかわらず発刊中止となったいわくつきの
ものです。その13年の間に情勢も大きく変わり、内容もまったく変わったものとして
再度企画されて、ようやく日の目を見ました。
その間に、原発をめぐる情勢も大きく変わりました。
また脳死問題、エイズ問題、ハンセン病問題、高木顕明など
ブックレットで取り上げた課題に大きな進展・情勢変化がおこったものがあります
ね。

原発問題は、世界の趨勢はほぼ決しているわけですから、
何かのきっかけで大きく変わっていくかも知れないのではないかと思っています。
それが「悲しいきっかけ」でないことだけを念じています。

小冊子ながら、事の本質がかなりはっきりおさえられているように思います。
いずれにしても、
スタッフのご苦労と意気込みが紙面から飛び出してくるような「でき」
だと私は思います。
よろしかったらどうぞ。
残念ながら、一般書店では入手不能です。
下記から注文できるのではないかと思います。

http://www.tomo-net.or.jp/


やわらか頭 投稿者:らくりん  投稿日: 3月 7日(木)10時33分43秒

もちろん「かたい」話ばかりではなく、「やわらかい」話も大歓迎ですよ。
もっとも「下ネタ」は大悲さんのところの方が盛り上がるかも知れませんが。
「○んしゃ」 ――まったく近ごろのガキときたら……、
ネット時代は、情報に垣根も敷居もあったもんじゃない。

内容は、かたくてもやわらかくてもいいんですが、
個人的な好みを言わせてもらえば
「やわらか頭」が好きです。

http://www.tcup4.com/439/m38miharu.html


それと。。 投稿者:三吉  投稿日: 3月 7日(木)08時04分00秒

−みんな床屋談義に毛が生えた程度のもんなんじゃないか、と私は思っています。

らくりんさん、おいしすぎ(笑)
思わず爆笑してしまいました


ごめん。走り書き 投稿者:三吉  投稿日: 3月 7日(木)08時02分37秒

吉本さんが「幻想」という場合、マルクスの言う「上部構造」の代替物ではないかと
思います。「上部構造」という表現だと「下部構造」に規定されるみたいな感じで
「因果関係」に思索はいきますので、そこを乗り越えるためにではないかと。
なので、「幻想」は「観念とか思想とか感情とか人の思い」などの精神活動一般です。
ねこさんの「幻想」−「真理」は、以上の広義の「幻想」(精神活動一般)ではなく、
広辞苑的な「現実にはないことをあれこれする精神活動つまり虚妄」−「正しい精神活動」というカテゴリー把握ではないかと思います。

で、ジョージ・バークリーは、聖職者で、当時の科学と結びついた唯物論を批判して、
「物質の客観的な存在」を否定したのですが、「物質存在」は、知覚つまり精神活動
によってのみ存在すると。
じゃあ、知覚するものがいなかったら、物質は存在しないのかという当然の議論に
対しては「神はあらゆるものを知覚している」と。これが西洋の独我論ですね。

佛教は神ならぬ仏を立てて、「仏はあらゆるものを知覚する」とはいいませんので、
唯識は「あらゆるものは、精神作用による識別のみである」のですが。。。
その辺はちゃいますが。。あと。。
唯識では西洋と違って外界(客観的物質存在)と精神活動との関連を問題にしている
のではなく、最初から精神活動の解明が主たる関心ごとではないかと思います。
客観的存在は、現象的存在でうつりかわるのに、我が心の執着心がその事実に苦しむ
と。
あらら、時間切れ。。中途半端ごめん


雑感 投稿者:Genko  投稿日: 3月 7日(木)02時37分18秒

「国家」の本質が「共同幻想」であろうと「交換経済構造」であろうと、そんなことは私にとってどうでもいいことなのですが、その出自がもともと「宗教」であったことを、皆さんは忘れています。同じように「政治」もまた、原始時代において、シャーマン等によって担われた「政(まつりごと)」であったことも。要は、起源において「政治・経済・文化」は、宗教性一般に渾然一体のものだったのです。
人類が共同体を必要としたのは、自然界からの猛威や、他の共同体からの収奪等によって、同朋の<死>を目撃し、「固体の有限性」を自覚したからに他なりません。共同体は<死>を教え、それから身を守る知恵だったのです。宗教はその原初段階において、そうした共同体内部のか弱き諸個人同士を結合させる媒介的機能を優れて発揮しました。
近代以降(特に封建国家の解体以降)、政治・国家・経済・宗教は、ほぼ完全に<社会的分業>を余儀なくされました。それで、それぞれの職務分担を担う諸個人は、他の部門について不可視のものとなったのです。医者が弁護士のことを分からないように。
大東亜戦争中に多くの仏教者たちは、自分たちに政治や経済の諸問題などあずかり知らぬことと避けて通っていたために、気がつくと仏壇の最上位に「天皇」の御真影を掲揚させられるはめになり、のみならず若い僧侶たちを次々に戦場に送り込む過ちを犯してしまいました。
戦後になって、真宗など宗門をあげてこの過去の失敗を悔い改め同じ過ちを二度と繰り返さない誓いを宣言したものです。以前に言いましたが、僧侶であろうとなかろうと、現代人は誰もが皆、今日の複雑な経済関係や政治的背景に無縁では生活できないようになっています。
仏教徒である自分だけが、そうした社会関係から免罪されており「世間虚仮」だから自由であるなんていうのは、それこそ「世間をコケにした」話であると言わなければなりません。
仏教者として戦争に反対する発言や、ある意味で仏教に社会科学的視点を持ち込んだかつての大先輩である曽我氏や金子氏を、一時破門扱いにしたときの宗門側の論理を、私たちは二度と繰り返してはならないと思います。


訂正 投稿者:らくりん  投稿日: 3月 6日(水)21時24分56秒

ていへんだ、ていへんだぁ、名利名欲・名聞利用の管理人になってしまった。

管理人「名利」―→管理人「冥利」


ケーススタディ 投稿者:らくりん  投稿日: 3月 6日(水)21時19分34秒

管理人として、この掲示板の書き込みを削除したのは、記憶している限り、
これまでのところ下記のいずれかに該当する場合だけだったと思います。

1、同一内容の二重投稿:明らかに操作ミスの結果と思われる二重投稿については、
管理人としての美意識の問題ですが、投稿者の依頼の有無にかかわらず削除した
ことがあります。
2、自分自身の書き込み:一旦アップしたものを削除して訂正・修正して
再投稿したり、消したままのものがあります。管理人の特権としてお許しいただきたい。
3、強権発動:これまでに一度だけ(だったと思いますが)管理人として、投稿者の
同意を得ず前に書き込みを削除したことがあります。(後に投稿者も同意して下さい
ました)
下記で2000年5月15〜16日前後の過去ログをお読み頂ければ経緯は
わかると思います。

過去のケースとしては上記だけだったように思います。

基本的には何でもありのつもりですが、
私が一番気を付けなければならないと思っているのは
【個人が特定される可能性がある情報(プライバシー侵害)】
です。例えば「実名」「住所」「電話番号」「勤務先」「学校名」etc.
そのような書き込みについては消すか、伏せ字にすることがあるかも知れません。

また差別的言辞については、その表現がいわゆる「差別語」であるという
だけの理由では消すつもりはありません。
差別的な言辞が書かれた場合でも、基本的にはこの掲示板の上でその問題性を
明らかにしていく方向で、公開性のある議論にしていきたいと思っています。

ただし、前後の書き込みの流れになんの関係もない、通りすがりの捨て台詞の
ような書き込みや、単なる落書き的な「為にする差別言辞」は無条件で削除する
ことがあるかもしれません。

完全な匿名の言いたい放題の掲示板ならいざしらず、「かたい」話題は
ある程度抑制の効いた掲示板では煙たがられることが多いのではない
かと思いますが、
以上のことをご理解頂いた上で、この掲示板を活用いただければ、
管理人名利に尽きます。

そう言えば来月は4月13日は開板2周年。ということはレンタル期限が切れる
ということ。更新手続きをしなくては。

http://web2.incl.ne.jp/fujiba/ban_log/2k-5-10_6-8.htm


床屋談義か井戸端会議か? 投稿者:らくりん  投稿日: 3月 6日(水)20時20分18秒

ネコさん
>専門家ぞろいの場所かと思います
んなこったぁ心配することありません。
みんな床屋談義に毛が生えた程度のもんなんじゃないか、と私は思っています。
(談義が成立するような)床屋も井戸端もなくなってしまったから、
ネットは現代の談義場というところなんじゃないですか。大言壮語、口八丁
(手八丁はむり)なんでもかんでも言ったもん勝ち。

だいたい、他人が読んでわからない文章(言葉)というのは、
えてして書いて(言って)いる本人も自分が書いて(言って)いることの
意味がわかっていなかったりすることがあります。

ここに書いているみなさんがそうなのかどうなのか、
ここの書き込みだけでは、判断しかねますが……。

某O大学に首をつっこんでいたころ、教授の講義や学生の研究発表なんかを聞いて、
「こいつ意味わかって言ってんのかよぉ〜」なんて生意気なことを思ってました。


>三吉さんへリクエスト 投稿者:ぐっちん  投稿日: 3月 6日(水)19時50分34秒

 ということで、西洋哲学でいう「独我論」と
「唯識」の違いをサルぐっちにもわかるように
説明してくだされ。


こんにゃく問答 投稿者:ぐっちん  投稿日: 3月 6日(水)19時43分34秒

 ぐっちんの初期の引用落語に『こんにゃく(餅屋)問答』がありました。

 あれなんぞは、まさにディスコミュニケーションのお話なのですが。。。

 坊主に化けたこんにゃく屋と、問答しに来た修行僧。二人が交わしたゼスチャー
(意味内容)は違っていたにもかかわらず、コミュニケーションが成立してしまった。

 ここまでは対幻想でしょう。けど、第三者の檀家が、こんにゃく屋、修行僧それぞれに
ゼスチャーの意味を聞いたら、まったく違っていた。お互いが、同じゼスチャーに違う
意味を付与していたのです。ならこれは、個人幻想。

 民主主義だの、大東亜共栄圏だのいう「共同幻想」も実は、こんにゃく問答であった
という可能性を否定できません。

 共同幻想/対幻想/個人幻想というカテゴリーは、あまり「つかえない」と思います。 


代返2 投稿者:お留守居役様  投稿日: 3月 6日(水)19時30分36秒

親鸞聖人は、旧仏教の排除の論理(共同幻想)を
排除する個人幻想をあみ出して、
共同幻想としての仏教を解体したのでは、と。


代返 投稿者:お留守居役様  投稿日: 3月 6日(水)19時21分30秒

「排除の論理」は、幻想の共同性からの排除の意味ですから、
共同幻想ですが、
それを排除するのは、個人の幻想だと思います。


訂正 投稿者:お留守居役様  投稿日: 3月 6日(水)19時17分11秒

大東和共栄圏→大東亜共栄圏


代弁 投稿者:ぐっちん  投稿日: 3月 6日(水)19時16分40秒

 で、らくりんさんは「排除の論理を排除する」 一乗海釈をされています。

 きたないものをいっぱい受け入れてるから、海はきれいなんじゃないか。

 共同幻想という、普通は暴力性を帯びるものが、「排除の論理を排除する」と
いう原理をもっている。これが、親鸞の(本願のというべきか)画期的なことじゃ
ないですか?


幻想論 投稿者:お留守居役様  投稿日: 3月 6日(水)19時15分38秒

幻想とは、観念とか思想とか感情とか人の思いとかのことです。
幻想に対するのは現実です。
真理はそれぞれにあることになります。
国家の本質は共同の幻想である、ということは、
現実の行政組織や国会議事堂、裁判所などの建物が、
国家ではないということです。むしろそれら現実のものは、
共同の幻想に基づいて存在していると考えられます。
戦争は、国家間の争いで、国家の本質は共同幻想ですから、
戦争の本質は、共同幻想の争いであることになります。
鉄砲やミサイル、流される血とかは目に見える現実ですが、
戦争の本質は、共同の幻想であるというのが共同幻想論の主張です。
太平洋戦争は、
大東和共栄圏という思想と自由主義、民主主義という思想の戦争
であったのですが、これらの思想は、個人的な思想ではありませんから、
共同の幻想であると言えると思います。


三宝 投稿者:お留守居役様  投稿日: 3月 6日(水)19時14分50秒

私は、
境地としての仏、仏の境地は否定します。
実体としての法は否定します。
身分としての僧は否定します。
でも、仏教、とりわけ法然聖人と親鸞聖人は尊重しています。
歴史的にはお二方とも教祖であるという事実は存じていますが、
私にとっては、教祖ではないと思っています。
らくりんさんが言われるように、
救主は弥陀であり、釈尊は教主であるとすれば、
法然聖人と親鸞聖人は、なにになるのでしょうか。
教祖ではない宗祖でよろしいのでしょうか。
林遊さんは、御開山と言われているのは、この意味でと思われます。


25時間目 投稿者:お留守居役様  投稿日: 3月 6日(水)19時13分31秒

吉本さんが言われていることですが、
>文学は、日常の中でできなのなら、
>25時間目にやればよい。
私などは、25時間目に親鸞聖人と対峙しているつもりなので、
24時間内では、本尊すら掲げていません。
私なりの非僧非俗と思ってます。
逆に、24時間内で親鸞聖人と共に居られる方は、
僧でもあり、俗でもある者になるおそれがあると危惧しています。

はからずも、三吉さんを擁護したようになりましたが、
大きなお世話でしたでしょうか。


エンジョーイフットボール 投稿者:ぐっちん  投稿日: 3月 6日(水)19時09分30秒

 サッカーとサッカー評論は違います。

 この板では、管理人らくりんさんのご趣味(?)によってサッカー、バレー、相撲、
ホッケー、どんな話題もオッケーだと勝手に推測してます。

 さて、サッカー評論からサッカープレイヤーになる可能性はあります。しかし、別に
サッカー評論をやり続けていても構わないと思います。

 が、サッカーグランドである人が、ボールを手で持ちドリブルしながら審判に突進して
いったとします。他のプレイヤーは「お前、いったい何やってんねん?」とたしなめられ
ることでしょう。

 本人、あくまで「オレは、サッカープレイヤーだ」。。。

 「正定聚の数に入る」というのは往生人の仲間に入るということではないでしょうか。
また往生人の歴史に参加するということではないでしょうか?それは、「共同性」を
形作っているとはいえないでしょうか?

 「親鸞聖人は、共同幻想としての宗教を解体して個人幻想にした」という吉本さんの
理解は、サッカー評論なのだと思います。(本人は不信の側にいらっしゃるとご自分で
語っておられますし)

 「幻想」がある種の暴力性(お前なんか、仲間に入れたれへーん!)を帯びていると
仮定すれば、「個人幻想」って一体なに?自分が、ひとりで抱いている自分に対する
暴力?自己疎外ってこと?

 何のこっちゃわかりませんな。人は何のかんのいっても「ひとり」なんだよ。往生人
の仲間なんかみつかるわけねーよとおっしゃりたいのかな?

 じゃあ、誰に向かって自分のコトバをしゃべっておられるのだろうか、吉本という人は。
「ねー、きいてよ、きいてよ」っていうのは吉本読者というコミュニティを想定している
のではないでしょうか。

 で、サッカー評論としても吉本氏は「まとハズレ」だと思います。


ことばに関する基礎講座 投稿者:ぐっちん  投稿日: 3月 6日(水)18時20分34秒

 記号論一般に関する分類。コトバには三つのレベルがある。

 @統語論(シンタックス)・・・文の基本となる語をいかに組み合わせたらまともな文に                   なるかという語から文への形成の規則(文法)を確定する

 A意味論(セマンティックス)・語と事物との関係、文と世界の状態との関係を明らかに
                すること。指と指のさす月。

 B語用論(プラグマティックス)文をいかに用いたなら、ある文脈で実際に何かを意味した
                ことになるのかを確定。

 ある文化圏内にいる者たちは、棒を(棒というコトバがそこにはまだないと仮定する)薪と
して使う。すると、その者たちは長い棒と短い棒を同種のものとして認識する。

 別の文化圏内にいる者たちは、棒を杖(これもまたコトバとしてはまだ無いと仮定する)と
して使う。すると、その者たちは、木の棒と竹ざおを同種のものとして認識する。

 ゆえに、「物の名前」とはあらかじめ、「客観的世界」に存在しているものにくっついた
名札のようなものではない。文化が世界を文節する(切れ目を入れる)。言語名称目録観の
否定。

 で、「語」は実際に共同体において使用されることによってその意味を帯びるようになる。
そして「物」も同じく共同体において使用されることによって意味を帯びるようになる。

 さてコトバはまずは、大人たちによって子供たちに教え込まれる。ときどき、調子を外す
がおおむね大人たちの使うコトバとモノと意味の連なりを受け入れるものが、その社会の
成員とみなされる。

 大人たちが確定した「棒」というコトバを「つんつくつん」と呼ぶ子供は、「お前はあほか」
と怒鳴られ、正しいコトバ使いに調教される。また、「棒」をゲバルトに使う子供に対して
「このコリクツ放蕩暴力息子が!!」といって罵倒され「棒」を取り上げられる。

 以上、コトバにおける共同幻想論おわり?


菱木 投稿者:ぐっちん  投稿日: 3月 6日(水)17時57分50秒

 政晴せんせ云わく

 「もはや、自分をよしと立てる必要がないほど確かなものに触れた。。。」
 「法の深信は、機の深信におさまる」(このオリジナルは曽我せんせか?)


おしょうね抜き。 投稿者:ぐっちん  投稿日: 3月 6日(水)17時53分52秒

 共同幻想/対幻想/個人幻想という道具立てで、何の正体が明らかになるのか
さっぱり、わっかりましぇーん????

 少なくとも2002年の日本で、光州事件も天安門事件も起こってないけど、ことさら
「国家」という暴力装置に対する認識がなぜ今必要なんでしょうか?

 それより、不況とリストラで会社をクビになった人は、国民健康保険や国民年金に入らな
あかんけど、こんなええ加減な「三方一両損」は無い!と怒る方がリアルポリティークだと
思いますけど。


真理と幻想 投稿者:ねこ  投稿日: 3月 6日(水)17時28分43秒

ネコです。とりあえず目を通してはいますが、話題の転換が早いので、
投稿しようかと思ったら、たいていはすでに一ヶ月遅れです。

最近の幻想論争は、あまり理解していません。それで質問させて下さい。

幻想について語るとなると、その前提として、幻想ならぬ真理が確認されている必要が
あるかと思います。少なくとも、幻想について語る方は、幻想ならぬ真理について
何らかの認識を得ておられるはずだと思います。

それでは幻想について語る方は、どのような真理を認めておられ、
その真理と、どのような関係にあられるのでしょうか。
この点についてお話し頂ければ、ネコにも、もう少し議論が透明になるかと期待しています。

そんなことを考えていたら、ようやく下記のご投稿で、この点についてふれて頂けました。
(あるいは、斜め読みのため、これまでにも読み落しがあったかも知れません。)

ですが、私としましては、まだ不十分な気がしています。
要約しますと、「不可思議(真理)とは、共同幻想(言葉)を疑うこと」とのことですが、
私の考えでは「幻想を疑う」ことは、まだ幻想の一部であって、幻想ならぬ真理を示す行為には
なりえていないからです。

おそらく、真理と幻想は対概念ではないでしょうか。念仏のみぞまことにておわします。
真理に打たれたときに、初めて幻想はそれとして一気に全体的に明らかになるのだと思います。
そして真理は、釈尊の光顔魏魏とした姿を阿難が発見したときのように、端的に直接的に到る
ものではないか―と、私は考えています。

専門家ぞろいの場所かと思いますので、聞きかじった門徒の愚問のつもりで
お答え頂ければ幸いです。


バタバタしてます 投稿者:らくりん  投稿日: 3月 6日(水)17時26分05秒

とめどなくあふれ出る言葉の群という感じですね。
ここんとこずっと留守がちなんですが、おかまいする必要もないようなので
管理人としては「ご自由にどうぞ」というところです。

それはそれとして、某兄弟板になつかしのあのお方が登場してました。


思いつくままに・・・ 投稿者:三吉  投稿日: 3月 6日(水)07時57分09秒

−コトバを共有していること自体が「幻想」の共有−

「言葉の問題」は、やっかいです。一つの言語体系は、その思考を規定する
ということはあるかもしれない。少なくともある種の影響は免れえないの
かもしれない。
私の知り合いに、京大に入ってすぐやめて白虎社に行ったひとがいるが、
その人は、「言葉」で表現すると、すべて「こちら側」に取り込まれて
しまう。だから「言葉」ではなく、「背中」「筋肉」「肉体」で、表現
を試すとか言っていた。
私は、「こちら」「あちら」にマンガ「ボーダー」の蜂須賀先輩を感じた。
蜂須賀先輩は、「こちら側の常識」である市民社会の論理に抵抗し、いわ
ばのた打ち回るようにして社会の底を這いずり回り、「自己」を確保しよ
うとした。
いわば「こちら」とは、「共同幻想」であるかもしれない。
竜樹は、佛教の根幹を中論で「十二支縁起」ではなく、「八不の縁起」を
あげているが、「〜ではない」でしか表現できない真理ではないかと。。。
とすると、佛教のいう「不可思議」とは、「こちら」「共同幻想である言葉」
そのものを疑うことかもしれない。

−仏教者が政治・経済云々言い出したらそれこそ国家の思う壺でしょうな−

実際のところは、佛教は政治・経済を初期から云々していたりするので、この
見解は単なる無知にすぎないが、ここには、「こちらに取り込まれる」という
大事な点を捉えていると思う。だが少しずらして。。
実のところ、人が多数集まれば、政治は自然発生する。
あるいは人が生きていくうえで経済は拒否できない。
それは世間の論理を廃し、「世間虚仮」とみなした釈尊集団内も例外ではない。
釈尊の集団は、グループ内の経済は「共産制」に近い。
働くことから自由になった出家の経済活動は「乞食」が主であるが、
貰ったもの、布施されたものは、「地域さんが」で平等に分かち合った。
モノを決める時は、表面的には「多数決」が採択された。
ある種の政治工作(正しいほうが多数を得るように、説得工作)は推奨されたが
内部は「こちら側−娑婆」とは違った社会規範で運営されていた。
いわば王法の埒外にコミューンを現出したようなものである。

そして「こちら側」には「こちら側の論理」を認めた上で、
経済活動に関しては、「勤勉」たれ。「情報」を制せよとアドバイスし、
「財の獲得」を肯定した。
王権に対しては、国王の本質は「人民に対する奉仕」と、つまり
一種の社会契約説の立場をとり、「大衆によって推挙」されて、
「大衆から供養」を受け、「大衆の安全を守る偉大な人」であった。


三吉さんへ 投稿者:Genko  投稿日: 3月 6日(水)01時44分05秒

>イメージとしては、常識的な宗教感覚では修行を頑張っているヤツほど、
>あるいは、信心がふかければ深いほど。。
>悟りとか救済に近いのですが、親鸞は、それを解体するわけです。
>みんな同じだと。(正確には、同じだと思えず努力しちゃう人は差別される)
>常識的な「宗教の解体」とか「信の解体」ではないかしらん。

その通りです。決してご懸念の「先走り」ではありません。
ですから、

>「国家にとって「真の仏教徒」程、扱いにくいものはないでしょうね」

といわれるときの、「真」を明らかにするためには、しかるべき迂回路を経巡らなければ辿り着けなかったのです。


推測 投稿者:三吉  投稿日: 3月 5日(火)22時13分16秒

「国家にとって「真の仏教徒」程、扱いにくいものはないでしょうね」

というのが、Genko さんの本音というか、目指されているところでは
ないかしらんと思いますが。。。

つまりそれが、「親鸞聖人は、共同幻想としての宗教を解体して個人幻想」にしたと。

吉本さんは「非僧非俗」を軸に語られているように、記憶しますが、
どっちかというと「道俗時衆共同心」じゃないかと私は思いますが。。
イメージとしては、常識的な宗教感覚では修行を頑張っているヤツほど、
あるいは、信心がふかければ深いほど。。
悟りとか救済に近いのですが、親鸞は、それを解体するわけです。
みんな同じだと。(正確には、同じだと思えず努力しちゃう人は差別される)
常識的な「宗教の解体」とか「信の解体」ではないかしらん。

それか単に、歎異抄の「一人がためなり」なのかな。

暇に任せて、先走りしすぎですな。反省。


残念至極 投稿者:おじき  投稿日: 3月 5日(火)22時12分42秒

>三吉さんは、この掲示板や他の掲示板で何を書いても、そのことが次の日に
>あなたの職場で話題になることはないでしょうが、
 (中略)
>その「トホホ」とは無縁のところに身を置きながら、
>「トホホ」なところで苦心している人間をせせら笑って何が面白いのかね。

三吉さんには上記のらくりんさんの言葉はついに届かなかったみたいですね。


戯言 投稿者:三吉  投稿日: 3月 5日(火)21時44分33秒

一般的に左翼は宗教の意義を認めません。
オールド左翼が政権とれば(まずありえない)、
まあ弾圧はしないでしょうが。。。
じゃあ、佛教を名乗るならば、本来の姿しかみとめん。
肉食妻帯も禁止。250戒きちんと守ってもらう。
当然、金を出家が持つのはだめだし、葬式などするのは
もってのほか。
個人の内面的な信仰までは奪えませんが、
真宗教団に経済的な大打撃を与えるのは可能かもしれませんね
真宗は在家仏教ですから、妻帯・肉食も自由でしようけど、
「墓守」「葬儀」「永代供養」などを非真宗的と禁止したら、
今のお坊さんたちは、どれくらい残れるかココロモトないですね。

葬儀などの習俗は地域のシルバーさんが、まあ1万円も出せば、
導師勤めて問題なくできるでしようし。。ね
月参りも1件1,000円もあればシルバーさん喜ぶだろうし。。。
ホームヘルパーならぬ、声明1級とか2級とか。。。

ちなみに私は吉本の親鸞解釈に違和感を感じるものの、
彼が親鸞好きであるのは間違いない。
彼のお爺さんが熱心な御門徒さんらしいですよん♪


つづき 投稿者:三吉  投稿日: 3月 5日(火)21時22分31秒

「対幻想」とは、私の理解では、
「〜に対する幻想」ではなく、「つい(ぺあ)となった幻想」です。
ですので、「対となった幻想」における暴力は、男女間でいえば、
男女間に婚姻なり恋人なりの関係が前提されます。
そこにおける幻想化された暴力とは、その男女間において、暴力と
認識されていないが、実は暴力であるということです。
恰も家父長制において、父が権力を持ち、父の暴力が家族全員に
正当と認識されてはじめて「暴力」は幻想になっていると私は
解釈します。夫婦・恋人間の暴力もしかり。
ですから私は、「男女間で、お互いが認めている暴力」を対幻想の
暴力と思います。

「一目惚れ」やその「自己表出」は、私の感覚では「個人幻想」の
領域ではないかと思います。それは、単なる「自己表現」ですので
如何なる「妄想」も自由ですし、その妄想が、独りよがりであれば、
「対幻想」へと連続する機会がないままではないかと。

とすると、「ストーカー」とは、「個人幻想」の領域なのであるが、
現実のストーカーを見ると元旦那とか、元恋人が多数を占めるそうで、
厳密にいえば単なる「個人幻想」から「破綻した対幻想」まで幅があ
るのかもしれません。

「DV」は、夫婦間での暴力で、「対幻想」としては、
振るう側からすれば、「愛」のでしょう。
だがその「対幻想」の「幻想」が剥がれ落ちたから、
それは「愛という名のラッピング」の合間から「暴力」
「支配」がみえてくるのでしょう。
逆に、O・ヘンリーの短編に、二組の夫婦が出てくる話があり
ます。元気なほうの妻は、旦那から「暴力」を振るわれまくり
ます。そして暴力を振るった次の日は決まって、優しくなり、
妻にプレゼントを買ってきてご機嫌を取り結ぶのです。もう
一方の妻は、その暴力を愛に満ち充ちた生活とうらやましく
感じ、まったく暴力を振るわない自分の温厚なばかりの旦那の
ふがいなさに「愛の不足」を感じます。
ここでは前者夫婦には「対幻想」が生きていると、私は感じます。
−暴力が対の幻想となると、それは暴力でなくなる−
−暴力が個の幻想ならば、その人にとってのみ暴力ではない−

付言しておきますれば、国家がなくなっても、「暴力」は止揚されな
いというのは賛成しておきます。
ただ、私の問題領域は国家や愛のような幻想化しうる「暴力」。
それは正義・法・必要悪・愛とか、プラスとして煙幕をはられ、
「暴力」たる本質を偽装する「暴力」が問題となると思います。

この辺を整理したら「幼児虐待」における「親権」、「躾」と
「暴力」の関係とか、わかりやすくなるのではないかと
個人的には考えております。


ちと修正します 投稿者:三吉  投稿日: 3月 5日(火)21時21分02秒

朝の走り書き。。。私の文の方が混乱しているというか、雑すぎますね。
しかも元々、粗雑な頭の上ですから。。。

さて私の感じた概念の混乱は、
「幻想」とは一体全体なんであろうか、からはじまります。
「幻想」とは「観念」であり、現実の力ではありません。
ですから、「国家=暴力」とは、国家は実体のあるものではなく、
「観念」であり、その本質は、国境でも法律でも政府機関でもなく
「共同の観念」である。それが「幻想」の「正体」であると。

ある種の「暴力」を幻想と解釈する場合、
「共同の幻想」とは、ただの暴力が、暴力以上の「権力」「権威」など
という価値を持ち、一般にその本質たる「暴力」が見えない場合、
「暴力」が「幻想化」しているといいうると思います。
それが「国家」であったりするわけです。
レーニンを読む以前の高校生であった私は、国家とは、市民の健康や
財産を守るものであり、「暴力装置」ではありませんでした。
暴力が暴力として如実に扱われる場合、それは幻想ではないと
私は思います。
戦争行為にせよ、原子爆弾投下にせよ、共同の幻想として
正義である限り、それは暴力とは受け止められない。
例えば、アメリカの教科書は原爆を、米兵に被害を増やさず、
速やかに戦争終結するための「正当な行為」と書いてるそうです。
−暴力が共同の幻想になると、それは暴力ではなくなる−


出世間 投稿者:おじき  投稿日: 3月 5日(火)20時58分21秒

左翼親派のみなさんには親鸞さんは受けるようですね。
まあそれも一つの見方とは思いますが・・・。
僕には吉本隆明が親鸞さんをどう見ようが何の関心もありません。
吉本の自説を親鸞さんに語らせているだけでしょうから。
仏教の考え方には国家が悪で大衆が善みたいな階級闘争的なのもはありませんよ。
仏教徒は仏・法・僧の三宝に帰依し、世間の「全て」を「仮なるのも」と考えます。
仏教者が政治・経済云々言い出したらそれこそ国家の思う壺でしょうな。
出世間の視点=初期仏教では戒・定・慧の三学、聖道門では六波羅蜜の修行、
浄土門では弥陀の本願、を信仰の根幹において生活するのが「仏教徒」です。
国家にとって「真の仏教徒」程、扱いにくいものはないでしょうね。


>お留守居役様さんへ 投稿者:ぐっちん  投稿日: 3月 5日(火)18時27分57秒

 >親鸞聖人は、共同幻想としての宗教を解体して、
 >個人幻想にした、というふうに解しています。

 とこうなると、らくりんさんがいわれる「往生人の歴史に参画する」(だったか?)
とかについては、どう思われるのですか?ぐっちんなんかは、コトバを共有していること
自体が「幻想」の共有だと考えていますけど。

 宗教が「個人幻想」というのは「神の前に一人立つ」みたいな感じのことでしょうか?


追加 投稿者:ぐっちん  投稿日: 3月 5日(火)18時09分42秒

 ↓何か書き間違えました。ここでは、Genkoさんの引用を肯定してるのです。

 で、制度としての国がなくなれば教育を受ける権利もありません。違うことを言いたかった
のですが、忘れた。。。


ゆーとびあ。 投稿者:ぐっちん  投稿日: 3月 5日(火)17時56分04秒

 やっとこさ、追い着いたかな?

 Genkoさんの
 
 >「国家=共同幻想」が消滅した暁に制度としての「暴力」が無くなっても、
 >「個人幻想−対幻想」の実現過程で表出される「一般的<暴力>」がなお残存し
 >続ける限り、共同体がそれを規制する媒介役として、再び「国家的なるもの」の
 >超越的第三項(=他の共同幻想)を用意するのではないか、という疑義を呈した
 >かったまでです。

 制度としての国の暴力がなくなったとして、教室の中で「イジメ」にあってる生徒は
社会が発するメッセージ「学校へ行かないやつはおちこぼれ」というのを真に受けて
苦しみ、果ては自殺したりなんかする。やめようにもやめるふんぎりがつかない子にとって
は、学校制度=普通教育という教育を受ける権利もしんどいもんとちゃいますかねえ。

 オンナの人に浴びせられる(た?)「いかず後家」も「産まづ女」も「おんな腹」も
恐ろしい暴力であったような。結婚=オンナのしあわせ、出産=オンナのしあわせなんて
いう幻想がはびこっているから。

 「国家」が消滅しても、手強い幻想が次から次へと出て来ます。人間が、無人島で一人で
暮らす以外は、何らかの共同生活が避けられず、ミクロな次元で「共同幻想」が発生し、一種
の「制度」として出現すると思いますけど。

 「パラダイス幻想の断念」が、必要だと思いますけど。


バーチャルな身体 投稿者:ぐっちん  投稿日: 3月 5日(火)17時09分01秒

 人工臓器からES細胞の利用などなど。再生医工学の進歩(?)はめざましい。
サロゲートマザーなど生殖をめぐる医療も忙しい。なんだか、バイオニックジェミーが
現実に現れそうな勢い。

 さて『マス・イメージ論』で吉本さんは本格的にサブカルチャーについて論じ、消費
社会を肯定したものと思われます。オトコたちが過剰なことばを紡いで「自己実現」しようと
するのに対してオンナたちは過剰にカラダを装って「自己実現」を果たしました。

 エステ・サロン、ヘア・サロン、ネイル・サロン、近頃はプチ整形などなど。。。
しかし、中島梓さんの『コミュニケーション不全症候群』91年筑摩書房刊・95年ちくま
文庫再録には、社会が強制するモデルに自分の身体を合わせすぎ、ダイエットが行き過ぎて
摂食障害(過食症・拒食症)を起こす女性達の姿が描かれていました。

 これなどは、(男性支配)社会の共同幻想への過剰適応症なのだと思います。
(みんながみんな米倉涼子には成れん、ちゅうに。。。)


昔の中味で出ています 投稿者:ぐっちん  投稿日: 3月 5日(火)16時40分49秒

 ゲバルト
[独語 Gewalt (力, 暴力) ]学生・新左翼運動の用語で, 国家権力に対する実力闘争

 またまたムツカシイ話が続いております。独語も仏語も米語も希語も羅語も梵語も巴語も
解さない私のオツムにはさっぱりの内容であります。サヨク側に立てば、「ゲバルト」は実力
行使であり、国家側にいわせれば暴力(マイナスイメージ)である。

 帝国主義の起こす戦争は悪い戦争で、革命に導く内乱は良い戦争みたいなレーニン(?)
だったかの本を読んで、「こんな業界からは足を洗おう」と日共からお給料をいただいていた
私は思いました。

 
 さんきっつぁんのいわれる「男女間の暴力が、「対幻想−個人幻想」としてテーマになる
ならば、それが「正義」あるいは「プラス価値」として認められなくては成立しないと思う」
ということについて。
 
 カウンセリングの臨床家たちの中には「愛という名の暴力」とか「愛という名の支配」と
いう言葉が出てきています。こういう妻たち、子供たちの「異議申立て」にオトコたち、
親たちはあまりにど・ん・か・ん。


<幻想>について(続々々)   投稿者:Genko  投稿日: 3月 5日(火)13時57分52秒

ただし、私との立場の違いは、

>共同幻想が消滅すると対幻想と個人幻想が残ることになります。
>原則的には、男女とか家族などの性的な関係には、
>暴力とか、ウソとかは存在しないと言えます。
>サディズムとかマゾヒズムとかは、暴力ではないと思います。

とお留守居役様が或る日のカキコで表明したので、それはあまりに短絡的な楽観論(理想主義)ではないかと思い、「国家=共同幻想」が消滅した暁に制度としての「暴力」が無くなっても、「個人幻想−対幻想」の実現過程で表出される「一般的<暴力>」がなお残存し続ける限り、共同体がそれを規制する媒介役として、再び「国家的なるもの」の超越的第三項(=他の共同幻想)を用意するのではないか、という疑義を呈したかったまでです。


<幻想>について(続々)  投稿者:Genko  投稿日: 3月 5日(火)13時04分16秒

「政治」というこの共同幻想の処理過程で表出される手段が「権力」であり、従ってそれはまさに「暴力」に他なりません。<国家=暴力装置>というわけです。お留守居役様は、そのことがよくお分かりの方です。
しかるに私は、一般的な<暴力>論を対置していたので、最初に意味の混乱が生じたのです。
ソシュールの言う「<ラング>と<パロール>」との違いでした。


<幻想>について(続) 投稿者:Genko  投稿日: 3月 5日(火)10時49分43秒

従来多くの文学作品等で、この実現過程が表出されています。
要するに<対幻想>の「実現(表出)過程」とは、いわゆる<恋愛>のことです。
男女双方の幻想が、たまたま一致することを、私達はしばしば「相思相愛」と呼んだりします。

>共同幻想としての暴力=国家権力とは、
>目覚めた人以外は、それは多くの人に「認められている」。

おっしゃる通り、「<国家>なるものが在る、いやかく在って欲しい」という各人のこの幻想間の認知の集合体が、<共同幻想>です。
これを私達はしばしば、「ナショナル・コンセンサス」と呼んだりします。

いずれにしましても、この段階(実現過程)までは本質論に過ぎないのであって、まだ価値論の問題とは言えません。それらの<価値>が問題になるのは、処理過程においてです。
即ち、<国家=共同幻想>が既に実現されてしまっている以上、「政治」とは、共同幻想の処理過程のことです。


<幻想>について 投稿者:Genko  投稿日: 3月 5日(火)10時20分00秒

>「ことばの暴力」とか「ストーカー」や「DV(=ドメスティッ
>ク・バイオレンス」などは、マイナス価値。どちらかというと
>「非法」なのであるから、これは、「幻想」として成立していない
>と思います。

ですから私は、各幻想領域の「実現(表出)過程」と表現しているのですが・・・。
平たく言えば、自己や他者は容易に分からない存在だから、それを了解する前にあらかじめ幻想を持っていたり、特有の幻想が湧いてくるといった感じでしょうか。
例えば、<対幻想>だったら、あなたはかつて一人の女性に「一目惚れ」をしたことがきっとおありでしょう? 相手のことがまだよく分かってないのに惚れてしまうのは、自分の中に「相手がきっとこういう女性だ、いやそうあって欲しい」というふうに、どんどんイメージが膨らんでいくことに他なりません。それが<対幻想>の端緒です。あとは、それを自己実現すべく、相手にデートを申し込んだり、電話をかけたり・・・と行動に移していくわけです。これが、<対幻想>の「実現(表出)過程です。問題なのは、これが、多くの殺傷事件や情痴沙汰の元になることです。
何故なら、相手方の方もまた、あなたや第三者に対して、別の幻想を持っているからです。DVやストーカー事件などは、主に<両者の幻想間の齟齬>ないしは<一方の他方に対する幻想の崩壊>から生じます。


(無題) 投稿者:三吉  投稿日: 3月 5日(火)08時01分58秒

概念の混乱を感じる。
共同幻想とは何であろうか。。。
それは、根拠はないが、共通に認められるという前提があると思います。
共同幻想としての暴力=国家権力とは、
目覚めた人以外は、それは多くの人に「認められている」。
とするならば、男女間の暴力が、「対幻想−個人幻想」としてテーマ
になるならば、それが「正義」あるいは「プラス価値」として認
められなくては成立しないと思う。
暴力の有無ではなく、「幻想」という限り、国家権力の暴力が「合
法」であるのと同じく、男女間で「男が暴力を振るうのは当たり
前」とか「愛の鞭」とか。あるいはSMにおける「相互信頼であ
る」とか。
「ことばの暴力」とか「ストーカー」や「DV(=ドメスティッ
ク・バイオレンス」などは、マイナス価値。どちらかというと
「非法」なのであるから、これは、「幻想」として成立していない
と思います。
いわば「暴力」が「使用価値」である「暴力」以上の意味を「国家
権力の合法・正義」や個人間の「愛の鞭」やSMにおける「信頼」
のようにもつところに、「幻想」の「幻想」たる由縁がるのではと
私はおもうが。。。


お留守居役様 へ  投稿者:Genko  投稿日: 3月 5日(火)01時31分26秒

試しに手元の英和辞典などを引いてみますと、英語の「violence」は、@猛威・強暴、A暴力・乱暴・暴行、B冒涜・歪曲、などと言った訳語が並んでいます。
私らの学生時代にも、ドイツ語で言う「マハト(=国家権力)」に対する「ゲバルト(=民衆の抵抗力)」という風によく使い分けをしていました。
ご承知のように、日本語の難しさは、ある特定のシチュエーションの文脈(=ディスクール)下で、同じ語でもシニフィエの変化性が激しいことです(シニフィアンについても種類が多いが)。近代化以後の日本語(特に二文字漢字)は、そのほとんどが元「外来語」の訳語ですから、言語として充分な自然史的過程を経ておらず、常に混乱と誤解の体系なのです。
確かに私達は、デモ等で警察(国家権力)に対して、そういう意味合いを含んでしばしば「暴力をふるうな!」と言いますが、その一方でなんば道頓堀で突然酔客が通行人に殴りかかって来た場合にも、ついつい「暴力はやめろ!」と注意(制止)してしまいます。
後者の場合でも、本当は「暴行(傷害)をやめろ!」と言いたいが、これだと日本語表現としての<落ち着き>が悪く、いまいち迫力がありませんね。(というか、こっちの方がよほど役人的なニュアンスです。)
これが、ディスクールにおける言語の「特殊性」と「一般性」の違いです。
私達の言語生活は、たとえその語の政治性が了解出来てはいても、生活過程ではまず言語様式の「一般性」が先立ちます。つまり、言語こそブルデューの言う「ハビトウス」(=社会的慣習行為)の代表格なのだからです。
ただ、このサイトは、一般に開放されてはいてもある種の限定目的を持ったBBSですから、「特殊性」をこめた言語の運用が暗黙に了解されています。
が、往々にしてシニフィエについての合意形成が不充分だっただけとも考えられます。むしろ、ディベートの必然性は、まさにここにこそあると言えるのではないでしょうか?
ですからこれは、必ずしもお留守居役様だけのせいではないと思います。


ねんのため 投稿者:お留守居役様  投稿日: 3月 5日(火)01時03分29秒

吉本隆明「情況−畸型の論理」
昭和45年11月25日初版発行136〜7頁

(前略)
(加藤らの起草にかかる「大学法案反対東大の見解」を引用して)

 これはいったいなんのことだ。
学生たちが集団的な<暴力>をふるったら、
現行法でも機動隊をよんで排除できるのだから、
大学法案はいらないといっているだけではないか。
しかしそれよりもひどいのは、
「大学はおよそ暴力と相容れない場であり、
 手段を選ばずに自己の主張を貫こうとすることは、
 動機の如何を問わず許されるべきことではない。」
などと鉄面皮なことを臆面もなく述べていることである。
(原文改行)
 加藤一郎は、そして、<東大>は、
自衛隊をのぞけば最大の武装力をもった機動隊・八千五百人の「暴力」を
「手段を選ばずに自己の主張を貫こうとする」ために大学構内に導入し、
それによって学生たちを傷害し、不具にし、拘置所におくって排除した
最悪の<元凶>だということを度忘れしてしまったというのか?
(原文改行)
 もちろんわたしは、アメリカ法的なプラグマチズムの立場にたつ
不法行為法の研究者である加藤に
ほんとうの<暴力>というものは、現在の世界では、
さまざまな政治体制をもった
(つまり社会主義とか資本主義とかいう体制をもった
<国家>の暴力のことだけを指す、
という見解に同意すべきだなどという野暮なことをいわない。
法家としての加藤にとって、現在のわが法的国家は、そのまま法的な先験性であるから、この先験性を擁護するための<暴力>(機動隊などの)は暴力とみなさないとかんがえられているとしても、それはこの際それでいい。大多数の大衆もまたそうかんがえているのだから。
(以下略)

>大多数の大衆もまたそうかんがえているのだから
ということは、
><国家>の暴力のことだけを指す
というのは、少数の業界人だけが、考えていることで、
つまりは、左翼常識と言うことだと解釈しています。


反省しています。 投稿者:お留守居役様  投稿日: 3月 5日(火)00時19分01秒

60年安保当時、
マスコミが「暴力学生」と呼んだのに対して、
暴力とは、権力の側が行使するもののことで、
権力に対する反逆は暴力とは言わない、
という発言を読んだ覚えがあります。
吉本さんかどうかは、はっきりしませんが。
ですから、「暴力=権力」というのが、左翼常識だと思ってました。
この常識をぐっちんさんもご存じないようなので、驚いています。
ですが、国家の暴力と男女間の暴力行為とは、
次元が違うから当然ですが、質的に違うものだと思っています。
この質差を前提にして共同幻想としての暴力を問題にしたつもりなのです。
また、レーニンの「国家と革命」に言う、
暴力機関としての国家、国家の暴力機関としての軍隊、警察などの
イメージがありましたので、権力は暴力であり、
暴力は権力であるという語感を持っていました。
これが誤解のもとと反省しています。
反省と言えば、
サルトルが言う「反省的意識」について話していたら、
反省するのなら改善を目指すべきではないのか、
と言われて、ビックリしたことがあります。
哲学用語で「反省」といえば、たんなる「反射」のことで、
道徳的意味はないのですから。
業界用語を使うときには、気を付けようと思いました。


再掲:お留守居役様の正しい呼び方 投稿者:お留守居役様  投稿日: 3月 4日(月)23時12分02秒

あるチャット的に賑やかな掲示板で、
たまたま誰も来なかったときに、独りで書き込んでいて、
留守番みたいだったことから連想して、
以来、お留守居役様と名乗ることにしました。

↓前にここに書いたものを一部修正したものです。

お留守居役様の正しい呼び方

お留守居役様を呼ぶときは、
「お留守居役さん」でも「お留守居役様」でもよいですけど、
正しくは、「お留守居役様さん」、あるいは「お留守居役様様」とお呼びください。
なお、「お留守居役様々」と表記するのは、失礼ですからやめましょう。
「さまざま」じゃあないから。
ふりかけのテレビCMで「シャケさまさま」というのがありますが、
愉快ですね。
ちなみにある友人は「おズルイ役様」と呼びますが、
訳あってのことなので可としています

「留守居役」というのは、大名の家来で、江戸屋敷にいて、
殿様の留守を守るものの役職名だそうです。
江戸幕府と国元との板挟みになる役職で、苦労があったと聞いています。
江戸幕府の役人や他の大名家の留守居役と折衝したり、
江戸の商人と交渉したりしました。
江戸でそれらの人たちを接待するのには、
江戸の文化、芸能などに通じていなければなりませんでした。
洒脱な都会人でなければ務まらなかったと聞いています。
司馬遼太郎「竜馬がゆく」に登場する
薩摩の益満休之介という侍のイメージです。

なお、自称に「様」を付けるのは、
お仲間に「王様」「王子様」「王女様」などと
名乗る人たちがいたのと、
「留守居役」では語感が不安定なので、
「お留守居役様」と呼びやすくしているつもりなのです。
m(_ _)m


お留守居役様 へ。 投稿者:Genko  投稿日: 3月 4日(月)22時30分21秒

ここ数日あなたとの間で交わした議論は、私にとって二三反省させられることもあり、有意義なものでした。この場を借りて、かさねがさね感謝致します。ありがとうございました。
ところで、一つ質問があります。お差しつかえなかったら教えて下さい。
あなたのHN(ハンドルネーム)は、何故にその最後に「様」が付いているのでしょうか? 
いや別に「所詮HNなんて何でもアリさ」と言ってしまえばそれまでなんですが、普通私達は自分の固有名に、「様」は付けませんよね。つまらないこだわりですが、どうも前から気になって仕方なかったもので。お願いします。


ぐっちんさんへ。 投稿者:Genko  投稿日: 3月 4日(月)22時14分21秒

「一体どこへ着地するのでしょうか」というご質問ですが、
もしこの主語が「<私達>にとって」ということならば、「新たな関係の絶対性のあり方」及び「政治的リアリズム的感性の獲得」というテーマの両方について、先に紹介した柄谷の『トランスクリティーク』に既にそのヒントと解法がほぼ言い尽くされています。
また、そうではなく「<私>にとって」ということならば、今現在がまさにその答えです。
即ち、真宗という「信仰することと信仰しないことがほとんど同一であるところ」(吉本隆明)に立脚し、リアル・ポリティークな事象についてここでときどき語っています。


ありがとうございます 投稿者:なまぐさ  投稿日: 3月 4日(月)22時10分13秒

らくりんさん、ぐっちんさん、ootuboさん、そしてこれから書き込みくださる皆さん。
今日は大変疲れていますし、明日から同朋会館(合同学習会)ですから、金曜日以降に質問させていただきたいと思います。
明日から、全力で聞法信心談義したいな。いや、できたらいいな。


愚考 投稿者:ootubo  投稿日: 3月 4日(月)21時28分09秒

1 すでに出ましたが、一番関心のある人に話をする。
2 すべての人が真宗に関心があるわけではない。
  信仰の違う人もいれば、宗教に関心のない人もいるだろうし、義理で嫌々
 その場にいる人もいるのでは。自分の話をその場の人すべてが聞かなければ
 いけないと思うのは幻想では。  
3 話に関心の無さそうな人は、法話の後の休憩で本人からでも知人からでも
 その人のことを尋ねる。年齢、職業、趣味、信仰など。こちらが興味を持て
 ば相手も感心を多少なりとも示すのでは。また、その人の関心のあるテーマ
 から法話を始められるのでは。


寒ぶ軽ちゃー 投稿者:ぐっちん  投稿日: 3月 4日(月)17時53分42秒

 「先進」資本主義国の市場で、音楽や映画の分野にはアメリカを中心とする英語圏の
商品があふれています。で、メイドインジャパンのものでシェアを誇っているものを探すと
これはアニメでありゲームソフトです。

 オタクたちがつくりあげた、グローバリズムの一角を占めるソフトたちは、すでに日本
の伝統や文化から切り離された、つまり唯物史観や帝国史観といった「正史」には位置付け
られないものとなっています。

 紙や写真、レコードといった媒体から、ビデオ・CD・DVDそしてパソコンといった
人工身体・人工世界へ。<消費という自己実現>の時代であります。<わたし>という
ものの輪郭がつかめない。でも、とにかく流行の商品に身を任せてみればってとこです。

 『ピカチュウげんきでちゅう』や『シーマン』、『どこでもいっしょ』なるソフトは
話し相手をしてくれる「お話ゲーム」というジャンルを切り開いたそうです。

 さてそこで、Genkoさんのいわれる思わせぶりな「新たな関係の絶対性のあり方」
や「政治的リアリズム的感性の獲得」という言葉は、一体どこへ着地するのでしょうか


>なまぐささんへ 投稿者:ぐっちん  投稿日: 3月 4日(月)15時34分35秒

 はじめまして? え〜と、ぐっちんなんかは、お通夜とかで意外と
若い人がじっと聞いてるという手応えなんかを感じたりするのですが。。。

 ほんで、昔、森岡正博さんという生命学という学問をやってるせんせの
本でメディア論を読んでて感心したことがあるのですが。

 それは、若い子らのパソコン通信(旧い言い方!)とか携帯電話のやり取りは
「情報通信」をしてるのでなく「意識通信」をしているのであると。

 まあ、電車とかで隣のおねえちゃんらの会話はどうでもええような、しょうも
ないことしゃべってんな〜という印象ですわ、おやじからすると。

 けど、しょうもアル話ばっかりしようとしますけど、いわば「ニュアンス」というか
行間というかを聞いてるんじゃないでしょうかね、若いひとは。らくりんさんいわれる
「ふり」して聞いているに近いかな?


(無題) 投稿者:ヒロヘロ  投稿日: 3月 4日(月)09時20分57秒

完全に論破されているのに、衆人がそれを認めているのになおかつ自身の正しさを主張し、
人をストーカー呼ばわりする人は「唯除」に近いものがあります。死んでも治らないでしょう。


非形而上学 投稿者:Genko  投稿日: 3月 4日(月)06時13分20秒

>>親鸞ほど普通の人、俗人と、僧侶、出家した人
>>との境界を取り払って解体してしまった仏教者はいない。
>>信仰することと信仰しないことが
>>ほとんど同一であるところまで解体してしまった。
>(『吉本隆明が語る戦後55年 7 初期歌謡から源氏物語まで
> /親鸞とその思想』(三交社)59頁)

>親鸞聖人は、共同幻想としての宗教を解体して、
>個人幻想にした、というふうに解しています。

この最後の結論の2行は、先の私の疑問(=宗教消滅後の「宗教形態」)に充分には応えてくれませんが、なるほどこれがお留守居役様の真意だったのですね。
(なお、引用の吉本さんの文章は、彼の「宗教論」の系譜中の私の最も好きなフレーズです。)
つまり「親鸞は<宗教>というものをとことん<相対化>し尽くしてしまった」ということです。
私は先日ここでの他のカキコで、この事態を便宜上、カント風のメタファーとして「超越論的統覚X」と仮に呼称致しました。いわば、「宗教の<オメガ点>」というわけです。
かくて、この<オメガ点>をくぐり抜け、今度は「カッコつきの<アルファ点>」から、私自身はニーチェ風に、「では、もう一度!」と出発し直すことにしたのです。
何故なら、この<アルファ点>こそ、換言すれば<佛>の謂だからです。


トートロジー 投稿者:Genko  投稿日: 3月 4日(月)05時45分14秒

>固有名詞」に対して「抽象名詞」というのは適当ではないと思います。
>ふつうは「普通名詞」というかと思います。

私としては、それでも一向にかまいません。では、今後は「普通名詞」という用語で行きましょう。

>「抽象名詞」という用語は耳慣れないですし、
>「抽象」に対するのは「具象」でしょう。
>出典、典拠がおありなのでしょうか。

この言葉の出典は、このところ私が通っている「日本語教師養成講座」の文法の講座で習った専門用語です。

>「主義」の例示としての「資本主義」は、適当ではないと思います。
>特殊な例で、「体制」とか「制度」であって、「主張」を意味していないからです。
>私有財産を守れとかの主張はありますが、「資本主義」は、
>「社会主義」に較べて「主義」らしくないと思います。

これは認めます。しかし、用例が適切でなかったことより、どうか私の真意を斟酌して下さい。

>例えば、「社会主義」「共産主義」は、どちらに属するのでしょうか。

このご質問に対する答えは、むろん前者(普通名詞)です。
何故なら、思想史を紐解くとお分かりのように、両者とも、サン・シモン、フーリエ、トーマス・モア以外にも、(それ以前から)歴史上いろいろな人物がさまざまにとなえてきたところのある種の思想の一形態に過ぎません。これを特定し、「固有名」にするためには、両者の用語の前に、必ず「だれそれの」を付さなければならないからです。

>「空想的社会主義」は、
>>さしてイデオロギッシュな意味を含んでいないか、
>>「名詞的」と言うよりむしろ「形容詞的」な用法で使用している表現形態に過ぎません。
>と言えるのでしょうか。

これは、単なる「社会主義」という言葉の語頭に「空想的」という名詞化された形容詞が付されていますから、かなり限定され狭められてきますね。何となく既述の「サン・シモン/フーリエの」
という固有名がアナライズ出来ますので、どちらかと言えば後者(固有名詞)に限りなく近いという感じがします。しかし、それも前後の文脈/語用次第でしょう。

>プラトニズムとイデアリスム、スターリニズムとファシズム、
>ナチズムとは言ってもヒットラーイズムと言わないのは何故かなど、
>私には、個人名を冠しているかどうかで「主義」を分類するのは、
>無理なのではないかと思われます。

ですから私は、こうした矛盾が極力起きないよう、「個<人>名」と言わずに、慎重に「固<有>名」と命名したのです。

>「荷担の因果は、秩序というものを支点としてめぐるのである。」
>(吉本隆明「マチウ書試論」)
>と言われているように、個人の自覚、善意とかを超えて、
>ある「主義」の立場の中に入ってしまうことがあるのではないのか、
>ということです。
>つまり、自覚的な「主義者」ではなくても、
>無自覚的な「主義者」でありうるので、
>>私はかつてどんな「主義者」でもあったためしはありません。
>と言えるのは、すごいことだなあと思った次第です。
>自分が何であり、何でないか、
>無知の知を知ることは、むずかしいことだと思っています。

まことにおっしやる通りです。
私もかつて大学で専門にしていた「哲学」が、まさにこのことを自らに厳しく迫る学問なのでした。
ですから、私も自分が<永遠回帰のトートロジー>の中に居ることの自覚として、表題に「主義が嫌い<主義>」と、自嘲気味に予告しておいたわけです。


「お留守居役様 」へ 投稿者:Genko  投稿日: 3月 4日(月)04時57分26秒

>ほんとうの<暴力>というものは、現在の世界では、さまざまな政治体制をもった(つまり社会>主義とか資本主義とかいう体制をもった<国家>の暴力のことだけを指す。(吉本隆明「情況」
>昭和45年11月25日初版発行137頁「畸型の論理」より)
>この言葉が念頭にあったので、
>共同幻想(国家)が消滅すれば、暴力も消滅すると申したのです。

ご親切に典拠を明らかにしていただき、まことにありがとうございました。

私事になり恐縮ですが、生活苦のために去年殆どの書籍を売却してしまったため、いま私の手元に吉本さんの資料は一冊もありませんので、この部分の前後関係を直に確かめられないのがまことに残念です。でも、かつて若い時に『情況』のなかの「畸型の論理」を読んだ記憶は、おぼろげながらあります。

それはさて、約15年程前に関西の有志数十名と共に「吉本隆明研究会」なるものを立ち上げて、広い視野で文献的な共同学習会をやっていた頃の記憶ですが、メンバーの誰かが「吉本さんが頻繁に使用する『ほんとうの〜』という形容詞(句)はなかなかクセモノで、相当注意がいるね」と指摘していたことが思い出されました。例えば「根源的な、真実の、大いなる、実際の」等々の含意を「前後の文脈に照らして、その都度適用し直さなければうっかりミスリードしかねない『ほんとう』が本当に多い」と彼は申したのでした。

ところで、当該の傍証部分では、いま確たることは言えませんが、吉本さんはおそらく、「(個人幻想や対幻想における一般的/擬似的な<暴力>に比べて・・・)」という、相対的な文脈のもとでこのことを特に強調したかったのではないでしょうか? 
それは、この文頭に例の「ほんとうの・・・」が入っており、この言葉の反意が「ほんとうでない、即ち<擬似的な>」ものの存在をにわかに窺わせるからです。
ですから、この引用文以下の、

>この言葉が念頭にあったので、
>共同幻想(国家)が消滅すれば、暴力も消滅すると申したのです。

というお留守居役様の結論は、やはり少しく飛躍に過ぎると感じざるを得ません。
吉本さんが余程非常識な人ならば仕方ありませんが、たとえ共同幻想が消滅しても、対幻想−個人幻想の実現(表出)過程で、一般的/擬似的な<暴力>が発動される可能性があることは、たれが考えても打ち消せませんよね。近頃は、「ことばの暴力」とか「ストーカー」や「DV(=ドメスティック・バイオレンス」などという流行語すらあるのですから。

ただ、次のあなたの文章を見て、ようやく了解することが出来ました。

>つまり、対幻想には、制度としての「暴力」がないと考えています。

ああなるほど。これならばOKです。
要は「(仮に)国家などの共同幻想が消滅した暁には、<制度としての暴力>がなくなる」と言いたかったのですね。
ということは、逆に言えば「(その後も)個人幻想・対幻想に、制度的ならざる<一般的/擬似的暴力>は存在し続ける」と言表することが出来るわけですね。
これで私のあらかじめ言いたかった結論と、いみじくも一致しましたので、もうこの不毛な議論はお互い終了することに致しましょう。
私の知りたかったことは、既に申し上げた通り、こうした図式論そのものより、「宗教としての共同幻想のありよう」に対する見解の方だったからです。


耳あり、目あり 投稿者:らくりん  投稿日: 3月 3日(日)23時40分46秒

年代も性別も、仕事も立場も、……何もかも違う人が、
たまたま共通の知り合いが亡くなったという理由だけで集まった何人かの人がいて、
たかだか数分〜十数分で、その場のすべての人に関心を持ってもらえる
話ができるとは、私は思いません。しようとも思いません。

その場にたった一人でも、耳を傾けて下さっていると思える人がいたら、
その人に向かって話すことができるんじゃないですか。
できないことができないのは当たり前。
できることを、できる範囲でやる。
もともとできるとかできないというところで問題になるようなことを
やっているわけじゃないんじゃないですか。
ダメならダメでもいいじゃないですか。
だから、できることをせいいっぱいやったうえで、あとは待つ。
それでも何も起こらないかも知れません。
しかし、何もしないで待っていても、何も起こらないでしょう。
何かやって待っていたら、もしかしたら何か起こるかも知れません。
もっとも、
何もしないで待っていても、何かが起こるかも知れませんが。

とりあえず、聞いている人、あるいは少なくとも聞いている「ふり」を
して下さる人が一人でもおられるのなら、話は成立するんじゃないですか。
それからご参考までに、
最近の「若いもん」は聞いてない「ふり」して、しっかり聞いているという
特技を持っている人もすくなからずいるようですよ。

なまぐささんが「こいつら聞いていないな」と思いながら話していると
その思いはけっこう見透かされていたりします。
少なくとも人の前で何か話したり動作をしているわけですから、
それは必ず何かの発信になっていますから、
それは「見られている」し「聞かれている」、こわいですよ、人の目も人の耳も。


ご意見下さい 投稿者:なまぐさ  投稿日: 3月 3日(日)22時49分40秒

私は中陰法要に言った際は2分〜3分程度の短い法話をしています。
今日行きました二七日のところは、前回もそうでしたが、40代から上ぐらいは聞いているのですが、30代から下ぐらいはあまりと言うか、はっきり言って聞いてません。
他のところでは如何でしょうか。
現状、対策、方法論なんでも意見下さい。特に厳しい意見歓迎します。


ひきこもり追加 投稿者:ぐっちん  投稿日: 3月 3日(日)18時18分03秒

 ケンカしたり仲直りしたり、傷つけ、傷つきながら
関係をつくっていく。。。そういう関係をぐっちんはなかなかつくれない。

 ぶち切れる。一方的に人に「恋」し、裏切られたとか、「理想」の人じゃ
なかったとか。。。で、ひきこもる。関係をあきらめる。。。

 親の世代や、父祖や母祖の生き方のツケが一気にまわってきたのか。。。


母なるものとの和解 投稿者:ぐっちん  投稿日: 3月 3日(日)18時05分53秒

 をテーマにしたマンガで印象的だったのが、萩尾望都の『イグアナの娘』
です。24年組の女性漫画家さんたちは面白かったなあ。

 姉と二人姉妹の妹はいつも母にいじめられる。できのいいカワイイ姉と
いつも比較されて。でも、なんとか大きくなり結婚する。で、できた子供が
やっぱりイグアナだったのかな?それで自分も母として困惑して生きていく
っていうストーリーだったかな。

 でも、オチはよく覚えていてお母さんがなくなったとき、実はお母さんも
イグアナだった。。。それをひたすら隠しながら、お母さんは自分とそっくりの
娘に辛く当たっていた。それを知ったイグアナとして生まれた娘は、その
イグアナとしての自分を肯定し、娘と夫と前向きに生きていこうとする。。。

 そんな感じのはなし。臨床心理の現場では、世代間伝達というのが広く知られて
いるらしいと去年の6月頃にも書きました。「親の因果が子にむくい」。。。
実体的なものではないんでしょうね、「業」なるものも。社会的、関係的なもん
なのだろうな。。。


成熟と喪失 投稿者:ぐっちん  投稿日: 3月 3日(日)17時43分52秒

 という江藤淳の本があります。Genさんがあげておられる上野千鶴子さんが涙なくして
は読めなかった内容らしい。

 強引にまとめますと、日本では普通教育の実施により、勉強してええ学校へ入ったらどんな
貧乏人の子も出世できる道が開かれるようになった。そやから世のお母ちゃんは息子のケツを
叩いて言う。「あんたもマンガばっかり読んでんとしっかり勉強しい。せやないとお父ちゃん
みたいになるで!」と。

 息子に「末は博士か大臣か」という夢をおしつけ、旦那を恥じることによって母は救われた。
息子は封建的な「父」を恥じ、自らを「ガリ勉くん」「企業戦士」と追いたてる事によって
自分を救った。

 娘達には、二重の困難が待ちうけていた。「父」を恥じながら、そんな父を持った「母」をも
恥じ、自分の女性性を持て余したのだ、というのが江藤ー上野の理解。

 最近読んだ講談社+α新書『ひきこもりの家族関係』という本では、著者の臨床心理士・田中
千穂子さんは少し違った仮説を称えておられます。戦後、母たちは価値の大混乱に陥った。
物質的な豊さ、形あるものを求めなければ生きて行くことすらままならない。外面に全力をあげ
内面に眼を向けている暇はなかった。

 ここに女性が感じる関係性の希薄さ、根こぎ感の源があると著者はいいます。そして、この
第一世代に育てられた母たちは、欠損感を持ちながらそれが何かわからないまま、子育てに
追われた。(ここで付け加えるなら、昔は貧乏の子沢山。こどもは労働力だった。しかし少子
化が進むと、子供は親達の精神的財産となった。親の夢をかなえたり、親のぐちを聞いたりする
役)

 そして子育てにのめり込む「子供のココロに侵入する母」たちが出現した。企業戦士の夫たちは、妻のことばに耳を貸さない。実家の母からは、伝統に立った知恵を相続していない。
 ここから子供たちの「ひきこもり」が生み出されたのだといわれます。


宗教という共同幻想について 投稿者:お留守居役様  投稿日: 3月 3日(日)17時16分46秒

問題意識の所在が解らないので、
意見の申しようがないと思いひかえていました。
現在は、共同幻想としての宗教には、あまり興味がございません。
吉本さんは、
キルケゴールや親鸞聖人の信仰を
個人宗教と言われていたかと思いますが、
個人幻想としての宗教には興味があるというところです。

>親鸞ほど普通の人、俗人と、僧侶、出家した人
>との境界を取り払って解体してしまった仏教者はいない。
>信仰することと信仰しないことが
>ほとんど同一であるところまで解体してしまった。
(『吉本隆明が語る戦後55年
 7 初期歌謡から源氏物語まで
  /親鸞とその思想』(三交社)59頁)

親鸞聖人は、共同幻想としての宗教を解体して、
個人幻想にした、というふうに解しています。


暴力について 投稿者:お留守居役様  投稿日: 3月 3日(日)17時14分56秒

ほんとうの<暴力>というものは、
現在の世界では、さまざまな政治体制をもった
(つまり社会主義とか資本主義とかいう体制をもった)
<国家>の暴力のことだけを指す
(吉本隆明「情況」
 昭和45年11月25日初版発行137頁「畸型の論理」より)

この言葉が念頭にあったので、
共同幻想(国家)が消滅すれば、暴力も消滅すると申したのです。
また、
対幻想には制度としての禁止がないということから、
制度としての強制もない。
つまり、対幻想には、制度としての「暴力」がないと考えています。
ですから、幼児期の母子関係に起因している(吉本説)、
少年犯罪や校内暴力、家庭内暴力は、
非行とか暴行と言うべきではないかと思っています。
「婦女暴行」とは言っても「婦女暴力」とは言わないですし。。。


主義主張について 投稿者:お留守居役様  投稿日: 3月 3日(日)17時13分17秒

「固有名詞」に対して「抽象名詞」というのは適当ではないと思います。
ふつうは「普通名詞」というかと思います。
「抽象名詞」という用語は耳慣れないですし、
「抽象」に対するのは「具象」でしょう。
また、「主義」の例示としての「資本主義」は、適当ではないと思います。
特殊な例で、「体制」とか「制度」であって、「主張」を意味していないからです。
私有財産を守れとかの主張はありますが、「資本主義」は、
「社会主義」に較べて「主義」らしくないと思います。

固有名詞的<人為的/特定的>な主義と
抽象名詞的<自然史的/不特定的>な主義とを分けることが一般的とは思われません。
出典、典拠がおありなのでしょうか。
そして、この区分は、さして有効とも思えません。
例えば、「社会主義」「共産主義」は、どちらに属するのでしょうか。
>私が昔ある事に対して「理想主義者」であったとして、
>ある日その事に対して「現実主義者(=リアリスト)」の考え方に変化したとしても、>それ自体は単なる「姿勢としての<メタファー>」であり、
といわれるのなら、「空想的社会主義」は、
>さしてイデオロギッシュな意味を含んでいないか、
>「名詞的」と言うよりむしろ「形容詞的」な用法で使用している表現形態に過ぎません。
と言えるのでしょうか。
また、
プラトニズムとイデアリスム、スターリニズムとファシズム、
ナチズムとは言ってもヒットラーイズムと言わないのは何故かなど、
私には、個人名を冠しているかどうかで「主義」を分類するのは、
無理なのではないかと思われます。

>私はかつてどんな「主義者」でもあったためしはありません。
と言われる、すさまじい自信に疑問なのは、
「荷担の因果は、秩序というものを支点としてめぐるのである。」
(吉本隆明「マチウ書試論」)
と言われているように、個人の自覚、善意とかを超えて、
ある「主義」の立場の中に入ってしまうことがあるのではないのか、
ということです。
つまり、自覚的な「主義者」ではなくても、
無自覚的な「主義者」でありうるので、
>私はかつてどんな「主義者」でもあったためしはありません。
と言えるのは、すごいことだなあと思った次第です。
自分が何であり、何でないか、
無知の知を知ることは、むずかしいことだと思っています。


2002年の。。。 投稿者:ぐっちん  投稿日: 3月 3日(日)16時58分13秒

 ワールドカップって大江や村上のもじりあーに。(←ケリッ!)

 対幻想も結構暴力的だと思います。

 えー、ほんで「母性による救い」についての続きを無問自答するわけでありまして。。。
バスジャックのネオ麦茶くんなんかはすでにこの「母性」では救われない存在なわけで
あります。で、興味があるのは「母性の変容」についてです。

 戦前、戦中、戦後。母はどこへ行ったのか。ははノンケだね。

「閉鎖した二者関係」というのが危険な二人なんですよね。
関係を調停する様な、視線。第三者の視点。これを欠いているのが現代の社会に
危機的情況をもたらしているものではないでしょうか。神なき世界。
長屋のご隠居なき、くっつけ婆あ亡き社会。


お留守居役様へ   投稿者:Genko  投稿日: 3月 3日(日)13時05分22秒

>念のために申し添えますと、
>>共同幻想が消滅すると対幻想と個人幻想が残る
>と私が語った単純な図式を吉本さんが語られたのを聞いています。

おっしゃる通り、確かにこのことは事実です。
しかし私が、
>>吉本隆明ですら、これほど単純な図式主義は、どこにも語っていません。
と言ったのは、あなたが、続いて「暴力もまた消滅する」みたいなことを自信ありげに言ったことに対してです。
これは、むしろ私の方から是非典拠をお示し戴きたい程ショッキングな出来事でした。
私はだから、後日のカキコで、個人幻想の暴力に転化する契機の端緒を、二三例に掲げた筈です。
それから、私の興味を大いに刺激したのは、なるほど「国家という共同幻想」はこの図式で了解できたとして、力点はむしろ「宗教という共同幻想」の方にありました。
ところが残念なことに、あなたからの何らかのサジェスチョンも応答も未だに一切ないのです。

私とて神(仏?)様ではありませんし、「吉本<主義者>」であるわけでもありませんから、彼の全著作をそれこそ一冊残らず読破したわけではありません。
しかし、高校時代からほぼ三十年にわたって絶えず彼の発言と知的動向を、著作等を通じて出来る限り謙虚に注視してきた者の一人です。
ですから、「幻想形態の関係論」を図式的に語る彼のその文脈中に、「暴力論」という全く位相の違う問題が突然顔を出し、合理的に結合させるような不用意な発言を、かつての吉本氏がする筈がないという、私の中に沸き起こったある種の見当感のなせるわざだったのです。
お気に障ったのなら、私の舌足らずに免じて、どうかお許しください。


<イズム>についてのご返事 投稿者:Genko  投稿日: 3月 3日(日)12時28分11秒

「マルクス主義」とか「毛沢東主義」というのは、それぞれ(人格的な)固有名を持った<ism>です。ですから、その思想的起源を特定の人格者(マルクスや毛沢東)に帰すことが可能ですし、彼以後にそれを体系化した別の個人もしくは集団による特定のイデオロギーを指示します。従ってこれらは、明確な<固有名詞>と考えられます。意味としては、前者は「マルクスの思想に依拠したある種の考え方の形態」、後者は「毛沢東の思想に依拠したある種の考え方の形態」です。
(故に、「マルクスの思想」と「マルクス主義」/「毛沢東の思想」と「毛沢東主義」とは、それぞれ連続性はあっても、とりあえず別物です。)
それに対して、「資本主義」とか「リアリズム」というのは、一般的もしくは特殊的な<抽象名詞>と考えられ、特定の起源者もしくは集団を指示してはいません。
いささか言葉足らずではありましたが、私が「どんな主義者でもない」と言った意味は、厳密には、このうちの<固有名詞>の方を指しています。
例えば、「私は資本主義者である」と言った場合、具体的には一体何を指しているのでしょうか。
「資本主義<者>」と言ったって、シニフィエとしては必ずしも「資本家である」訳でもないし、「資本<主義>」自体特定の誰かの思想であったわけでもありません。「リアリズム」ということばもまた同様です。
固有名詞が<人為的/特定的>であるのに比して、抽象名詞は<自然史的/不特定的>生成だというわけです。
つまり、私が昔ある事に対して「理想主義者」であったとして、ある日その事に対して「現実主義者(=リアリスト)」の考え方に変化したとしても、それ自体は単なる「姿勢としての<メタファー>」であり、さしてイデオロギッシュな意味を含んでいないか、「名詞的」と言うよりむしろ「形容詞的」な用法で使用している表現形態に過ぎません。
また、「ブッディズム」という場合、このまま直訳すれば「仏教主義」もしくは「仏陀主義」になりますが、こんな日本語が果たして一般的でしょうか?(少なくとも私は聞き慣れません。)
日本語と外来語との間の齟齬は、こうした混乱がさまざまな形で横たわっていますね。
それに私は、市井の真宗門徒として、自分のことを「ブッディスト=仏教<主義者>」だとは思っていません。
何故なら、私は未だそれ程に「ブッディズム」全般に明るくないし、「釈迦の思想」はそれ自体私達後世の人間が手前勝手に「ism」として固定すべきものではないと考えるからです。
だから私は、自分のことを「仏教<主義者>」ではなく、良くてもせいぜい「仏教<徒>」と呼称するか、もしくはあまり出来の良くない一人の「仏弟子」と規定したいと思います。
百歩譲って<固有名詞>の場合であってすら、私達が阿弥陀仏に帰依するからと言って「阿弥陀<主義者>」とは呼ばないように、また親鸞に依拠するからと言って「親鸞<主義者>」と言わずに「親鸞門徒」と呼ぶように、私が<主義>を避ける心情は、多分皆さんとほぼ同じではないでしょうか?


(無題) 投稿者:三吉  投稿日: 3月 3日(日)11時59分57秒

ネチケット違反、お詫びします。
たぶん、興味ある人はあまりおられないと思いますが、念のため
http://mentai.2ch.net/test/read.cgi/philo/1010788424/
が、ヒロヘロさんが問題にされたスレッドです。

芸風が荒れましたか、なるほど、留意いたします。

それとヒロヘロさんへ

私としゃべる気もおありになれないなら、あれこれと指図されるのは「迷惑」です。
しかも、電波男さんでないならば、あなたとは初対面です。
初対面の方から、「無記名」で書くことを承認している掲示板の「無記名」レスを
他所の掲示板で私と名指しされ、続けろと命令されるのは、なにかしら「ストーカ
ー」じみた「怖さ」を感じます。

申し訳ないが、「変なヤツ」と認識させていただきます。


(無題) 投稿者:ヒロヘロ  投稿日: 3月 3日(日)11時21分15秒

>ヒロヘロさんへ

>はじめまして。もしかして電波男さんですか?

>何がおっしゃりたいか不明ですが、私と議論したいということでしょうか?
>三法印スレッドの名無しは確かに私のカキコですが、名無しを名乗っており
>ますれば、三吉と名指しされるのは無粋ですね。

そのままそっくりお返しいたしましょう。当該箇所でやってください。すでにここで仰られている
あなたの無知内容は完璧に撃破されていますけど。ちゃんと当該発言を読んでおられますか?他人
の言う事は目に入らないというのがここでのあなたのスタンスみたいですね。というか、自分が一
番正しいとしか考えておられない。それが幾ら論理的な破綻を示されていたとしても。

あ、私は電波男さんとちがって、あなたを汚らわしく感じており、無知を自覚していない愚か者に
はものを教えてやるほど優しくありませんので議論などしたくありません。

それと一言、あなたの考えている浄土教は本当に安物です。

根拠:あなたの諸発言

>「信心や感情は理屈ではありません」ならば、貴方の底の知れた
>「専門知識」なる「安物」を、あるいはそのプライドをまず、
>脱ぎ捨ててはどうでしょうか
>「おいおい。俺は仏教だと考えているんだぜ」と笑ってしまいます。
>まず、自分の無知を恥じましょう。

説明不要でしょう。こんな恥晒し発言、浄土教信者であれば絶対に口にしないと思いますよ。

結論:ご自身で浄土教進行されるのは勝手ですが、他者に向けて放つのは余りにも浄土教を理解
されていない。もっと内証すべきです。


追伸 投稿者:らくりん  投稿日: 3月 3日(日)11時12分02秒

小言は無視よりも暖かい。

小言は小事にしかならない。


ネチケット注意報 投稿者:らくりん  投稿日: 3月 3日(日)11時10分07秒

ヒロヘロさん
ご挨拶が遅れました、初めまして(かな?)
どこかで、お名前を見たことがあるような気もするのですが、
たぶんここでは初登場ではないかと思います。

ヒロヘロさん・三吉さんお二人に
トピックの飛ばしは、ネチケット違反だと思うんですが、
そのへんもあまりかたいことは言いませんので適当にやってください。
ただ、
他所の板の話題を持ち込むんならせめて、URLの紹介ぐらいはほしいですね。
皆が関心あるわけでもないかもしれませんが、話の流れぐらいは
知っておきたい人もいるかも知れませんから。

三吉さん
体験主義とか経験主義と言われれば、自分でもそういう感じがしますが、
ちょっと、違うような気もします。なぜなら「自分はやっている」という
臭気をプンプンと発散している人も勘弁願いたいということがありますので。
心が揺さぶられるというのは、どういうんでしょうね。
なんていうのかな、批判する対称に対する「愛情」というか「執心」というか、
「どうしょうもないバカ息子」を叱りながらも、叱ることによってなんとか
なってほしいというそういうもんが、少なくとも私は、三吉さんの言葉から
感じられないんです。
それがないと、どんだけ鋭い指摘や批判であっても、耳が痛くなるどころか
痒くもならない。
再登場の書き込みを見たとき、なんか随分芸が荒れてきてるなぁというのが
正直な感想です。

これまでのネット上でのやりとりもありましたし、
オフでも会ってますから、
三吉さんにその「執心 のようなもの」がまったくないわけではないという
こともわかってはいるるつもりなんですが、それを気どられることに対する
三吉さんの「てれ のようなもの」がああいう芸風を生み出しているのでは
ないかとつねづね思っています。。
「てれ」がまったくなくなるのもつまらないし、
すこしだけ「てれ のようなもの」が滲み出るというぐらいが
奥ゆかしいかな、と思うらくりんです。

いずれにしても、三吉さんのつっこみは、
するどいけれどとりたてて耳新しくもない、
ちょっと浅薄というか、厚み・深みがもう一つです。 


さてやっと、本題。 投稿者:三吉  投稿日: 3月 3日(日)10時21分05秒

貴方は、「生まれ変わり」に対して、「非仏教」と批判するために、まず、
ご自分を「専門家」として位置づけ、批判者を「無知」と誹謗し、遊んでら
れます。ですから、貴方が専門家ぶっているけれども、「無知」であることを
そこいらの専門書の知見で裸にしていただけです。
「信心や感情は理屈ではありません」ならば、貴方の底の知れた
「専門知識」なる「安物」を、あるいはそのプライドをまず、
脱ぎ捨ててはどうでしょうか。
あなたが論をおくとされた「業」の問題が釈尊在世中の宗教者のテーマだっ
たのです。有名な六師のうち、一人を除いて、業の異熟果を否定した。
仏教は肯定したのですね。善悪業に果があるから、頑張れと。
異熟果否定のセクトからの入門は、一定準備期間を置いたくらいですね。
で、修行者たちには、精進せよと説き、修行途中で倒れても、あなたのおっ
しゃっていたように、その努力は天界に引き継がれているから無駄にならな
いと励ましたのですね。在家には、職業に勤勉たれと説き、この世で、幸福
を得るよと。幸福を得たら、身の回りや他者に対する「利他」を説き、死後は
天界だよと励ましたのですね。
それは時代地域の常識に根深く「生まれ変わり」思想があったからですね。
仏教の根本教義に「生まれ変わり」があり、それがないと仏教は成立しないと
私は思いませんが、現代でも「生まれ変わり」をいまだ必要とする人がいれば、
「生まれ変わり」を説くことでその人が仏教に出会えるならば、「真実に到る
てだて」として「生まれ変わり」を説くのは私はありと思う。

それとです。「浄土教は仏教ではない」とネットで放言される方に
「浄土教はそんな安物ではありませんよ」と申されても
「おいおい。俺は仏教だと考えているんだぜ」と笑ってしまいます。


ふぅ 投稿者:三吉  投稿日: 3月 3日(日)10時19分17秒

5.古層の阿羅漢は、仏教の独自性はなく、諸宗教共通の修行者の呼称
ですね。ジャイナ教では今でもジナをアルハットを呼ぶらしいです。
それと四向四果と整理したのは倶舎論では?長阿含に出てくるのは、
四果では?
6.「六道輪廻」をこの世の迷いの状態と現代的に解釈される立場自体に
は、特段の異論はありませぬが、史的事実として、2500年前のインド
仏教もそうであり、それ以外の解釈は間違いだという立場を批判していま
す。「如実にみろ」ということです。
7.「※1「原始仏教における生天思想」(印度学仏教学研究)藤田宏達 
昭和46年」論文における「来世(paro loko;para-loka)」を藤田さんは
どういう意図で書いたかが問題です。私は、パーリ語では、paro loko。
サンスクリットではpara-lokaと読みます。あなたは、真面目に藤田さ
んが格変化意味してpara-lokaを書かれていると主張されるのか?
8.「蔵外」「蔵内」云々について、語る前に議論の筋を抑えているだけ
です。拡張させているのはあなたです。
9.ジャータカに関して、あなたはまず「新説」と難癖をつけ、それが
「新説」ではないと知ったら、今度は「異説」と難癖される。
まず、自分の無知を恥じましょう。


招かざる客 投稿者:三吉  投稿日: 3月 3日(日)10時18分43秒

ヒロヘロさんへ

はじめまして。もしかして電波男さんですか?

何がおっしゃりたいか不明ですが、私と議論したいということでしょうか?
三法印スレッドの名無しは確かに私のカキコですが、名無しを名乗っており
ますれば、三吉と名指しされるのは無粋ですね。

あちらを中断したのは、「くだらない」と感じたからですね。
まあせっかくですので。。。ここで少し。

1.例えば貴方は「宝性論を出して主張するのであれば、当該箇所を提示
するのが常識です。」と申されておられますが、それ自体は確かにそうですが
貴方は、釈軌論を出された折に、そういうことをされていない。
他人に偉そうに言うならば、自分からしろと内心思ってたりします。
それと私は276で「宝性論(大正31巻827下)には」と場所を明示しております。
いいがかりでございましょうや。

2.貴方は「無記」(広義)をもって、「経験認識できないもの、考えて
も答えが出ないもの無用のものとして例示されている」と解釈し、「生ま
れ変わり」に対し、釈尊は「無記」だとされますが、14無記の一々の
具体的項目にあるのは「如来の生まれ変わり」であって、「衆生の生ま
れ変わり」はないと具体的な事実を私は指摘しています。別の解釈によ
れば、「衆生の生まれ変わり」は当時の常識であったから、問題にすらな
らかったともいえます。
3.スッタニパータ第一偈がインド伝統の「兜卒天下生」を無批判的に
受容している事実は、初期仏教が「生まれ変わり」に否定的ではなかっ
たという解釈の支えになりこそすれ、その逆にはなりません。
4.「この生存において、善業の報いとしていい想いをするその状態が
天界であるというのです」というのは、おそらく後世の解釈です。実に
現代的です。当時のインドの仏教徒は、残念ながら天界=死後という
のは現代インドのべレナスでの沐浴をみても推測できます。


切返されてしまった。。汗 投稿者:三吉  投稿日: 3月 3日(日)10時17分27秒

受け取り方によっては、「経験・体験」重視主義に聞こえます。
「やっている者」の言葉は、心に響くが。。。
「やってないヤツ」の言葉は、何を言っても聞く耳持たないと。
まあこれは杞憂でしょう。
私の実存を問われていると解釈します。

大学一年の頃に蓮如さんの
「木像よりはえぞう、絵像よりは名号」を聞き、
驚愕したのは、私の身の事実です。
何度か申し上げていますが、私には宗教的な体験があります。
小学生レベルとはいえ、キリスト教は、私に、「仏教は仏像崇拝だから
だめ」という観念を植え付けるのに充分でした。
まず私はさほど意識せずに「仏教は偶像崇拝」という偏見を有して
おりました。それを先の言葉は崩した。
崩すと同時に、なぜそういうことを言いえたのかを考えた。
で、そういうことがありつつ、同級生の朝夕の自主的なお勤めを
目にし耳にしたことで、「正信偈」を自らお願いして習ったりもした。
(以下略)


法然聖人と親鸞聖人 投稿者:お留守居役様  投稿日: 3月 2日(土)21時20分43秒

法然聖人の「11箇条問答」を読んでいましたら、
持戒の行者の数少ない念仏と破戒の行者の数多い念仏と
どちらが往生した後に深く進むのか。
という問いに対して、法然聖人は、
>末法の中には、持戒もなく、破戒もなし。
>無戒もなし、ただ名字の比丘ばかりあり
と伝教大師の末法灯明記を引いて、
持戒、破戒のさたはすべきでしょうか。
いそいで名号を称えなさい。
と答えています。
ここだけで比較するのは何ですが、
無戒名字の比丘に注目した親鸞聖人とは、
位置取りが違うように思いました。
親鸞聖人は自分のこととして主体的に受けとり、
法然聖人は客観的状況として受けとっている、というふうに。
それにしても、法然聖人が、
伝教大師、書きたまえると
肯定的に敬称、敬語を使っているのには驚きました。


無知の知 投稿者:お留守居役様  投稿日: 3月 2日(土)21時12分05秒

>私はかつてどんな「主義者」でもあったためしはありません。
>もともと私がどんな「主義」にも依拠していないわけですから、
>「転向」しようにも出来ません。

すさまじい自信だなあと思いました。
ところで、
>真宗門徒としての私にとって、
>「教祖」はただ一人、親鸞聖人しかおりません。
とすると仏教徒ではあるのでしょう。
仏教は英語でブッディズムと言います。
イズムって「主義」のことですよね。
仏教は、仏教の側から見れば、主義ではないと言えるとしても、
英語圏の概念である主義から見れば、仏教は主義に入ると思います。
また、
>私は完璧に「リアリスト」なのです。
とも言われていますが、
「リアリスト」って「現実主義者」のことですよね。
人は生まれながらにして、仏教徒だったりリアリストだったりしませんから、
広義の2段階転向論にいう1回目の「転向」があったはずです。
吉本さんの「転向論」でも転向しない転向者として、
宮本何某が取り上げられていたかと思います。
このあたりのことをぐっちんは言われたいのかと思います。

そういえば、前に
>吉本隆明ですら、これほど単純な図式主義は、どこにも語っていません。
と言われていましたが、すごく自信たっぷりだなあと思ったものですから
啓して遠ざかりました。
吉本さんが語ったことは、探せば見つかるでしょうけど、
語っていないと断言するためには、
全ての著作、全ての発言を知っていなければできないと思います。
念のために申し添えますと、
>>共同幻想が消滅すると対幻想と個人幻想が残る
と私が語った単純な図式を吉本さんが語られたのを聞いています。

以上、批判めいたことを申しましたが、
肩肘張らずにリラックスして、語り合いたいと思ったものですから。。。。
硬直が解ければと思うのです。


三吉さんへ 投稿者:ヒロヘロ  投稿日: 3月 2日(土)20時15分34秒

皆様はじめまして。かな?宗教そのものに関して、増上慢によるズレが見られますので、一言だけ
申し上げます。

らくりんさんの浄土教に対するスタンスや立ち居振舞いについては決して賛同するわけではないの
ですが、三吉さんの過剰反応には、病的なものを感じざるを得ませんね。信心や感情は理屈ではあ
りません。その人の言動でどのような効果があり、どんな影響を与えたかが重要になります。(「ことばではない」というのとは全く違った意味ですので念のため)

三吉さんは理屈だけで生きておられるのですか?それじゃ、2ch「三法印スレッド」の決着を理屈
で早くつけることです。どの掲示板をみても、周知以前の事柄や、入門書のちょい引用ばかりで
心をひきつけるものがありません。浄土教はそんな安物ではありませんよ。


>ootuboさんへ 投稿者:ぐっちん  投稿日: 3月 2日(土)18時58分21秒

 どうもご無沙汰&失礼いたしております。ootuboさんに
ご自身の身に引き当てた、ひとつわかりやすいお話でもしていだだきたいのですが。


異種格闘技 投稿者:ぐっちん  投稿日: 3月 2日(土)18時55分46秒

 ぐっちんのとぼしい理解では、人間の根源的欲望は「自分が必要とされる欲望」を
抱いているのではないかということです。

 それを精神科医・斎藤学は「人間にとって最も基本的な欲望とは。。。「母親から
承認される欲望」であります。。。それをフランスの精神分析医ジャック・ラカンは
「母親の欲望」と呼びました。わかりやすく言えば、「母が自分の存在を欲望している
という欲望」のことです」といってます。

 アミダさんの本願の文体はこれに似てるなと思います。「私が仏になろうとするとき
もしお念仏するものが○○しないなら、私は仏とはなりません」云々。。。
 要するに「あんた自身がお念仏を喜んでいる先輩をみつけて、自分も声に出して称える
ということが起こるまでは、わたしは決して仏にならんよ。ずっとあんたのことを待ってる
からね」とメッセージしているってわけですわね。

 アミダさんのことを昔から親さまとかいってたらしいし。でもこの「母なるもの」って、
コリクツ放蕩息子の「転向」先だったんじゃないでしょうか。「お母さんが心配してるぞっ」
って芦田伸介みたいな刑事さんにいわれてころっとオチル容疑者みたいなもんで。

 フェミニズムの立場から仏教批判していた大越愛子さんなどは、この母性ー自然ー国家
みたいなんを問題にしてたんでしょうね。Genさんのお知り合いでしたか?さんきっつぁん
もこういう手合いの話題をよその掲示板にカキコされてたのを見たような。あっ、いらん
フリしてもうた。


誰でもわかる教え 投稿者:ootubo  投稿日: 3月 2日(土)18時37分22秒

ぐっちんさんお久しぶりです。
いつも見ているのですが、Genkoさんとのやりとり、全然わかりません。
本願を信じて念仏を称えれば仏になる。
誰でもわかる教えをお話ししたいのですが、それが難しいです。
では。


Genさんへ 投稿者:ぐっちん  投稿日: 3月 2日(土)17時40分47秒

 う〜ん、隔靴掻痒。ようわかりません。もっと具体的な
話をして下さい。形而上学は不得手です。

 六師のひとりにサンジャイヴァイラティプトラという人がいて通称
「鰻のぬらぬら論」といわれていますが。。。

 まあ、龍樹のあとをついだ帰謬論証派は、つねに否定形でしかものを
いわないそうですが。。。


心がゆりうごかされる言葉を聞きたい 投稿者:らくりん  投稿日: 3月 2日(土)14時34分16秒

三吉さんは、この掲示板や他の掲示板で何を書いても、そのことが次の日に
あなたの職場で話題になることはないでしょうが、
私の場合、ここでの発言は良くも悪くも仕事場に直結しています。
次の日、即、反応があることもあります。それも思いもがけないところから。
そういう経験を1度ならずした人間が、しかも間違いなく「トホホ」な教団と
まがりなりにもつきあっていこうとしている人間が、発言に「慎重になる」ことが
それほどおかしななことでしょうかね。
なさけないほど「トホホ」だけど、「トホホ」は「トホホ」なりに魅力もあるんです。

その「トホホ」とは無縁のところに身を置きながら、
「トホホ」なところで苦心している人間をせせら笑って何が面白いのかね。

三吉さんの職場はさぞかし「トホホじゃない」んでしょうね。
自社の利益なんか二の次で、駆け引き・ごまかし・手抜きなんてことは一切なしで、
お客さま本位のお仕事をされていることなんでしょうね。うらやましい。

>「あなたに〈念仏申さんとおもいたつこころ〉をおこさせるならそれが本尊じゃ
>ないですか」が役目柄のきれいごととのことですが、私はこっちのほうが大事だ
>と思います。奇麗事ではなく、本当に大事なポイントだと思います。
そんなこたぁ三吉さんに言われなくたって百も承知です。そのことが「伝わって」
ほしくて、いろいろと苦心しているんです。
それはそれとして、三吉さんあなた自身にとって、このことは本当に「大事」なこと
なんですか。私は、まだ私が見ている掲示板で、あなた自身にとってこのことが
「大事なことである」と表明されたのを見たことがありません。
自分自身が大事だと思っていないことを、人様に向かって「お前らはそれを大事に
すべきだ」と言われても、「よけいなお世話、ほっといてくれ」と言いたくなるだけ
です。
その点を外したままのあなたの「正論」や
門徒を自任していないあなたの「門徒の代弁」をどれだけ聞いても、
私は心が動かされることがありません。


苦言をありがとう 投稿者:らくりん  投稿日: 3月 2日(土)13時49分13秒

ただ、
正体不明の謎の人物がネットの上で何を書いても、
それがアクチャルな場面で物議をかもすことはありませんでしょうが……。

この問題提起をされた「くまごろうさん」がどういう人物であるのかを
知ったうえで書いております。
三吉さんにご心配頂くほどズレてはいないと思っています。
おそらく、「くまごろうさん」にとっては三吉さんの「苦言」よりも
私の書き込みの方が参考になっているのではないかと思っております。


苦言を呈す 投稿者:三吉  投稿日: 3月 2日(土)12時17分58秒

大谷派の内実はわかりませぬが、ソノ程度の「本音」が「物議」を惹起するとは、トホホ
です。
「あなたに〈念仏申さんとおもいたつこころ〉をおこさせるならそれが本尊じゃないです
か」が役目柄のきれいごととのことですが、私はこっちのほうが大事だと思います。奇麗
事ではなく、本当に大事なポイントだと思います。

私はらくりんさんに「ずれ」を感じます。問題提起者のポイントをはずされているように
思う。意味あってのわざとのことなのか、職業柄、きずかれてないのか不明であるが、私
とは視点の差異を感じる。

「一人ひとりに気がついていただきたい」とのことですが、問題提起された方は、教法に
出会っているから、現実に疑問を抱かれているわけです。気づいてるから、彼の問題にな
った。「本尊は、自分が大事だと思ったモノが本尊」という法に出会っているのにもかか
わらず、本山の研修で「本物からほんとうの信心をいただく」のが大事だから、本山から
受けるべきなのよと説明されて、「なにかおかしい」と感じられたわけです。
で、らくりんさんは、<「ご本尊を受けたいような本山であるかどうか」が問われるので
はないか>ととぼけた回答をされている。

「本物から云々」というのは、実に自然な感情なのですね。Maro さんのご指摘どおり、市
井の仏壇屋は、サービス過剰であれこれ世間並みの感覚で、高価な宝石をいれたりするわ
けです。すると本山からのやつは、そんなごてごてしないので、安心だという感覚が勧め
るほうにはあります。それ自体は、ごくごく普通の感覚だと私は思います。
例えば、世間の感覚では、「名号よりは絵像、絵像よりは木像」だけど、真宗の教法では
「木像よりはえぞう、絵像よりは名号」だから、逆転しているのですね。
だから、「本物云々」というのは理由があるし、ごくごく自然な感情なわけです。
だけども、「本物」といってしまえば同時に、どこでもうちのだけは「本物」というわけ
ですね。ひどいところでは、「うちの以外はだめ。効果なし」と。これはもうカルトです。
「木像よりはえぞう、絵像よりは名号」だけれども、木像でもその人が念仏にであれば本
当はええのですね。市井の名号でもなんら問題ない。

いっしょにされたくないという危惧の中味は。。。神経質すぎです。
彼の「悩み」は、彼がまっとうな法に出会っているからこそ生じた疑問であり、それは本
山の内実が「法」に背いているからじゃないですか。
あなたには、「法」が届いていると肯定するほうが先だと私は思います。

らくりんさんの今回の言は、現場で悩む僧侶たちには、受けるかもしれませんが、門徒に
たいしてはまとはずれだと感じます


主義者が嫌い主義 投稿者:Genko  投稿日: 3月 2日(土)01時25分31秒

私はかつてどんな「主義者」でもあったためしはありません。
従って、ぐっちんさんの言う「転向」は、こと私に関してはあてはまりません。
ただ、様々の「主義」に<ついて>は、さんざ語ってきました。
それは、概してこの世の「主義者」が、その創始者をはなはだしく逸脱するか誤読する場合や、この世にトラブルを引き起こす度合いがあまりに多いので、創始者自体の思想に敢えて遡行することにより、両者の違いを比較して隠蔽された「ウソ」を指摘せざるを得なくなる老婆心のためです。
もともと私がどんな「主義」にも依拠していないわけですから、「転向」しようにも出来ません。
強いて言うなら、私は、「主義者嫌悪主義」とでも言うより他ないものです。


??? 投稿者:Genko  投稿日: 3月 2日(土)00時47分52秒

真宗門徒としての私にとって、「教祖」はただ一人、親鸞聖人しかおりません。
また私は、吉本隆明であれ柄谷行人であれ、それ以外のどんな固有名も、かつて一度も「教祖」に祭り上げたことなどありません。私に出来ることは、彼らの「仕事」のほんの一断面を自分なりに理解し評価することだけです。しかも評価するからには、何がしかの<賞賛>か<批判>か<留保>かをそれなりに述懐することしかできません。(ただ、私が頭が悪くて理解が足りない点についてはお許しください。)
それから、「加害−被害、差別−被差別、ブルジョワ−プロレタリア」なんて悪しきヘーゲル的二項対立図式などナンセンスです。少なくとも私は、そのような陳腐な二元論を、己れの議論の枠組みに使用したことなど一度もありません。「弁証法的<止揚>」なんて観念論的論理学からは、現実の差別の無限連鎖を乗り越えられないばかりか、ついには「絶対精神による国家理性」みたいなゴリゴリの形式主義的方法しか出てきません。
仏教は、<仏>とか<空>とかの、ある種カント的な「仮像としての<超越論的統覚X>」を便宜的に立てることによって、最初から二元論的世界そのものから自由です。しかるが故に、それら対立する二項の「間」に、媒介的に立脚することができるのです。
「救済者」としての「主体」を立ち上げるなんて、「被害者」に対してそれははなはだ不遜というものでしょう。確かに私は市井の生活者として「政治的<主体>」を「立ち上げるべき」という意味のことを言ったことはありますが、それって、たかだかわが国の戦後憲法の精神に過ぎないではありませんか。
それに、「社会科学的仏教」って、いつ私がそんな聞き慣れない言葉を使ったのでしょうか?
ぐっちんさんに対しては、「仏教者に社会科学的視点を」と言ったことは何度かあるかもしれませんが。でも、こんなことなら、かつての金子大栄を初め、私の知る真宗教学者たちも、しばしば著書を通じて類似のことを語ってきたわけです。私は未だ「悟り」を正覚しておりませんから、それを通じて「悟る」なんておこがましいことはできません。
ご希望の「オウムと方舟と連合赤軍という比較を通じて、<家族・身体・性>の問題を語りたかった」ということに関しては、私がもうすぐ近所に住みますし、是非後日語り合いましょう。


発散させて下さい。の続編 投稿者:なまぐさ  投稿日: 3月 1日(金)23時18分02秒

ただいま御門徒さんの枕経からもっどてまいりました。なんまんだぶ、なんまんだぶ。
お浄土に帰らせていただくのが世の常とはいえ、ご縁の方とお別れするのは。。。ですね。

2月26日の話題ですが、今日会長と話しました。ところが本人も視察に行くことに、何故問題があり、他からとやかく言われなければならないか不思議がっていました。
ひゃ、拍子抜け。チャンチャン。


恐縮です 投稿者:狂信 ☆彡  投稿日: 3月 1日(金)20時51分13秒

ありがとうございました。


流れ星狂信さまへ 投稿者:ミネ  投稿日: 3月 1日(金)20時34分20秒

らくりんさんが、1泊で出かけていますので、美川の会の日程を、私が代わって
お答えします。明日ではなく、一週間後の9日です。


境界線上の神学者 投稿者:ぐっちん  投稿日: 3月 1日(金)17時59分30秒

 とよばれたパウル・ティリッヒ。キリスト教神学者なのに隣接する分野に
大胆に踏みこんでらっしゃいました。来日して多くの宗教者と対話されたとか。
安田理深せんせもそのお一人。

 さて、彼のことばに「究極的関心」というのがありました。とどのつまり、いっちゃん
興味があること。いっちゃん気になること。いっちゃん大切にしたいことーご本尊かな?

 その足場があってこそ(ベースキャンプみたいなもの?)自由に菩薩は動き回れるんで
しょう。ご本尊がはっきりせんうち、うろうろ動き回ると、日が暮れて迷子になります。

 まあ、小林よしのりの受け売りを坊主の衣に包んで布教している輩がいる時代ですから、
不甲斐ないサヨク陣営にもしっかりせんかい!とも思うのですが。。。

 うながし。。。もよおすものはスケベ心ばかりなり。。。


なぞの転向生 投稿者:ぐっちん  投稿日: 3月 1日(金)16時57分11秒

 う〜ん、軽くいなされてしまいました。オウムと方舟と連合赤軍という
比較を通じて、「家族・身体・性」の問題を語りたかったのですが。。。
 
 柄谷行人。。。教祖ですね。いまだにアカデミックな世界じゃ、本を読まない
学生でも柄谷の動向だけは注目されるとか。かつての吉本隆明さんですね。

 えー、ほんで武器商人のおこぼれがおまんまのタネであるとか、「在日」や
「部落」問題に対して、「加害者」である<わたし>の自覚がGenkoさんの
いわれる社会科学的仏教の<さとり>なんでしょうか?う〜ん、わからん。。。

 加害ー被害、差別ー被差別の枠組なんかは、ブルジョワープロレタリアの焼き直し
のようにしか思えませんが。。。で、被差別者・被害者の側に立って「救済者」と
しての<わたし>を主体として立ち上げるというオハナシでしょうか?


聞いてしまった本音 投稿者:なまぐさ  投稿日: 3月 1日(金)16時11分46秒

らくりんさん。大いなる危険を冒してまでの書き込みに、大いに頷かされました。
おぼろげながら、同じ様なこと考えていましたが、充分に整理されないでいました。これで終わりでなく、引き続き考えていきたいと思います。
また、新たな課題にもなりました。どのように真意を伝えるかです。受け売りではおそらく伝わるのは”誤解”でしょうし、下手すれば変なこと言う奴だなでしょう。
ううーーーん。


私信御免 投稿者:狂信 ☆彡  投稿日: 3月 1日(金)14時39分57秒

>らくりんさん

今月は、明日、美川の会で、よいのでしょか?


ぐっちんさんへ 投稿者:Genko  投稿日: 3月 1日(金)04時41分56秒

「連合赤軍問題」について言えば、かつて、ぐっちんさんも読んだであろう笠井潔の労作『テロルの現象学』で、同時代人としての彼が、セクトは違えどほぼ同じ政治運動を担った存在として、カント倫理学などを手掛かりに<共同観念の倒錯>として反省的に総括しています。
また、<当事者性>を有しないにもかかわらず「大衆」や「国民」などを代弁する所謂「政治的代理行為」の持つ欺瞞性については、H・アレントやベンヤミンなどがつとに批判していたことでもあるし、既にカルチュラル・スタディーズ派などによる現代政治学者にとっていささか「手垢の付きすぎた」論点でもあるようです。
しかし、今のところ幸いにも、ほぼ消滅しかかったわが国の「新左翼系」活動家には、危惧されるような倒錯的な観念や憎悪感情をいだく残党どもはほとんど見られなくなりましたね。
ところで、最近の論壇をにぎわしている柄谷行人著『トランスクリティーク−カントとマルクス−』(太田出版)は、私個人としてはさほど評価していなかった同氏の他の著作群に比べ、この問題にとって扱われるテーマは違えども、その問題に一つの有力な最終的解決を理論的に提供し得る、飛躍的かつ画期的な名著であると確信します。
この本は私達に、明治期以来伝統のあった<ドイツ観念論>圏内での「カント解釈」の膨大な蓄積や、「資本論のマルクス」の同じく膨大な研究成果に基づく先人達の営々たる努力と一定の<公準>なるものが一体何であったのかを、改めて根本的に疑わざるを得なくなる程の強いカルチャーショックを与えます。<マルクスの思想>の全現代思想的総括及び新視点の提示(re-reading/re-cording)はもちろんのこと、カントのre-cordingが、因縁の深かった私には特に感動的でした。<カント−マルクス>両者を結ぶこの地平から、従来の世界のすべての「(自称他称)マルクス主義者」を逆照射すると、途方もないミスリーディングであったとしか思えなくなるから傑作です。
十年に一度くらいしか出会うことの出来ない、まさに「目から鱗」の、実りの多いすごい本でしたよ。(ちなみに、この本は近々英訳されて海外へ出るそうです。)


以上は、新着順61番目から90番目までの記事です。

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