らくりんバンバン

〈 落 鱗 板 々 〉

Reload



投稿者
メール
題名 

内容(自動改行します。利用可能タグ一覧

URL(リンクを入れたい場合はここに記入します)

[i-mode/J-sky/au対応]

新しい記事から表示します。最高150件の記事が記録され、それを超えると古い記事から削除されます。
1回の表示で30件を越える場合は、下のボタンを押すことで次の画面の記事を表示します。

わかっちゃいるけど 投稿者:ぐっちん  投稿日: 3月19日(火)19時21分45秒

 で、昼間逢うたらまったく別人やったおねーちゃんのもとから、逃げて帰ろうとした経験が
たびたびあるにもかかわらず、別の飲み屋のおねーちゃんにアタックしている「自分」がおる
訳です。合掌。 

 


しかし。。。 投稿者:ぐっちん  投稿日: 3月19日(火)19時14分08秒

 「空の思想がどれだけすばらしい道理、理念であったとしても、それを具体化する装置を
持っていなければほとんど有効性を持たない。。。それを本当に理解できる、ごく一握りの
人間にしかようがないということになります」 『読み解くT』

 「もし方便なくして法性を観ずる時んば、すなわち実際を証せん。このゆえに知るべし、
と。。。具体性から遊離して真理を求めようとすると、「私は真理をさとった」という錯覚
に陥る危険性があるということです。方法論における具体性が欠けると、自己中心の世界に
閉じこもってしまい、他者がみえなくなるわけです」 『読み解くU』


ひろ先生いい! 投稿者:おじき  投稿日: 3月19日(火)15時02分12秒

「バラバラでいっしょ」は彼岸のものさしで、
「バラバラでバラバラ」は此岸のものさしなんちゃいますか?
彼岸の視点では金色はOKで黄色はアカンとはならんと思います
此岸の視点では金色は大好き、黄色は価値なしなんでしょうね。
善悪、好悪、美醜、健康病気、生死などの分別が苦悩の原因で
人間は言葉によって分別して生きてるゆうんが竜樹さんの主張でしょう。
「業と煩悩は分別より生ず」『中論』
ひろさちや先生によれば、あるがままに物事を見るゆうんが「如実知見」
という彼岸の見方で、
すべての物事はあるがままで最高の存在価値があるゆうんが「諸法実相」
という彼岸の見方やったと思います。


追加 投稿者:ぐっちん  投稿日: 3月19日(火)14時46分27秒

 24時間、どこを探してもバラバラでバラバラの世界。
25時にバラバラでいっしょの世界から光が届いている。


ほてから 投稿者:ぐっちん  投稿日: 3月19日(火)12時59分01秒

 「此岸」的な見方で考えると、赤は赤色の光を放ち、青は青色の光を放ち、それぞれが
輝いていてまことに結構だというお話になります。けど、そこに金色の光を放ち、銀色の
光を放つやつがいると、やっぱり黄色ではアカンのとちゃうか?という話になるんとちゃう
かいな?

 だからそこに、「一」を選ぶということが重要になってくるんじゃおませんじゃろか。
赤色を放つのは、物体が赤く光っているのじゃなくて、自然光(太陽光)が当って、赤色
スペクトルをはね返しているから、物を見る側から「赤く」見えるだけじゃないので
しょうか?誰でも、写真の現像をするのに暗室に入ってみれば、いつもとは違った物の
見え方を経験したことがあった「はずです。

 普段は、人間というのは「時間」や「空間」というレンズでものを見ているからたい
がいの人にとっては同じようにものが見える、というのがGenkoさんが言及してい
たカントの認識論でしょう。(これ以上詳しい話はわかりません)

 でも「彼岸」の視点にたてば、赤も金もなく「影」だけなのではないでしょうか。
ここのとこ、例えば仏教学を専攻して学ばれたおじきさん、十分おわかりのはずなの
ではないでしょうか。少なくとも大阪人であれば、「彼岸」と「此岸」の区別は
おつきのはず。だって江戸っ子のようにどちらも「しがん」じゃないんですから。


ひろさちや 投稿者:ぐっちん  投稿日: 3月19日(火)12時39分36秒

 『知ってるつもり!?』が次週最終回。イエス・キリストだそうです。はてさてどういう
イエスなんでしょう。楽しみ。おとといのブービー回ではお彼岸ウイークにちなんでお釈迦
さまでしたネ。

 『知ってるつもり!?』といえば、取り上げる仏教関係者の製作ブレーンがひろさちやさん
のようでした。ぐっちん、何回もひろさんのお話を聞きに行ったことがあるのですけど、ほ
んま理屈抜きに楽しめます。そらそれぞれの宗派の正当教義からみれば、首を傾げたくなる
点もあるのでしょうけど、買い物帰りのおばはんも、競輪帰りのおっさんも話を聞ける。

 やっぱり、その点はすごい。「空」を説明するのもすごい例え話をします。まず、コップを
用意します。できるだけ、薩摩切子とかべネチアングラスとか高価なものを買ってくる。そし
てそこに自分が用をたした「ウンコ」をたっぷりと盛り付けるのだそうです。で、自分が大嫌い
な知人を含む数人をお招きしてパーティーをするのだそうです。

 そして、さきほどウンコで満たしたグラス(いちおう洗剤で洗っときます)をその人に差し
出しお酒をついで乾杯するのだそうです。その大嫌いな人およびお呼ばれされた参加者から見
れば、そのグラスは一番上等ののええグラス。ところが、ウンコの本人からは最低のグラスに
見えると。。。

 グラスは「飲み物を容れる」という機能からみれば、どのグラスも同じなのに産地やメーカ
ーによって使用者にとって「意味」が異なる。ややこしい話をすれば、そもそも「グラス」は
ある文化圏のひとにとっては確かに「グラス」だけど他の文化圏のひとにとってはそれは例えば
「灰皿」であったり「楽器」であったり「凶器」であったり「宗教祭器」であったりするわけ
です。

 まあ、相対的なありかたとでもいうのでしょうか。グラスは絶対的な視点からは、ただのグラ
スなのに。でも、限界をもった存在、人間からすればどこから見ても「ただのグラス」には
見えない。何らかの色はついているものとして映る。カントのいう「物自体」は決して認識でき
ない。


拙レス 投稿者:狂信 ☆彡  投稿日: 3月18日(月)20時04分14秒

影がはっきり見えていたのは、実は光があたっていたからなんだ。
なんつーオチとは、ちょとニュアンス違うかナ。


拙文「光と影」 投稿者:らくりん  投稿日: 3月18日(月)16時28分42秒

HPに掲載されていたものには抜けていましたが、
実は、発行された冊子には、最後の一文にはつぎのようなルビが打ってありました。

〈鮮明な光(ポジ)を知るには、鮮明な影(ネガ)を知らなくてはならない。〉

と。
HPも追記しておきました。

http://web2.incl.ne.jp/fujiba/goma/dobo.htm


ところで 投稿者:らくりん  投稿日: 3月18日(月)15時52分42秒

かろうじてきている「水道」というのは、なんとなくイメージが湧いてくるけれど、
かろうじてきている「電気」というのはどんなもんなんだろう。
なんでもころ合いよく見えたりして、などと ニンマリしてしまいます。

古いガス管は恐い。
昔、某寮に住居していたころ、夜中に緊急連絡した覚えがある。
気付かぬうちに床下に溜まっているなんてことがありますんで。


投稿募集 投稿者:らくりん  投稿日: 3月18日(月)15時04分03秒

先にアップしました〈浄土真宗の風景〉のページに投稿を募集いたします。
写真とその簡単な説明テキストを送って下さい。詳しくは↓から。

ぐっちんさん、
そうですか。そういうことなら、
ますます接近遭遇の可能性がたかくなるような気がします。

http://web2.incl.ne.jp/fujiba/fukei.htm


百年の恋 投稿者:ぐっちん  投稿日: 3月18日(月)14時48分08秒

 どうも皆様。わたくし大阪へ帰郷します。おじきさんの友達の実家が貸していた取り壊し
寸前の物件、六畳二間の部屋にしばらく居を定めます。敷金礼金無し、電気と水道はかろう
じて来てるそうですが、ガス管は錆びてアカンそうです。な、なんと一万円で貸していただけ
るとのことで飛びつきました。まあ皆さん方ご利用の月極駐車場以下の頭陀行生活でござい
ます。(いまどきドヤ街でも一泊350円は無いでぇ。。。)

 けど、まあ小銭とヒマのあるうち国内ならお遍路さん、海外ならかねてから憧れのブータン
に出掛けようかなと思っているところです。ちなみに京都は、本山周辺に出没して聴聞する予
定でございます。皆様とも何かと実写でお目にかかる機会もあるかと思います。その節はよろ
しくお願いいたします。

 らくりんさんの書かれたものを読んでて「光と影」の例え話にとても興味が湧いている今日
この頃です。さてこどもの時分、便所がまだぼっとん式だった頃のお話。晩、用を足してたら
電球が突然切れました。で、びっくりして二階のおかんに「おかあちゃーん、タマ切れたー」
と便所から叫びました。そしたら、おかん飛んで来て「血ィ出たか?」って。いや違うがな。

 結局予備の電球がないのでとりあえず80Wのやつをつけときました。けどまあ、その明る
いこと明るいこと。「こういうのをほんまに便所の100Wいうんや」。場違いなとこで、妙
に明るいやつ。薄暗がりなら分からんかったのに、やたら要らんもんがようさん見えます。

 人間ちゅうやつは、案外ひかりを恐れる動物かも知れませんな。昔から、「夜目、遠目、笠
のうち」なんてこといいますやろ。ちょっとほろ酔い気分で、薄暗い照明の下で見るからなか
なか可愛いなあなんて思てたおねえちゃん。昼間、逢うたら別人やったいうの、ようありましたわ。待ち合わせの場所に先に着いてたら、向こうからやってくるおねえちゃん見て帰ろ思たこと、マジありましたわ。

 いや、ネタ違いまっせ。もっとも向うの方も、おごったるとか服買うてくれるっちゅうんで
付き合うてんのんやろうけど。。。ほんま、明るいとこで見たらいっぺんに醒めますわな。。。 


ぐっちんさんへ 投稿者:Genko  投稿日: 3月18日(月)06時31分59秒

今日から5日間ほど、上京します。
家捜しに最終決着をつけてきます。
でも、貴方は京都へいってしまうとのこと。
おじきさんは春から私のところの後釜になりますから、
お互いぐるぐる回っていることになりますね。
運命の不思議さを観じます。
いずれ、京都でまたお会いしましょう。


インターネット喫茶 投稿者:らくりん  投稿日: 3月17日(日)23時23分36秒

ということならば、今までとあまり変わらないのでは?
などと思ったりしてますんですが……。
ハタばかり騒いでいるようですが……。


ですが 投稿者:Maro  投稿日: 3月17日(日)22時35分26秒

学院だとネットは無理ですね。。。
さみしいっす。。
あい らぶ ぐっちん です。(気持ち悪い?失礼しました。)


学院ですか 投稿者:らくりん  投稿日: 3月17日(日)19時04分31秒

まわりがそう決め付けているだけで、まだ、本人は断言していないみたいですが。

もし京都で、学院だということになると、
どこかで接近遭遇する確率は格段に高くなりますね。


追加 投稿者:ぐっちん  投稿日: 3月17日(日)18時07分04秒

 そやから、まあ「真理」とか「本物」とかいうもんは決して、普通考えられている
ような「ポジティブ」なもんやなくて<わたし>の「ネガティブ」さを通じて顕われ
てくるような性質(たち)のもんやおまへんやろか?

 その手の「真理」は自分の発明とかオレの専売特許とは呼べない性質のもの。


こもごも 投稿者:ぐっちん  投稿日: 3月17日(日)18時00分15秒

 狂信さんが自板で昔「信じきれないこと」を機の深信とむすびつけて考えておられたと書い
ておられたのが目が触れました。(ヨシモトの信―不信のこと?これイエローカード?)ほん
で、歎異抄の第九条をGenkoさんは親鸞の「諧謔的ユーモア」と評しておられます。

 またおじきさんは「おっきないのちがみつかったら、あとはかめへん、かめへん」だそうで
す。藤元師は「親鸞いちにんがためなりけり」。。。この歓喜の深さは決して透明な喜びとい
うようなものではない。。。まことに、真の喜びは、深き悲痛を胎蔵した喜びである。悲痛を
払拭するような喜びは、空しき喜びに過ぎない。深き悲しみを内包するが故に親鸞聖人も唯円
の疑念に同調せられたのではなかろうか」といわれてます。

 この頃、「ひとさまざま」とか「バラバラでええやないか」といった意見がいくつかみられ
ます。まあ、けどそれは「この世、娑婆、サハ―、堪忍土」の次元の話ではないでしょうか。
ひろさちやさん風にいうと娑婆のモノサシ。

 一寸の虫にも五分の魂とか泥棒にも三分の利みたいな「俺の理解にもどっかええ点がある」
みたいな感じ。でもそういった、私の側の「仕事」「業績」「理解」を差し向けて浄土に至
ろうというのが衆生の回向であり、それは従来から自力無効といわれているのではないでし
ょうか?

 いわば私が掴み取った「本願」みたいなんを披露するのと、「領解」とか「お味わい」とか
いわれてきたコトバは次元が違うのじゃないだろか?「真理」とはコピーできない性質のもの
なので、その人なりの「表現」をとる。それが「領解」だと思います。なぜなら、「影」の
濃さや長さは人それぞれだから。そして、その影によって「光」が届いたのが解るのだから。


ちょっとだけよ 投稿者:ぐっちん  投稿日: 3月17日(日)14時59分47秒

 誰かさんと誰かさんが サクランボ畑
 受注(じゅっちゅ)ちゅちゅしている いいじゃないか
 ぼくには 金庫番いないけれど
 いつかは 誰かさんと 口裏あわせ

 あんたも好きね へっくしゅん! 


追加 投稿者:ぐっちん  投稿日: 3月16日(土)19時59分27秒

 いや。。。そんな虚しい、ドリョクの積み重ねもチシキの山もいりまへんがな。。。

 見てはる人、見てくれてはる人、見えてはる人にはそんなこと、お見通しですがな。


よきひとのおおせ 投稿者:ぐっちん  投稿日: 3月16日(土)19時47分34秒

 空しい人生を送らないために    竹中智秀

  (中略) 最近の子どもたちは「死にたいと思ったことがあるか」の問いに、三割近くもが
「思ったことがある」と答える、といわれています。どうしてそう思うのかについては、
「僕がおってもおらなくても同じではないか。誰も、僕を必要としていないのではないか」
と、思ってしまうからのようです。このことは子どもたちだけの問題ではなく、それは私
たち自身の存在理由、存在根拠に関わる問題です。
 
 現代は極度に科学が進み、社会の構造そのものが機械化され、機能化され、組織化され
てきて、そのため専門的な知識なり、技術なりがつねに必要とされ、その社会の中で間に
あうのか、間にあわないのか、私たちのその能力が問題とされていて、「あなたの存在そ
のものが必要なのです」ということではないのです。(中略)

 子どもたちはそういう中で育てられてきて、誰からも「あなたの存在そのものが必要
なのです」と、声をかけられた原体験がないのでしょう。だからこそ、「誰も、僕を必要
としていないのではないか」と思う時、社会的死に追いつめられ、死にたいと思ってしまい、
自殺しかねないのです。それはもはや子どもたちだけの問題ではないのです。

 仏道のはじめは、私たちが、道理としての死、事実としての死をよく知り、よく見きわ
めて、その生死無常の身をどう生き、どう死ねばよいのかを問うことからはじまります。
その時はじめて、私たちは生きることに、真実に帰依(きえ)して生きる生き方と、そう
でない生き方との差異があることを知ります。(略)
                               (大谷専修学院長)

 
 まあ、女性なら「十人並みに」可愛い、イイおんなとして他人から見られたいと願うで
しょうし、男性なら「おれはひとかどのオトコだ!」と思い込みたいのでしょう。で、虚勢
を張る。でも現実はきびしい。第一志望の学校におっこちたり、意中の彼女にフラレたりと
。。。自分の無力さ、無能さに直面する。。。

 で、自分の白昼夢にこもる。「おれ様は、真理(本物)をつかんだぞー。(あるいは
本物を知っている<ヒト>を知ってるんだぞー)お前たちとは、ちょっと違う人種なん
だぞー。このおれ様には、この真理(本物)を伝える使命があるんだぞー。よーく聞けー
皆のものー。。。」

 いや、そんなリキまんでもよろしいガナ。。。戦争に反対したいんやったら、ビラ貼り
したり、署名集めたり、機関誌送るのに封筒貼りしたり。。。可愛そうなひと(?)に同情
したいんやったら、山谷や釜が崎で炊き出しする、老人ホーム行って、おばあちゃんの
爪切ったりお話相手したり、障害者の外出介助でいっしょにコンサート聞きに行ったり。。。

 なんぼでもあります。自分が役に立つことを証明するために、自分を必要としている存在を
めっけに行く。。。
 
 あるいは、仏教の知識でもって武装する。そして、いつか大先生に「きみ、よく仏教べん
きょうしてるね」と印可を受けることを夢見る。。。「ほれみろ、おれさまは大したやつだ。
わかったか、今までおれをバカにした奴らめ。。。」 


チェリッシュだぴょーん 投稿者:狂信 ☆彡  投稿日: 3月16日(土)19時18分13秒

そしてあなたは きょおとへいくの〜♪
きょおとのまちは それほどいいの♪
こーのー 私のー あーいよりもーうぉおおー♪


名コピー 投稿者:おじき  投稿日: 3月16日(土)17時43分21秒

「バラバラでいっしょ」―差異(ちがい)をみとめる世界の発見―


佛国ちがい。 投稿者:ぐっちん  投稿日: 3月16日(土)17時42分23秒

 とうとう一度も、お留守居役様さんと銀座の高級レストランで鉢合わせしないまま
東京を去るザ〜ンス。とってもお名残り惜しいザ〜ンス。ミーは、庶民の暮らしを知る
ためわざわざ、浅草のフランス座にも通ったことがあるザ〜ンス。我ながらとーっても
勉強熱心なミーザ〜ンス。
 
 Genkoさんとは、世代が違うからパリでお目にかかる機会は無かったはずザ〜ンス。
お焚きあげで思い出したのが、シトロエンの馬車に乗りながら、過ぎ去りし歴史に思いを
馳せ、しばしマリーアントワネットと恋の語らいの場面を想像したことザ〜ンス。えっ!、
彼女はギロチン刑だった?あの、ナニ。。。えーっとジャンヌダルクの話だったザ〜ンス。
シェ〜〜〜。 


♪旅立ち(1977) 投稿者:ぐっちん  投稿日: 3月16日(土)17時02分29秒

  EmB7 EmB7   C  D7  G
   私の 瞳が  ぬれているのは
  C   D  GB7Em  D7    Em
   涙なんかじゃないわ 泣いたりしない
  Em B7  Em B7 C D7  G
   この日がいつか 来る事なんか
  C  D   GB7Em D7   Em
   二人が出会った時に 知っていたはず
  EmB7Em  B7  C  D7  G
   私のことなど もう気にしないで
  C  D    GB7Em D7    Em
   あなたはあなたの道を 歩いてほしい


京都慕情 投稿者:おじき  投稿日: 3月16日(土)01時07分22秒

ありゃ、ぐっちんさんは京都に行くんですか?○谷○修○院の○科に入るんですか?
今からでも願書出せるんかな?学費と寮費があるならベストの選択やと思いますね。
坊主バー初代マスターの○○さんは京都府下城陽市のお寺で役僧するそうですよ。
海外行ってどうこう言うよりも、はよどっかのお寺の住職になって、僕みたいなカルト
住職もどきがはびこらんように、しっかり聴聞して林遊さんのような立派なご門徒を
育成するんが、これからのぐっちんさんの仕事やと思います。


ぐっちんさんへU 投稿者:Genko  投稿日: 3月15日(金)22時21分00秒

すると、私自身が「お焚きあげ」されるっていうことでしょうか?


ぐっちんさんへ 投稿者:Genko  投稿日: 3月15日(金)21時56分09秒

>そんないいわけ、自己弁護をあなたに「仏の慈悲」だと教えてくださった
>「善知識」はどなたでしょうか? 一度、お会いして教えをご教示いただきたい。

残念ながら、誰からの「ご教示」でもありません。
いわんや「善知識」や「ポストモダン」なんてご立派なものでもなく、私自身が今日まで経験的に自ら築き上げた一つの「慈悲」観に過ぎません。
私としては「いいわけ」や「<自>己弁護」では決してなく、おじきさんへの「<他>己弁護」のつもりだったのですが。
もっとも、おじきさんからは、いささか「余計なお世話」だったかもしれませんね・・・。


魔のトライアングル 投稿者:Genko  投稿日: 3月15日(金)21時41分21秒

柄谷の言う<資本制=ネーション=ステート>というそれぞれ固有の交換原理を異にした結合形態が、仮に世界の<現在>の本質だとしても、まさかこのトリニティ(三位一体)の循環の中に、この世のすべての諸問題が収まってしまう訳ではないでしょう。
以前にもここに書きましたが、私自身の<トランスクリティカル>な「社会科学者に対して<仏教>を」というもう一つのポリシーからは、実のところ柄谷「実践論」に対しては今のところやや批判的なのです。
ただ私としては「学者のたわごと」とまでは揶揄するつもりは毛頭ないものの、彼自身目下追加執筆中であると言う「パートU」と合わせてセットであると先述の『批評空間』の共同討議で宣言しておられるので、それを信じて、もう少し長い目で評価してみようと思っています。


お留守居役様へ 投稿者:Genko  投稿日: 3月15日(金)21時02分24秒

柄谷氏については(私自身二回程実物にお会いしたことがありますが)、どうしても「鼻持ちならない」部分が印象としてあるのは、いた仕方ありません。エリートだし、誤解されやすいキャラですから。実は、人物は私もあんまり好きではないです。
あくまで私の考えに過ぎませんが、『トランスクリティーク』については、彼の意図ならびに「実践論」としては、冒頭の「イントロダクション」と末尾の「第4章・トランスクリティカルな対抗運動」の部分から入るのがオススメです。お留守居役様は『資本論』にお強い方のようにお見受けしますので、第一部「カント」よりきっと第二部「マルクス」の方が「原理論」としては面白いのではないでしょうか?
なお、蛇足ですが、カント研究の草分けである黒崎政男氏が、季刊『批評空間』現在号(2002V−2「<帝国>と<原理主義>」特集号)の中の「共同討議:トランスクリティークをめぐって」で、「形は変だけれど古伊万里です」と、柄谷のカント読みの正確さにタイコ判を押しています。
ただ、大学時代に少しはカントに入れこんだ時期がある私としましては、柄谷カント論は、かなりアクロバティックだし、リスキーです。しかし、一面で「こんな風に読めたらイイよね」という最良の形に仕上がっているとも言えるし、今はその勇気の方を称えたいところです。


ぐっちんさん、に 投稿者:お留守居役様  投稿日: 3月15日(金)19時34分05秒

帰郷されるとか、
しばしのお別れということでしょうか。


ぐっちんさん、いち 投稿者:お留守居役様  投稿日: 3月15日(金)19時31分52秒

なんで私を呼ばれるのか解りかねますが、
人様々だなあと思い批判的な言動を控えておりました。
たとえば、Genkoさんがお奨めの
柄谷行人「トランスクリティーク」
半分ほど読みましたが、ピンと来ませんです。
読みやすい文章なのですが、
支点が固定していない。
問題の次元が一定していない。
などの理由からかと思っています。
とりわけ、前半のカント論では、
やたらと人名を挙げて引用していますが、
鼻持ちならないだけでなく、何を言いたいのか解らなくなっています。
この引用にかんする批判は、吉本さんが遙か昔にされていて、
人って変わらないもんだなあと感心しています。


ホームページ更新 投稿者:らくりん  投稿日: 3月15日(金)17時37分28秒

初めて写真入りのページを作ってみました。
昔ながらの「ほんこさま」(各家庭のお内仏の報恩講:おとりこし とも)の風景です。
山盛りの精進料理、は見ものですよ。
ご笑覧あれ。

http://web2.incl.ne.jp/fujiba/honko/honko.htm


A.I. 投稿者:ぐっちん  投稿日: 3月15日(金)15時33分53秒

 ぐっちんは41歳
 体重72キロ
 身長167センチ
 髪の色、最近白みの目立つ黒

 その愛欲は真実なのに
 その存在は、偽り

 (ワナワナブラザーズ配給 ズイーブン・スベルバーグ・監督)


ぐっちんさん、へ 投稿者:らくりん  投稿日: 3月15日(金)14時44分34秒

ご苦労さまでした。
ご住職は以前から存じ上げていましたが、現場がどういうところか
充分に知らないまま紹介したので、ちょっと気懸かりでした。


>らくりんさんへ 投稿者:ぐっちん  投稿日: 3月15日(金)13時56分47秒

 そうですか、「なんかあるな」と思わせる。それがヨシモトならぬフジモト師の
芸風の秘密でしたか。。。

 こんなとこで私的なハナシも何ですが(全部そう?)。。。らくりんさんに
ご紹介いただいた、この職場を後輩に託して、3月いっぱいで辞し帰郷致します。
母親の体調が思わしくないようです。さて、ご住職には充分なご奉公もできませんで、
申し訳なく思っております。らくりんさんにはお世話いただきどうもありがとう
ございました。


Genkoさんへ 投稿者:ぐっちん  投稿日: 3月15日(金)13時30分52秒

 そんないいわけ、自己弁護をあなたに「仏の慈悲」だと教えてくださった
「善知識」はどなたでしょうか?一度、お会いして教えをご教示いただきたい。

 ぐっちんは、そのようなポストモダン騙り(ガタリ?)野郎は、お焚きあげ
と申しているでしょう。


そうだ!京都へ行こう 投稿者:ぐっちん  投稿日: 3月15日(金)13時12分02秒

 まだご存命の、生きた念仏者にして教学者がいらっしゃった! 
 
 
  聞いてすぐ納得する素直さも、それはそれで尊いことですが、
  そういう人たちばかりのときには、仏法は、聞いてすぐわかる
  人たちだけにしか伝わらなくなってしまいます。なかなか納得せず、
  どこまでも問いつづけ、ひたすら考え、そのようにしてはじめて
  うなずけた人は、それだけに、うなずけた教えをどんな人にも伝える
  ことのできる言葉を身につけられます。   

                      宮城「仏弟子群像」 


鎮魂歌 投稿者:ぐっちん  投稿日: 3月15日(金)12時59分56秒

 やっぱり林遊さんみたいな、年期の入ったご門徒さんが激減しているというのが
この教団の危機の原因なのでありましょうか?おじきさんのような「カルト住職」でも
ご門徒さんが立派に育てあげてきた歴史がこのご宗旨のよさだったんでありましょう。

 おじきさんご自身が「カルト」であるのを自覚して「単立寺院」とおっしゃったの
ならそれはそれで賢明なご判断でございますが。。。


おーれーおれおれおれ 投稿者:ぐっちん  投稿日: 3月15日(金)12時48分02秒

 ファミコンサッカーゲーム。「ちょっとパープリンサンガ」ではボールが
飛んできて顔面に当たるってことがありません。もちろん雨や嵐や雷や雪もへっちゃら。
ぬかるんだグランドでドロんこまみれになるってこともありません。

 すいません、お留守居役様さん。われわれサッカープレイヤーのような顔をしているものは
みなバーチャルキャラクターでございます。ですから、他人を怒鳴りつけるような汗臭い、青
臭いチームメイトもおりません。お留守居役様さんがプレイに参加されず、客席で「非公式ガ
イドブック」をご覧になられながら、「ワールドカップ栄光の歴史」なるグラビアページを眺
めておられるのもむべなるかな、であります。

 このグランドでは、プレイが行われていません。すでにみな、お浄土へ旅立たれてしまい
ました。。。 


藤元先生 その2 投稿者:らくりん  投稿日: 3月15日(金)12時03分55秒

『六字釋研究 ―重複の論理―』藤元正樹 P162
 凡夫は凡夫であること、それを明らかに凡夫として見出されることは凡夫において
ではなく、かえって凡夫を仏になさんと願う人によってでなけければならな。
 罪を罪とし、悪を悪とするものは、既に、その罪を償い得、悪を癒し得るものにして、
真に罪とし悪と見出しえるものでなければならない。単に、罪を裁き、悪を責むるもの
は、罪を裁き悪を責むる資格はない。
 逆にまた、罪ある者、悪に悩む者は、ただ償いと、癒しが願われていることを覚(さと)
ることによって転成せしめられるべくあるものであろうか。
 罪もまた、法界より流れ出でしものである。


追想 藤元正樹 先生 投稿者:らくりん  投稿日: 3月15日(金)11時04分52秒

ぐっちんさん、もうはるかかなたの書き込みになってしまいましたが、
『六字釋研究 ―重複の論理―』藤元正樹、私も読みました。ほんまにややこしい
いいかたしますね、このお人は。でも、そこがこの人の魅力だったように思います。
「こいつ、なんかあるな」と思わせるものがありました。でいつも期待して、
最期までよくわからなかったり。今となっては、実はそれが「手」だったんじゃないか
などと、もうちょっと長生きしてほしかった。なくなられる1年前に、お宅にお邪魔
しましたが、半分ほどしか会話が成立しなかったような気がします。

上掲書P126

 命を教として見出すことは、真理の受証論理を示すものに外ならない。
 真理が、自分のうちにおいて生命になるときにのみ人は、真理を真理のうちに
認めると言われる。真理を自らのうちに命とならしむるものこそが教であって、
単に教説とsて、頭の中に詰め込まれ、講義せられるが如きものでないことは
言うまでもな。……
 真理はただ伝承の形式であると言っても過言ではない。
 さて、真理が、誤り無く伝えられ、過ち無く承けつがれる為には、伝えられ
るものが、承けられるものにおいて、今一度受け取り直されねばならない。
一般に内面性の複写というようなものはあり得ない。つまり、伝えるものの意
志が、直接的に承けるものの内面に複写する如きことはない。伝承の秘密はか
かる伝達の重複性にあると言ってもよい。伝えるものの心は、承けるものの心
に重複的に承け取られ、重ねて受け取り直されることによって真に所有となる
のである。
 したがって、伝えるものは、承けるものに対しては充分なる距離を取らし、
承けるものの、直接的に客観性のうちに凝固しないような仕方を選ばねばなら
ない。
 つまり、伝えるものは、その伝えにおいて、相手を突きはなして、承ける
ものが真理のうちへと受け戻しするように計らねばならない。……
 真理が伝承の形式において在るということが、かかる受け取り直しとして
の実存の重複を要とするならば、教は我々の生命を真理のうちに引き入れる
ために、その真理自らの取り来たる形式でなければならない。真理は、己の
主体性を保持する為に形を取らねばならない。真理の形とは言葉である。
まことに言葉は真理の宅であって、総序には「摂取不捨の真言」と示してある。
……
 言葉が真理の形であるならば承けるものは聞くことにおいて形を取る。つまり、
聞が真理授受の路であるということである。否、我々は聞の場においてのみ真理の
聞かれることを知るべきである。
 一切の経典が如是我聞において展開していることは、真理への道が、〈聞〉に
あることを明かすに充分であろう。
 まことに真理は説くことにあるのでなくして聞くことにあるのである。


多面多様体 投稿者:Genko  投稿日: 3月15日(金)05時26分01秒

一人の人間(個体)が、いつまでも固定された「思考の<自己同一性>」を保ち、首尾一貫した統一性のもとに生活を送れる筈がないことは、自分をモデルに考えてみたらすぐに分かることです。
ひとの内面は絶えず揺らいでいます。存在は、いつも自己矛盾に満ちているものです。
さもなくば人類は、最初から「宗教」など必要としなかったでしょう。
私達は、各々の寄って立つ当面の<場>によって、またその時々の社会関係の<ポジション>等によって、思考は絶えず<重層性>を帯び、判断は微妙に<移動>を繰り返します。
気分や体調も、日々変化します。ひとは一種の「多面多様体」なのです。
かつてパスカルは、言わば<横断性>において私達の「理性」の根源的な脆弱性を暴露しました。
フロイトは、言わば<垂直性>において私達の「無意識」の構造的奥深さを明るみに出しました。
私達は絶えず、自己の中にも様々な「異物」や得体の知れない「他者」を抱えて生きています。
だからこそ<命>は重く尊いし、私達の周囲を取り巻く人々がなおさら興味深いのでしょう。
「彼」は変化する。そして「自己」も限りなく変容する。こうして世界には毎日いろんな悲喜劇が起こり、色とりどりの人間絵模様が展開されていくのでしょう。
げに愛すべきは、この深遠なる<人間>です。まさに仏教の言う「慈悲」というやつですね。


僕は僕ですね。 投稿者:おじき  投稿日: 3月14日(木)20時09分16秒

ぐっちんさんが色々引用されてる僕の書き込み全てが今の僕ですよ。
ぐっちんさんには「これしかない」と言う救済の物語があり、そこに参加し、
そこに導いてくれた先達がいて、とても良かったですね。
元来僕は疑り深い性格で、今もいろいろと考えてます。考えながら死んで行く
かもしれません。別にそれでもいいかなというのが今の僕の思いですね。
ただ、僕は仏教に出遭った事は本当によかったと思っています。


あいまいなお寺のわたし 投稿者:ぐっちん  投稿日: 3月14日(木)18時06分14秒

 10月4日では

 >「仏教徒が平和主義者」だなんて言えないことは、戦前・戦中の宗派を問わず
 >「高僧・名僧」といわれていた人達の多くが戦争讃美していたことでよくわかります。
 >「仏教徒」といってもいろいろいてるわけで、個々人がどういう信念でどういう行動を
 >とったかを検証できる?だけでしょう。
 >その人達の行動が自分にどう影響を与え、自分がどう行動していくかによって「仏教徒」
 >である事を誇りうる時が来るのだと思います。

 といった「行動する仏教徒」みたいなご発言。で、3月5日では「出世間」という
タイトルで、

 >左翼親派のみなさんには親鸞さんは受けるようですね。
 >まあそれも一つの見方とは思いますが・・・。
 >(略)仏教の考え方には国家が悪で大衆が善みたいな階級闘争的なのもはありませんよ。
 >仏教徒は仏・法・僧の三宝に帰依し、世間の「全て」を「仮なるのも」と考えます。
 >仏教者が政治・経済云々言い出したらそれこそ国家の思う壺でしょうな。
 >出世間の視点=初期仏教では戒・定・慧の三学、聖道門では六波羅蜜の修行、
 >浄土門では弥陀の本願、を信仰の根幹において生活するのが「仏教徒」です。

 と「仏教原理主義者」になり2月7日では

 >多くの人々が本願の歴史に参画することを願いつつも、現実はとても厳しい状況です。

 >ではなぜ他宗ではなく門徒なのかと聞けば、門徒は盆も彼岸も大層にせんでいいから
 >楽でええがなとの事です。

 と門徒を叱り飛ばす。3月11日では

 >キリストに、イスラムに、道元に、日蓮に、マルクスに、吉本に、
 >結局自分が歩む道はいろんな先達の思想・実践を参考にして自分で決めるしかない
 >ですね。

 と多元主義者になる。。。


レンタル更新 投稿者:らくりん  投稿日: 3月14日(木)09時15分28秒

昨日この掲示板のレンタル料金払い込んできました。
これで、あと2年はOKです。
バンバン ご活用下さい。


おじきいじめ 投稿者:ぐっちん  投稿日: 3月14日(木)05時43分23秒

 3月11日の

 >結局自分が歩む道はいろんな先達の思想・実践を参考にして自分で決めるしかない
ですね。

 とありますが、自分で道を決めたイスラム教徒も禅宗信者もご本願の誓いで救済される
のですか?まあ、三吉さんのいわれる「自称「信仰者」の「念仏者」のお歴々も「法に向かう
動機」について掘り下げて吐露されてますまい」も肯けますわ。


補足の補足 投稿者:ぐっちん  投稿日: 3月14日(木)05時22分45秒

 2月20日の

 >僕がいいなあと思うのは「みんな菩薩の如来蔵思想」

 と今も思っておられるのでしょうか?

 3月10日の

 >僕の意見は、口称念仏が出来ない者でもご本願の誓いによって救済されると
思うのです。

 とあわせて考えると、誰でも菩薩で、誰でも救済される。不思議な「ご信心」です。


補足 投稿者:ぐっちん  投稿日: 3月14日(木)04時58分39秒

 ぐっちんは、やっぱり「お念仏」を喜んでおられる決定的な先達との
出逢いがありましたから、後に続いて行きたいという気持ちが湧きましたが。

 別に固有名を出さなくてもいいけど、おじきさんにとって「善知識」や
「善友」はいらっしゃるのでしょうか?弟さんが「善知識」とおっしゃって
いますが「本願」に出会ってないであろう、別に出会ってなくてもかまわない
「善知識」っていったい何なのだろうと不思議に思います。

 ご自身がお念仏を喜んでいる方を見出したからこそ、弟さんも「諸仏・諸菩薩」
と頂くことができるのではないでしょうか?あなたにとって「本願」ってどんな
「はたらき」をするのだろう?


???? 投稿者:ぐっちん  投稿日: 3月14日(木)04時15分32秒

 >おじきさん

 あなたのいう「いのち」なら「法華一乗」でもいいんじゃないですか?
あなたの10月28日の発言

 >「心配するな!我にまかせよ!必ず救う!」
 > 素直に「はい」と言えればもれなく「居場所」
 > がプレゼントされます。応募資格は「はい」
 > と言えるかだけです。

 居場所の確保が必要性がないなら、なんでこんな発言をされているのでしょう?
別に何でもいいんじゃないでしょうか。


これが本音かな 投稿者:おじき  投稿日: 3月13日(水)23時34分59秒

大谷派の先生から本願に出遭う人もいる。
左翼の親鸞親派から本願に出遭う人もいるだろう。
門徒の家から日蓮主義に目覚め、既成仏教を否定した妹尾義郎先生もいる。

弟が死んで遠藤誠先生の『般若心経』から仏教に関心が湧いて来た僕もいる。
手塚治虫さんの『ブッダ』を読んで「いのち」についていろいろ知りたくなった。
大学で学んだ仏教学や坊主バーで知り合った浄土真宗の坊さんの影響も大きい。
9歳で溺死した、弟(あきら)自身は念仏にも本願にも出遭ってたかどうか?
そんな事は誰にもわからないし、出遭ってなくてもかまわないと僕は思う。
でも僕にとって弟は僕に仏縁を結んでくれた善知識であり、
還相の菩薩だったのかもしれないと思う僕がいる。

本願が「はたらき」なら弟はまさに身をもって僕に「はたらいて」くれた。
今までお世話になった方々も様々な場所・形をとって僕に「はたらきかけて」下さる。
これはまぎれもない事実です。僕は「居場所」の確保なんてあまり意識しませんね。
みんなひっくるめて、おっきな、おっきな「いのち」(無量寿)の中に包まれて
いるんじゃないかと気づかされたならば、あとは、かめへんかめへん。


追加の追加 投稿者:ぐっちん  投稿日: 3月13日(水)18時32分48秒

 >ぐっちんさん

 親鸞さんのエピソードで聖徳太子の夢告というのがあって「あんたの命もあと十年ですわ」
とかいわれたとかなんとかいうのありました。「死」という現実をつきつけられると、「学び」
の質が変わるのかなあ。ガン宣告されたひとみたい。

 で、強烈な「差別」されるひとは、この現実から「あんたみたいなヤツは要らん。あっち
行け」と「死刑宣告」されるんやないやろか?

 あと、鶴見の『マニュアル』読んで、力づけられる人と、本当に実行してしまう人とは
どこが違うのでしょうか。「与えられたもの」と「求めているもの」の齟齬だろうか?


追加 投稿者:ぐっちん  投稿日: 3月13日(水)18時15分54秒

 >ねこさん

 ねこさんの「25時間目」のご了解は、お留守居役様さんともおじきさんとも違って
私には「響き」ました。ご自分をシロートとおっしゃってますが、なんの。別に「宗教」
は(というかお念仏は)衣を着ているとか、教団に属しているとか、ご本尊を掛けている
とかにはまったく関わりなく、みんな同じプレイヤー(?)だと思いますから。

 あと、「虚構」が「現実」に貼りついているから「現実」たりうるのではないか、
などとまた「カタイ」こと言っておる私です。一冊の<書物>が百の<現実>と関わる
から<現実>は<現実>というまとまりを持つのではないか。広末はそういうことを
いってたような。。。(あんまりよう知らんけど)

 「我」と「我がいまだそれでないところ」の存在が、共在しているからこそ、「我の
全体を問う」ということが可能になっているような。。。


書いてみるもんです 投稿者:ぐっちん  投稿日: 3月13日(水)17時49分51秒

 >Genkoさん

 なるほど。吉本さんの「信ー不信」というのはそういう文脈で読むのですね。ふぅ。

 >ねこさん。

 >あやまろう、あやまらねばならない、あやまることができない。。。私は、あやまることが
 >できない。あやまれない自分が申し訳ない。

 以前、『路上の夢〜新宿ホームレス物語』という読書メモでふれましたが、「かえりたい。
かえれない。かえらない」人々の気持ちと合い通じるところがあるなーと感じました。

 >らくりんさん

 そうなんです、なぜか「青」ではなくて「赤」なんです。みなさん。なんで、こんなことが
「一致」するのでしょうか。そういった問題について書かれた本を読む前に思いつくのですが。
まあ、三吉さんも知らばっくれる名人ですわ。「赤」についてのオハナシは、「三吉さんの
現場」からの応答かな?と思って読みました。

 >おじきさんへ

 本当にそんなこと自分で思っているのですか?おじきさんについてはいつも疑問です。
私は個人的には、おじきさんが「仏教」を志した理由の一端みたいなもんを知っています。
けれど、あなたにはいつも「この場では、こういう正解が用意されているからとりあえず、
それに従っておこう」という意図が感じられます。で、そういう方法で自分の「居場所」を
確保しようとされているように見受けられます。

 それは「善人」的なあり方ではないでしょうか?ぐっちん思うに、「居場所」を確保しよう
とした自分を振り返ってみると、「この場の主流派の意見は○○だ。よし、○○のおべんちゃら
、お追従、おべっか、提灯持ちをしよう」という戦略と「あくまで徹底抗戦。われは在野に
あり。正義はわれ(ら)にあり」という戦略を用いるようです。

 ぐっちんの杞憂に過ぎなければいいのですが。


人間なんて 投稿者:Genko  投稿日: 3月13日(水)17時08分13秒

>以前に「読書だけでは不十分、ヒトとの出遇いが大切」と申しました。それは、読書だけで
>自己の全体が問われることは、少なくとも難しいのではないか、ということです。

全く同感です。
ひとは、<読書>や<知性>だけで生活をするものではありませんし、誰にとってもそんなことは不可能です。「読書だけで自己の全体を問う」人なんて、果たして存在するのでしょうか?
私にとっても、一日24時間、書物を開いている時間なんてせいぜい2〜3時間が精一杯ですし、<知的>なことどもに費やす時間なんてここでカキコしているときぐらいが関の山でしょう。
大半は、寝ているか、仕事をしているか、メシを食らっているか、エッチなことを想像しているか、テレビ見てるか、その他愚かしい事柄をしでかすかに使われてしまいます。
私の場合でも、良き経験のほとんどは、<書物>なんかより、多くの先輩や友人から戴いたものです。
これまで自殺をしないで済んだのは、<知性>なんておこがましいものではなく、こんな私にでもほんのわずかの<喜び>をくれた、愛すべき<女>たちが居てくれたおかげです。
ですから、たとえば私の価値観なんてすごく単純なのです。
「一冊の<書物>より百の<現実>を、一人の<友人>より二人の<女>を」ということです。
要するに、ただの<すけべ野郎>に過ぎませんね。(笑)


知性 投稿者:ねこ  投稿日: 3月13日(水)10時18分34秒

おはようございます。朝からネコです。

昨日、「自分を〈疑う〉ことは人間技ではない」と申しましたが、自宅への帰り道に、
「自分を〈問う〉ことは人間技ではない」とすべきだったな、と思い直しました。
それは自分の存在全体が問われるということです。下記の不可知論は、たえざる知的意志の
ようなもの、ではないでしょうか。知に達する方法としての対話(弁証法 Dialektik)は
大切ですが、私が云わんとしたのは、そのような知的活動の全体を正しいと信じて疑わない、
そんな人間存在を問い質す目です。そのような視線は、自分の中からは出てきません。

ただし、知的活動の全体が問い返されたとしても、それによって知的活動が死滅するのでは
ありません。むしろ知性によって自己を立てねば!という急迫から解放されることで、
知性はより自由で軽やかになるように思います。自己の分際を知ることで、自己に安んじる知性、といったカンジでしょうか。(説明の橋をみっつくらい、跳び越しました。)

私自身は、そのような知性の持主ではありません。いつも議論して勝たねば!と頑張っています。それで、どうしても勝ちたがるヒトをみると、ときどき不思議な連帯感を覚えます。
ここに友あり!といったカンジです。解放された軽やかな知性というのは、すぐれた方々を見て、そう思うわけです。また夕方、もしかしたら遊びに来ます。

追伸1、
ドイツ人の学生も、よくしゃべりますよ。知への意志というよりも、発話への意志といった
カンジです。だけど、ある教授が云ってました。まちがったことを発言しても、それは授業に参加しているという証拠だから、ずっと黙っている学生よりも評価すると。なるほど、ですね。

追伸2、
以前に「読書だけでは不十分、ヒトとの出遇いが大切」と申しました。それは、読書だけで
自己の全体が問われることは、少なくとも難しいのではないか、ということです。
これは2/3行で片付けてよい問題では、ありませんね。また、いつか。

追伸3、
もちろん読書は必要です。五種正行でも、まず第一に「読誦」が挙げられています。
だけど、どうして礼拝や讃嘆をさしおいて、まず読誦なんだろう。
そぅ考えていて、思いつきました。

読誦とは、実際には三部経を読むこと(化本)。ですから五種正行の読誦とは、「聞」なのです。
まず仏説を聞く(読誦)。そしたら浄土を知る目が生まれ(観察)、おのずと頭が下がるように
なる(礼拝)。さらに念仏申すようになり(称名)、人生の様々な場面で仏道を行じることが
できるようになる(讃嘆供養)。こんなスゴロクみたいな解釈じゃ、だめかなぁ。それに、
どうして称名がこの位置なのか、わからない。
ま、シロートの思いつきということで、お許しください。


ぐっちんさんへ 投稿者:Genko  投稿日: 3月13日(水)06時12分28秒

>でもまあ、ぐっちんはこの急場しのぎの「宗教」では、やっていけません。浄土教を信じて
>おられないというみなさんは何か他の「救済のものがたり」をお持ちなのでしょうか?
>教えて欲しい。。。

それこそ「釈迦に説法」かも知れないですが、これを読んで、以下のように考えました。

『歎異抄』の一節に、弟子の唯円が師の親鸞のところへ「私にはどうしても阿弥陀さまを信じ切れないのです。」と悩みを打ち明ける場面があります。それに対して「唯円よ、おまえもか。実はな、ホンマはわしもじゃ。」と、そっと耳打ちする親鸞の姿をほのぼのと思い出しました。
ここからは、あの親鸞をして、未だ「信」と「不−信」との間で揺らぐ自分をあっけらかんとさらけ出す「いさぎよさ」を、否、それどころか彼独特の「諧謔的ユーモア」すら感じます。一方でさんざ「南無阿弥陀仏」を説いておりながら、ですよ。
一般に「〜と、されていること」に、おしなべて「救済のものがたり」(ぐっちん)を一向に見出せないのは、実は私とてご多分にもれません。(だから私は「主義者」になれないのです。)
どうでしょうか。いっそのこと、この親鸞さんみたいに諧謔精神たっぷりに、どんな「救済の<物語>」すら未だ<信仰>し切れない愚かで無力な<自分>を、いさぎよくさらし続けて生き抜いてみる(=楽しむ)っていうのは。「所詮人間なんてこんなもんや」と、最後まで<信>じ切れないかもしれない「阿弥陀さま」に、ついに身を委ねてしまうのです。
むろんこれは、<自己矛盾>です。しかし、<自己矛盾>が完全に無くなれば、それはそれで私達にはもうどんな<仏教>もどんな<物語>も再び不要になってしまいますから、一種のトートロジーですよね。
この世に<自己矛盾>無き人がもしいたとしたら、それはもはや「釈迦」か「菩薩」でしょう。
同じ「浄土教」でも、親鸞さんのはどこかユーモラスで、それ自体が既にどんな<物語>でも得られない究極の「救済」であり得るような気がしています。「念仏一如」というのは、今風に換言すれば、「どんな<物語>もないんだよ」というふうに私には聞こえます。
これがおそらく、(自力による)「<信仰>することとしないことがほとんど同じ」(吉本隆明)地平まで限りなく近づけて行った親鸞の、<他力>による「深い智恵」だったのではないでしょうか?


不可知論 投稿者:Genko  投稿日: 3月13日(水)03時56分09秒

私が昔在仏留学生だった頃、パリ大の付属研究機関として「東洋語学校」というのがあって、創設者の一人に、森有正(旧文部大臣・森有礼の息子)という著作家がいました。この方は、とうの昔に客死していたのですが、代表作に『遠ざかるノートルダム』という日記集が残っていて、その中に印象的な一説があったのが今でも思い出されます。
ある時彼は、キリスト教の歴史を研究しているうちに、ヨーロッパの思想史に、「不可知論」の系譜という大きな流れが伏流していることを発見します。
詳しいことは忘れましたが、平たく言えばそれは確か、どんなに正当な論拠を保持していても「にもかかわらず自分は間違っているかも知れない」という最後の一線だけは常に留保しておく方法的<態度>のようなものであったと思います。
実際、<批判(クリティーク)>という作業は、他者からの指摘や意見を、自己が「不可知論」的に吟味することを言います。言い換えれば、自己の「信」の中に、あらかじめ「不−信」を繰り込んでおく態度とも言えるでしょう。
だから、論争とは、「自分が考えたというそれだけの理由で、正しいと信じて疑わない」(ねこさん)ことどもを意見として披露することでは決してなく、本当は「自分が考えたことが、正しいかどうか」を「確かめるため」に行うものなのでしょうね。
この意味で、議論の場などで黙って発言しない人は、他の参加者から「自分の意見がない」と見なされるか、ないしはせっかく「良い意見」があるのに「不可知論」的<態度>を知らない人かのいずれかと欧米では見なされるのです。何しろ後者の場合は、単に「確かめたくない」だけの話なのですから。(議論の場でだけ突然声が大きくなる人とか、独壇場になってしまう人とかも、同じことです。)
それ故、本当に「自分が正しい」と信じて疑わない人とは、根拠の有無を問わず、そもそも自分で発言する必然性を持っていない人のことだと思います。いわば、存在自体が「独我論」を体現していることに無自覚な人と言ってもいいでしょう。
ねこさんの場合は、この場においてとにかく何らか意見を発言しているわけですから、私と同様、そんな手合いよりかはまだしも「不可知論」的だと思いますが、いかがでしょう。
私は、時には「自分を疑うことすら出来る存在」であることが、人間の証なんだと思います。


Re:自分を疑う 投稿者:ねこ  投稿日: 3月12日(火)20時19分47秒

あるとき平野修先生が、こう云っておられました。

人間は自分が考えたことは、自分が考えたというそれだけの理由で、正しいと信じて疑わない。
実際には、まったく無根拠なのです。(意取)

私は論争が好きです。いつも休みなく自己主張して、自分を大きく見せようとしている、
そぅ(小さな声で)認めざるを得ない。(他人に云われたら腹立たしいけど。
ここは知人がいないから、素性を隠して、そんなことも云えるわけ。)

だけど、ほんの数万秒に1秒くらい、「自分の考えというだけで、正しいと信じて疑わない」
という言葉が、ネコを問います。(でも自分を疑うって、人間技じゃないでしょう。)


Re:イワン・イリッチの死 投稿者:ねこ  投稿日: 3月12日(火)19時51分26秒

『イワン・イリッチの死』は、学生時代に岩波文庫で読みました。信仰の立場を明確にした晩年のトルストイは、道徳的メッセージが強すぎて、おもしろくないという意見があります。たしかに晩年の人生論や文学論は、再読した記憶がありません。ですが晩年のものでも、『イワン・イリッチ』や『クロイツェル・ソナタ』(浮気の話でしたっけ!?)は、人間洞察や描写の鋭さで目を引くものがありました。

『イワン・イリッチ』で覚えていることのひとつ。市民的に成功し、裕福になっていく主人公の家庭について、作者は「お金は、いつも少しだけ足りなかった」と記していましたね。これは、おもしろかった。理論的には、欲望は無限かもしれません。ですが実際には、私たちの欲求はそれなりに慎ましやかで、いつも自分の背丈よりも、ほんの少しだけ上を夢見ます。私は山遊びが好きですが、チョモランマに登りたいとは思わない。冬の石鎚山で十分です。また私は、自分の下手な書き物が百年後まで読まれることなどは夢想しません。せいぜい、十年先までは残りたいとか、ドイツ人にも引用されて威張りたいとか、けちな名利を燃やしているだけです。ここらのリアルな人間観察は、さすがだと思いました。

もうひとつ。主人公の最期の場面。イワン・イリッチは、死の床で一生を回想し「家族に謝りたい」という気持を起します。ところが最後の一息のとき、家族を前にした彼は「ゆるしてくれ」と云うつもりが、ついつい「ゆるめてくれ」と云ってしまう。あやまろう、あやまらねばならない、そう思っていても、相手を前にすると、人生最後の機会でも、あやまることができない。これは大きな問として、胸に残りました。私は、あやまることができない。あやまれない自分が申し訳ない、そうとしか云えない気がしています。
(十年前の読書ですから、細かな記憶違いはあるかと思います。お許し下さい。)


イワン・イリッチの死 投稿者:ぐっちん  投稿日: 3月12日(火)18時20分02秒

 カトリックの学校に聖三木図書館というのがあってそこには
「死と看取り」についての本がたくさん集められていました。

 そこで手にしたのがトルストイの本でした。黒澤の「生きる」という映画はこれを
ヒントにしたらしい。この本を竹田青嗣さんは、おおむねこう評していました。
「人間は生きてる限り、他者の評価に悩まされる。むしろ、端的に死は救いではないか」と。
皆様はどうお考えですか?


お筆先 投稿者:ぐっちん  投稿日: 3月12日(火)18時05分36秒

 昔、坊主バーに何かについて悩んでいる女の子が飲みに来ました。バーには大きな
パネルが飾ってありました。それは写真家の名前は忘れてしまったのですが、コソボか
ルワンダかの戦地で撮影された頭蓋骨でした。

 それを見ながら「あたしもいつかは、こうなるのよね。だったらこんなことで悩んで
いるのってバカバカしくなっちゃった」といいました。

 会社でもそんなことがありました。バイトの女の子が何かについて悩んでいました。
哲学科出身の尾崎放哉に私淑しているおっちゃんが言いました。「今に100億年もたてば
太陽の寿命が尽き、地球上の生命も何もなくなる。歴史の記憶も記録も何もかも。そしたら
今悩んでいることすら、消えてしまう」と。

 これで、女の子は持ちなおしました。また昔、鶴見斉の『完全自殺マニュアル』という
本が売れました。これを読んで具体的な死に方について学習した人の中には「強く生きて
行こうという思いが湧いてきました」という書評を送った人が多かったそうです。

 でもまあ、ぐっちんはこの急場しのぎの「宗教」では、やっていけません。浄土教を信じて
おられないというみなさんは何か他の「救済のものがたり」をお持ちなのでしょうか?
教えて欲しい。。。


♪月光 by鬼束ちひろ 投稿者:ぐっちん  投稿日: 3月12日(火)17時35分22秒

  I am God's child.        (私は神の子)
  この腐敗した 世界に堕とされた
  How do I live on such a field? (こんなところでどうやって生きていけばいいの?)
  こんなもののために 生まれたんじゃない

  I am God's child.
  哀しい音は 背中に爪跡を付けて
  I can't hang out this world. (この世界ではやっていけない)
  こんな思いじゃ どこにも居場所なんて無い


 ぐっちん、生まれてこのかた、自分の居場所を求めてさすらい続けているように
思います。で、居場所とは努力して勝ち取るものと知らず知らずのうち思いこんでいます。
努力をすれば金メダルがもらえる、スポーツ界。努力をすればノーベル賞をもらえる学問の
世界。努力をすればアカデミー賞がもらえる映画の世界。。。

 仕事ができなきゃ職場から解雇される。仲間とうまくやらなきゃ学校でイジメにあう。
人間界が共同体であるかぎり、居場所の確保は死活問題です。あたしは美人なのよ、おれは
腕っ節が強いんだ、わしは金持ちだ。。。何か自分の取り柄を主張し続けなきゃなんない。

 人間、何も誇るものがなかったら、貧乏でも不幸でも自慢のタネにします。そして、居場所
を確保します。「あたしってこんなに可哀相なオンナなのよ、ねえ、聞いてくれる?」って具
合。

 でもどうやら、浄土教の教えは、「オレはあたまがいい。俺の手は汚れてない。おれは、
おれは。。。」が要らないらしい。けどホントに本当だろうか?やっぱ、信心が必要でしょ?
念仏が必要でしょ?一生疑い続ける。

 けど、そんな疑ってる自分については、疑わない。不思議なものだ、人間ってやつは。


別にどうでもいいのですが・・・ 投稿者:Genko  投稿日: 3月12日(火)16時48分44秒

少し気になったもので・・・。ねこさんへ再度。

>デカルト的近代科学という、よく耳にする物云いは、私見ではアドルノ/ホルクハイマー
>の『啓蒙の弁証法』に影響された見方のようです。その先鋭的な視点は魅力的なのですが、
>それによって学問の現場の自己反省や革新力まで否定してしまうのは、不公正でしょう。

いわゆる「<近代>科学の祖」がデカルトであると言われているのは、なにもアドルノ/ホルクハイマーだけの専売特許ではありません。私が学生時代に取った「科学史概論」のある日の講義で先生が言っていたことでもあります。多くの「西洋哲学史」の教科書にもこのことはしばしば出てきます。何しろ、それまでの神学的世界観や中世形而上学から、<主−客>二元論を明確に提示し得た人であったわけですから。
それと、アドルノらの『啓蒙の弁証法』は確か、そうしたデカルト的「<近代>理性(=ラティオ)」こそが「啓蒙的<暴力>」の真犯人だとして、「学問の現場の自己反省や革新力」を逆に擁護する立場の本ではなかったのでしょうか?


千春ファンごめん 投稿者:ぐっちん  投稿日: 3月12日(火)15時33分23秒

 声のでかさに とまどうように
 飛び交う カネのように
 見積もれ 高く
 ばらまけ 多く
 小口の 口座ひろげ

 めぐる めぐる疑惑の中で
 マキコは 何を感じるだろう

 当たるライトの まぶしさの中
 はるかな国を めざし
 見積もれ 高く
 ばらまけ 多く
 ムネオの 旅が終わる 


訂正 投稿者:ぐっちん  投稿日: 3月12日(火)15時01分58秒

 めーぐーるー めぐるー 疑惑のなかでー


♪季節の中で 投稿者:ぐっちん  投稿日: 3月12日(火)14時50分58秒

 うつむきかーけーたー ムネオのまーえーを
 しーづーかにー とーきーは なーがれー

 めーくーるー めくるー 機密のなかーでー
 きーよーみはー なにを みつけるだろーおー

 カラオケで即興で歌ったけど、イマイチ反応がない。。。


単純明快 投稿者:おじき  投稿日: 3月11日(月)20時45分07秒

親鸞さんに関心があるのなら親鸞さんのお書きになった書物を読んでみる。そこには
「阿弥陀の浄土の物語」に参加しよう、それには阿弥陀仏の本願を信じて念仏申しましょう
と書いてある。25時に念仏するんじゃないですよ。それがイヤなら別の道を歩めばいい。

ゴータマ・ブッダに関心があるのならゴータマ・ブッダが語られたと言われている書物を
読んでみる。そこには出家して戒律を守り身口意の三業を清らかにして、四諦・八正道の
教えを実践し、こころ穏やかに和顔愛語を常とし止観の瞑想にうちこむ。それがイヤなら
別の道を歩めばいい。キリストに、イスラムに、道元に、日蓮に、マルクスに、吉本に、
結局自分が歩む道はいろんな先達の思想・実践を参考にして自分で決めるしかないですね。


ぐっちんさんもどき 投稿者:お留守居役様  投稿日: 3月11日(月)20時22分59秒

仏法が科学に役立つかどうか解りませんが、
少なくともお念仏は往生の役にしか立たないものでしょう。
命からがら谷底に飛び降りて助かったのは、
お念仏のおかげではなくて、
お材木のおかげでしたから。

三遊亭円朝作「鰍沢」より


死生さんからもらった本 投稿者:ぐっちん  投稿日: 3月11日(月)17時41分11秒

 『六字釈研究〜重複の論理〜』藤元正樹師・著 非売品

 「「設我得佛」の中にはつまり、我と我がいまだそれでないところの佛とが共在している。
  そのような仕方で、我々は現存在しているのである。佛と我とが共在するような在り方が
  願生者の内容である」

 「およそ、この世に我独りのみ存在するならば、このような我は既に人格ではない。。。こ
  のような我というものが既に人格でないということは、そのような人格が相応性を持たない
  からである。等しきものへの呼応性がないからである。
  人は、主客の関係をなすときに人格であり、また、人格であると考えられる。。。それは
  我々が知的に物事を認識するより根源的であると見られる」

  「即ち願は、現象学的には、自己投企と呼ぶよりむしろ自己設定的に決定せられている。
   つまり、予感的に自己を決定し、未来に自己を形成することでなくして、かえって現
   在的に、自己を逆説的に未来的たらしめることによって、それを先取し、引き寄せて
   いるのである」

  「正しく「与えられたもの」は「求めたもの」に先行していることの覚知でなければな
   らない。この「与えられたもの」が「求めたもの」に先行することの覚知が宗教的意識
   である」

 う〜ん、難しい。これじゃ、井戸端会議のネタにならんなー。唐茄子屋政談かー。


科学と仏法 投稿者:ねこ  投稿日: 3月11日(月)17時28分23秒

ご返信、ありがとうございました。異論、反論、いずれにせよ、ご返信頂くのは嬉しいことです。すべてに再返信する力といとまはありませんので、ほんの少しだけでお許しください。

1.私は特定の発言内容を対象として、社会科学と仏法について意見したわけではありません。どなたかが「社会科学」という言葉を使っておられるのは目にしましたが、それだけのことです。ここにご参集の方々は、真宗を共通の関心事とし、さらに社会科学その他の領域にも関心をお持ちのようです。それで、あんな発言をしました。ひとりごとの一種と思って頂いて、けっこうです。

2.それで云わんとしたことは、もしも私たちに仏法を伝えたいという気持が起きたとしたら、そのとき私たちは伝える相手のことを十分に知りたいと思うだろう。そのための手段として、社会科学の知見と方法に学ぶことはできるのではないか、ということです。

3.上記の立場は、仏法のために科学を利用するというものでした。ですが反対に、仏法のココロを以って学問に携わることで、ある意味で仏法的な学問的成果をあげたり、独自の学問上の方法論に寄与することもありうると思います。

仏教的学問なんて云うと、また笑われそうですね。最後の一線において、つまり、仏法は<不>可思議だという意味において、たしかに仏法は学問(人間の認識対象)とはなりえないでしょう。ですが娑婆は仏世ではなくとも、仏は娑婆のあらゆる場面において働きかけるものではないでしょうか。

また学問とは認識であり、認識は対象への関心から生れると云ってよいなら、学問的成果の性質を決定する最大の要因は、関心のあり方でしょう。どのような眼差しで相手をみつめるのか。それによって様々な姿が描き出されます。そして、この<関心>の部分に、仏法は作用しうると私は思います。(科学も学問も"scientia"、ここでは区別なしに使っています。)

4.(つづき)
仏法は科学ではなく、科学は仏法ではない。デカルト的世界観と仏教的宇宙は相違する。教科書的には、その通りです。ただし、この判断にも問題があります。科学史や科学哲学の本をかじると、まず科学の方法や枠組みが大きく変遷してきたことが教えられます。それに実際の学問の現場は、かなり多様です。(なーんて、自分の専門分野の話を一般化してはイケナイでしょうけど)

あまり面倒な話はしたくないのですが、ご反論下さった方は、事態を教科書的に単純化しすぎておられる気がします。デカルト的近代科学という、よく耳にする物云いは、私見ではアドルノ/ホルクハイマーの『啓蒙の弁証法』に影響された見方のようです。その先鋭的な視点は魅力的なのですが、それによって学問の現場の自己反省や革新力まで否定してしまうのは、不公正でしょう。

(作家の名前が並ぶような議論は、ほんとは苦手です。できれば、再反論はご容赦下さい。)

5.(また続き)
仏法と科学は相容れない。(とりあえず)私も、そう思います。なぜなら、仏法は世界を有機的な全体とみなし(華厳の一即一切など)、科学は対象を分析的に切り刻むものだから。だけど、こんな見方でいいのかなと、最近、自問しています。科学と仏法を対立的な図式で捉えるのは、すでに科学的世界観の一部です。「仏法は世界を有機的全体としてみる」というのは、科学の目に映じた仏教の姿でしょう。(おわかりでしょうか)

それでは、仏のココロには科学はどのように映るのでしょうか。ここらは、私自身、わからない問題です。わからない問題で、ゴメンナサイ。たがいに異次元にありながら無関係ではない科学と仏法の関係について、あれこれ考えています。


訂正 投稿者:ぐっちん  投稿日: 3月11日(月)16時56分34秒

 3ちゃんねる→三ちゃん寝る。。。

仏教とは目覚める教えではなかったやろか。。。


髪結いの亭主になりたい男 投稿者:ぐっちん  投稿日: 3月11日(月)16時32分21秒

 ○スポのお色気ページとか、女性セ○ンのゴシップとかしか読まん
おっさんやおばはんとも「宗教」の話ができんかなあとぐっちんはいつも
夢想しておりまする。

 吉本さん。
 渋谷陽一というロックDJが創刊した雑誌とか、現代思想の特集号とか東京の親鸞
仏教センターというとこが出しているアンジャリ(合掌)とかいう雑誌とかで、気に
なってこの人の発言を追っかけたりなんかしてみるのですが、何をおっしゃりたい
のかいまださっぱりわからん。

 きっとこの世代の方にはリアルな情況を共有された時があるのだとは思いますが。。。
よしもとを知らないーオーヤージたちさあ〜。

 まあ、わたくしめは、「宗門関係者をご縁にプレイヤーとさせていただいた」という自己
認識がありますから。「う〜ん。六字のお名号を称えるということが、あみださんのいわ
はる救いのゲームに参加することなんか」と言ううなづき。誠に初歩的な理解です。

 三吉さんにはぜひ「3ちゃんねる」という掲示板で、ご自身は興味の無い「哲学と仏教」
の部屋をつくっていただきたいと思います。
わたし、三吉さんはきらいなタイプじゃありません!ってぐっちんからのラブコール。
(自分で調べるヒマのないことをタダで教えてもらえるってありがたい)


辛口御免 投稿者:らくりん  投稿日: 3月11日(月)09時36分24秒

>大経なんて、史的釈尊が死んで5百年後にでっちあげられた経典です。
>「念仏」を具さないと、なぜだめなのか?
安田先生から教わったことですが、「仏説とは仏弟子が証しする」
私にとって仏説というのは、
「釈尊」の直説であるか否かということはあまり重要な要素ではありません。
安田先生の言をいただけば、それによって仏弟子が誕生する教が「仏説」である
ということになる。三吉さんにとって、この意味での「仏説」は何ですか。
そもそも、この意味で「仏説」と呼べるものがあなたにはありますか?

><自力の思いがひるがえされ念仏申すようになるためには>
>まじにわからないのは、こういう言説です。
> 何かしら「念仏」がゴールみたいな。。
> 真宗コミニティの中で「建前」として、こういうのは意味があるのでしょうが
ゴールとスタートという言い方でいえば、念仏は弥陀の本願のゴールです。
因と果でいえば果です。私たちがそれを称えたからといって、それによって何かが
起こることはありません。
それほどまでに念仏に抵抗がある三吉さんが、「念仏申すもの」となったとしたら
それは、それ自体で「大きな出来事(大事件)」だとは思いませんか。
もしかしたら三吉さんにとって、それ以上の大事件はないかもしれない。

>キリスト教徒や、念仏しない仏教徒はだめなのでしょうか?
>念仏しない非信仰者はだめなのか?
そりゃそうでしょう。念仏しないものが「弥陀の浄土の物語」によって
救われることはない。それ以外の形の「すくい」とか「さとり」はあるかもしれ
ませんが。そこまでは否定するつもりは毛頭ありません。
ただ、私を救う物語なんて、二つも三つもあったらややこしくてしかたがない。
私は一つで充分。
三吉さん、あなたには、これさえあれば他には必要ないと言えるような、
あなたを「すくう」たった一つの物語があるのかい?
それがないから、真宗を受入れられない自分を肯定するために、キリスト教や、
真宗以外の「仏教」を持ち出さなければならないのでしょう。
キリスト教がいい人はキリスト教で救われればいい。
真宗以外の「仏教」がよければそれで「さとる」がいい。
その人たちは何も「弥陀の浄土の物語」に依らなければならない必然性は何もない。
いつまでそんなしょうもない難癖のような話を持ち出していれば気がすむんですか。
こんな話は、酔っ払いのおっちゃんが信仰を持つものをからかうために
引っ張り出す常套句にすぎません。あなたは大袈裟な用語を持ち出して大層なことを
言っているように見えるけど、言っている中身のレベルはいつまでたっても
酔っ払いの「からみ」程度でしかない。

>かしこぶって、他力やさかいと、自力捨てたふりせんでいいし
>信心なければないでええし
>念仏したくなかったら、むりにせんでもええし。。
>したければしたらええと
こんなのはすべて三吉さんの「想像の他力」「妄念の信心」、「ねごと」にすぎない。

「赤」の感じ方へのレスもとんちんかんだったけど、やっぱりあなたは根本的に
どこかズレています。
他の問題についてはどうだか知りませんが、
少なくとも浄土真宗に関するあなたの言説に関する限り、
自分で言っていることの意味が、自分でわかっていない。
あくまでも、私の受ける印象にすぎませんが。


ねこさんへ疑問 投稿者:Genko  投稿日: 3月11日(月)08時11分30秒

>1.社会科学
>浄土真宗の関係者が社会科学を学ぶ。それは大切なことだと思います。だけど、そこから生れる>ものは社会科学的浄土真宗なのか、それとも浄土真宗的社会科学なのか。つまり社会科学を学
>ぶ、その心根は問われると思うのです。知的好奇心から学ぶというのがフツーでしょうし、それ>で良いと思うのですが、そこにほんの少しでも、
> 覩見諸仏浄土因 国土人天之善悪
> 建立無上殊勝願 超発希有大弘誓
>といったココロに通じるものがなければ、実りは少ないと思います。科学の視線で浄土真宗を解>体するだけでは、つまらないです。

私は過日、ここでのぐっちんさんへの反論として、「社会科学的仏教」なんてものはない、というようなことを言った覚えがあります。これは<形容矛盾>というものです。真宗でも禅宗でもいいですが、仏教の基本を少しでもかじったことのある人なら、仏教それ自体が「科学」ではないことは既に常識に属することです(もっとも、「仏教学」は植民地時代に主にイギリスとフランスで発祥し発展してきたものですから、科学的ではありますが)。仏教の意義とは、一つにはデカルト以来の「近代科学」の認識論的方法論を踏襲せず、もともとそれが「科学」以外かもしくは「非科学」であったことによって、常に「科学」以上の経験的な何ものかであり続けたことです。
私が理解に苦しむのは、一体ここの誰が「科学の視線で浄土真宗を解体する」なんて主旨の発言をしたのでしょうか? 過去ログを調べてみましたがどこにもありませんでした。
かつて私が「仏教者に社会科学を」と主張したのは、むしろ近年では仏教(真宗)を単にそれこそ「知的好奇心から学ぶ」だけの関係者があまりにも多いので、逆に「そんなヒマがあったら、社会科学を学んだ方が、まだしもアクテュアル(今日的)かつ有意義ではないのか」というアイロニカルな批判です。

>4.本を読んで〈仏法〉に出会う…
>それは、おそろしく優れた方だと思います。しかし、私は自問します。本を読んで〈親鸞〉に出>会うことはあっても、本によって念仏に遇うことができるだろうかと。これはヒトゴトではな>>く、私自身にとって大きな問題です。(善知識とは何かということです。) 本によって知的関心>を惹起される、これはフツーです。ですが、みずからを良し高しとする驕慢心を自分でひるがえ>すことはできません。本は仏縁となる。しかし、自力の思いがひるがえされ念仏申すようになる>ためには、よき師よき友の集い(サンガ)の力が必要ではないかと思います。先にも申しましたよ>うに、これは私自身が格闘している問題です。

しかるに、「阿弥陀経」にせよ「大経」にせよ「観経」にせよ「正信偈」にせよ、これらはみな昔の「本」です。親鸞「和讃」にしても、みな「本(=聖典)」の形で今日に伝わっています。
「本」を介して「念仏」に出遭うことが問題であるのなら、あなただけはこれらを極力読まないで、ただ「よき師よき友の集い(サンガ)の力」のみに徹し、「みずからを良し高しとする驕慢心を自分でひるがえ」していくことにどうぞ励んで下さい。
しかしながら、宗門自体や私の周りの「よき師よき友の集い(サンガ)」達は、上記に挙げたお経本のうち、少なくとも「阿弥陀経」や「正信偈」くらいは、せめて読むように日々精進しなさいと言います。宗門の教務所からも社会性に富んだアクチュアルな多くの「本」がこれまでたくさん出版されています。私がかつて通った多くの学校の先生たちも、「本」はできるだけたくさん読みなさいと言いました。すると、これでは「自力の思いがひるがえされ念仏申すように」ならないどころか、もともと彼らは皆間違ったことを私に教えていた訳ですね?


ねむい。。 投稿者:三吉  投稿日: 3月11日(月)01時35分59秒

で、自力は翻さなくてはならんものだろうか。。

あるとき、自然に翻るものではと。。。
むきになって、ひるがえそーとせんでも。。
りきまんでもええのではと。。

何か答えが先にあって、そこにヒタスラ頑張っていかれているような。。
それが。。他力なのであろうか。。

念仏もうさんという心がおこらんのに。。
信心が自然にわきおこってきているわけでもないのに
無理やりせんでもええのではとおもうが。。わたしは。。
自力が尽きるまで自力尽くしたらええやんと。。
それが、自力増上慢でもね、
それが己が身の事実やん。
かしこぶって、他力やさかいと、自力捨てたふりせんでいいし。。
信心なければないでええし
念仏したくなかったら、むりにせんでもええし。。
したければしたらええと。。

むにゃむにゃ。。


目眩。。。 投稿者:三吉  投稿日: 3月11日(月)01時27分19秒

<自力の思いがひるがえされ念仏申すようになるためには>

まじにわからないのは、こういう言説です。
何かしら「念仏」がゴールみたいな。。
真宗コミニティの中で「建前」として、こういうのは意味があるのでしょうが。。。

大経なんて、史的釈尊が死んで5百年後にでっちあげられた経典です。
「念仏」を具さないと、なぜだめなのか?
キリスト教徒や、念仏しない仏教徒はだめなのでしょうか?
念仏しない非信仰者はだめなのか?

それとよき師・よき友は、「念仏者」限定なのか?なぜ?
史的釈尊は、念仏者ではない。。。
大経の物語釈尊は、念仏を勧めるが。。。称名念仏を勧めているわけでも、
自力を翻せといっているわけでもなく。。がんばれといっている。

私にとって「念仏のみ真実」とおっしゃるなら、うんうんとうなづくが。。。
誰にとっても「念仏のみ真実」といわれるならば、それは、はずしていると私は思う。
で、「念仏のみ」が伝染するかどうかは、それぞれの人の自由ではないだろうか。
そこは「主体的参加」しかないとおもう。


幻想論としての共同幻想論 投稿者:お留守居役様  投稿日: 3月10日(日)22時35分58秒

一世を風靡したマルクス主義の史的唯物論によれば、
法、国家、宗教などの観念としての上部構造は、
現実の社会という物質的な土台の反映であり、規定される、と。
この「唯物論の公式」に対して、共同幻想論は、
幻想としての上部構造の独立性を主張するものです。
共同幻想論は、幻想領域が現実から独立していて、
独自の構造を持ち、それ自身の歴史が可能であると主張しています。
独自の構造というのは、「共同幻想」「対幻想」「個人幻想」のことです。
幻想としての歴史が可能というのは、
例えば、文学は、それぞれの時代の社会の在り方に規定されていて、
社会の発展に従って文学も発展する、のではなくて、
文学それ自身で発展すると考えます。
例えば、和歌の本歌取りのようなもの。
また、近代化された社会で、古代的な天皇制国家が存在し得たのは、
幻想としての国家は、社会現実からの独立性があるからだと考えます。
共同幻想論は、幻想を軽んじているのではありません。
むしろ逆です。
もし、国家が物質であったのなら、
化学変化の方程式に従って変化することになりますから、
気楽なものでしょう。


いいわけ欄の訂正 投稿者:おじき  投稿日: 3月10日(日)17時37分07秒

今朝方書き込みした訂正です。
「涅槃の真因はただ信心をもつてす。」真巻→信巻、
「真実の信心はかならず名号を具す。名号はかならずしも願力の信心を具せざるなり。」
 真巻→信巻、でした。お恥ずかしいです。

↓のねこさんのご意見、5番の幻想については共感いたします。


あれこれ 投稿者:ねこ  投稿日: 3月10日(日)13時47分02秒

しばらく見てないと、すごい投稿の山ですね。目を通すだけでも、一仕事です。あれこれ感想を申します。

1.社会科学
浄土真宗の関係者が社会科学を学ぶ。それは大切なことだと思います。だけど、そこから生れるものは社会科学的浄土真宗なのか、それとも浄土真宗的社会科学なのか。つまり社会科学を学ぶ、その心根は問われると思うのです。知的好奇心から学ぶというのがフツーでしょうし、それで良いと思うのですが、そこにほんの少しでも、
 覩見諸仏浄土因 国土人天之善悪
 建立無上殊勝願 超発希有大弘誓
といったココロに通じるものがなければ、実りは少ないと思います。科学の視線で浄土真宗を解体するだけでは、つまらないです。

ただし、仏法は普遍的にヒトツだとしても、その表現(解釈)は、時代や人間によって無限でしょう。その意味で、科学時代にふさわしい新しくて説得力ある仏法観の登場は、大歓迎です。(科学的発想とは、現代における末法のカタチだと思います。末法とは、そこに仏法がないということ。説明が必要ですね。)

2.25時
仏法と文学は25時に!という主張は、オモシロイと思います。(本来の意味はわかりませんので、自分勝手に解釈しています。) 25時というのは、どこにもない時間。それでいて、あらゆる場所に偏在するゼロポイントみたいなものでしょう。仏法(や文学)は、生活の一部として位置付けられるものではなく、生活のあらゆる場所に働きかける、高次のフィクションみたいなものだと思います(無用の用)。なんだか、お伽噺みたいな言葉づかいで、ゴメンナサイ。行住座臥、時節の久近を問わず、なまんだぶつ…ということでしょうか。

3.『仏陀を背負いて街頭へ』
そんなにオモシロイですか。戦争に抵抗した仏教者の記録として、学生時代に読んだ記憶があります。ですが、その抵抗において、仏法がどのように根拠付けられていたのか、わかりませんでした。お教えください。

4.本を読んで〈仏法〉に出会う…
それは、おそろしく優れた方だと思います。しかし、私は自問します。本を読んで〈親鸞〉に出会うことはあっても、本によって念仏に遇うことができるだろうかと。これはヒトゴトではなく、私自身にとって大きな問題です。(善知識とは何かということです。) 本によって知的関心を惹起される、これはフツーです。ですが、みずからを良し高しとする驕慢心を自分でひるがえすことはできません。本は仏縁となる。しかし、自力の思いがひるがえされ念仏申すようになるためには、よき師よき友の集い(サンガ)の力が必要ではないかと思います。先にも申しましたように、これは私自身が格闘している問題です。

4.吉本隆明
幻想論争を拝読して、かつて吉本隆明という名前が意味を持った一世代があったのだろうと想像しました。おそらく当時は、国家や社会がより確固としたものとしてあり、それを幻想と呼ぶことに、インパクトがあったのではないでしょうか。いまでは国家の変容(崩壊)や為替変動などは、日常的な意識の一部になっていますし、大人から子供まで様々な仮想現実の中を生きています。かりに街頭で「すべては幻想だ!」と叫んでも、それは狂気というよりも、「あたりまえ」としか見なされないと思います。

5.幻想
ですが私自身は、幻想論争が無意味であるとは思っていません。一切は幻想である(諸有無常無我等、亦如水月電影露)。これは仏説でしょう。しかし、そう教えられても幻想を実体化して、それゆえに苦しむのが人間です。これも、まったくヒトゴトではありません。たとえば、カネは幻想である。少し説明されれば、たいていの人が納得する意見です。ですが、それでも私たちは毎日カネの計算をし、カネゆえに人生をすり減らし、苦しみ傷つけあい、みずから命を絶つことさえあります。すべてカネなる幻想を実体化しているからです。一切は幻想だ、そんな〈言説〉は無意味です。幻想を幻想と知りつつ、それでも、それに執着せざるを得ない人間の問題。そうした目前の問題に、幻想論争の方々はもっと向かい合っていただきたい。これについては、また、あらためて投稿できればと思っています。


違うからこそ、面白い。。。 投稿者:三吉  投稿日: 3月10日(日)13時23分38秒

印刷物の「金赤」は厳密には「マゼンダ100%+イエロー100%」です。
印刷物は、「マゼンダ、イエロー、シアン、ブラック」の点々でフルカラーを
「擬似的」に表現している。
「赤」と目に映ったのは、「錯覚」ですね。
クライアントが何気に、電話などでそこを「赤」にしてとか「青」とか「緑」
とかおっしゃる場合があるが、彼が想定している「赤」はどの程度か、問題に
なる場合が多々ある。
カッティングシートについても
抽象的に「赤」という人ほど、後になって、私の「赤」とは違うとおっしゃる
方が多かったりする。色見本での具体的な確認が必要ですな。
「ローズマダー」「カーマン」「チェリーレッド」などと?
「マリンブルー」「オーシャンブルー」「ブリリアントブルー」?
「パーマネントグリーン」「サマーグリーン」「ビリジャン」?

あるいは薔薇の赤ひとつにとっても、真紅から鮮やかな赤、色々ある。
同じ華でも、カーネションの赤は、また別の色合いだ。

ある時、乱視の入ってる人と、「月」についてしゃべったことがある。
かの人は、月は10個だといった。それはそれは幻想的な世界で。。。
比較的明るい月の回りに重なるようにして、鈍くぼんやりした9個の
月が取り囲む。私の体験したことない素晴らしき世界である。

よくネットの掲示板などで、「バーチャル」と「リアル」を分けて
論ぜられる方がおられるが。。。
私はこう思う。直接あっているわけではなく、情報量は限定される
とはいえ。。。
「モニターの向こうには、人がいる」と。
ぐっちんさんのレスポンスは、ゲームキャラほど、単純ではない。
複雑怪奇だからこそ、「わからない」。

「独我論」と「唯識」の差異についてしゃべれとご指名があり、
サービス精神旺盛でおっちょこちょいの私は、さして関心もないが、
私の思うところを述べたが。。。はずしていたようで、「自分」を語っ
てないとご不興を買った御様子。。。

独我論は「反則技」。唯識は「逝きかけ」と述べるべきであったかも。
同じ「赤」ではないからこそ、意味があるのかもしれない。
大経製作者は「称名念仏」を一般に勧めるために書いたのではあるまい。
少なくとも中国の翻訳者は、悪を止め、善を修する努力をせよというのが
本意であろうし、この経とであったものは、得度すべきだとある。
在家仏教ですらない。
だが、私は親鸞をとおした「赤」、その後の親鸞とであったものを通した「赤」
の方に共感をおぼえる。
「光顔魏魏」にしても、経典製作者は、阿弥陀仏を説くことを「権威づける」ため
に、修飾したに過ぎない。
だが、親鸞は「教巻」で、それこそが「釈尊が世に出た、中心課題」と抑えてる
だけであるが、門末はそこに「出会い」までを抑える。
かように、解釈は深化し。。。意味は。。。広がり豊かになる。
原初の「赤」が展転する間に別の「赤」となるからこそ面白いと私は思う。


記憶Part2 「赤」 投稿者:らくりん  投稿日: 3月10日(日)11時38分45秒

>他人の見ている・感じている「赤色」は、自分の見ている・感じている「赤色」
>とは厳密に一致しているかどうかわからない。
私も小学生の時に、このことが問題になり始めました。
その時、私もなぜか「赤」でした。
それはどうしても確かめようがない。
他の人にそのことを説明しようとしたこともあるのですが、
「なに言ってのお前」って感じで、どうしてもわかってもらえなかった。

そのころから「識」なんてことが気になっていたんでしょうね。
それが「識」として仏教で問題にされていることなんか知らずに。
そして、人にものを説明すること、意味伝えることの難しさもそのころから
感じはじめていた。


『仏陀を背負いて街頭へ』 投稿者:お留守居役様  投稿日: 3月10日(日)05時35分48秒

↓日本の古本屋にありました。

http://www.kosho.or.jp/


おじきさんへ 投稿者:Genko  投稿日: 3月10日(日)04時30分15秒

>@『日本ファシズム下の宗教』市川白弦著、エヌエス出版会(たぶん絶版です)
>A『仏教の戦争責任』市川白弦著作集第三巻、法蔵館
>B『近代仏教の変革者』稲垣真美著、大蔵出版
>C『妹尾義郎宗教論集』稲垣真美編、大蔵出版
>D『仏陀を背負いて街頭へ』稲垣真美著、岩波新書(たぶん絶版です)
>E『フォービギナーズシリーズ、日本の仏教』梅原正紀著、現代書館

このうち、最後のEについては、約十年ほど以前に既に読んでいたものです。高木顕明や内山愚童らの存在を、最初に知ったのもこの本のおかげでした。
Dに関しては、私が長い間探している本です。未だに古本屋さんでもよう見つけません。
@〜Cについては、興味深いので機会があれば是非読みたいと思っています。
ご紹介いただいて、まことにありがとうございました。

なお、私の関心事は、必ずしも「ファシズム下での宗教の屈服」でも「仏教者の戦争責任」でもありません。むろん、このことは、そうした問題の重要性を否定することではありませんが。
むしろ、世が世ならこうした問題を必ず惹起してしまう私達の<交換関係構造>、即ち<<資本制−
ネーション(=国民)−ステート(=国家)>>の強固な歴史的トリニティを、いかにしてそれ以外の社会関係に変容させていくことが可能か、ということを、<仏教倫理>の視座から考えて行くことなのです。
私が柄谷行人の『トランスクリティーク』における<カント−マルクス>解釈を高く評価しながらも結局懐疑的たらざるを得ないのは、それに対して「アソシエーション」と「地域通貨LETS」の対抗軸だけで新しい<倫理−経済>関係が構築出来るような「希望の原理」の展望と見取図はまだ良いとして、それにしては肝心の、
@個人の欲望増殖(煩悩)の問題域
A個体の有限性−<死>の問題域
に一切触れていない点です。
私なぞは彼と違って、実はこの二点こそ、<<資本制−ネーション−ステート>>的交換関係の生成/継続の最大の歴史的エレメントではあるまいか、とすら考えてしまうのですが・・・。
柄谷の言う<倫理−経済>関係の前者を、カントではなく<仏教>に置き換えてみたら、多分面白いことになるでしょう。
何故なら、実に<仏教>こそ、この二点について釈迦の出現以来徹底的に考えてきた「倫理性の宝庫」だからです。


いいわけ 投稿者:おじき  投稿日: 3月10日(日)03時07分38秒

こないだの電話でのやりとりで
>信心正因というのが本心であって、念仏するということは親鸞においては本心では
>なかったが、弟子としての法然の教を無視できないという立場から、念仏してたんだ
というようにぐっちんさんに伝わったのなら僕の言葉足らずでした、取り消して下さい。

僕の意見は、口称念仏が出来ない者でもご本願の誓いによって救済されると思うのです。
口称念仏という人間の物理的な行為のみが救済の条件であるとは言えないと思うのです。
或いは、どんな念仏でも口称念仏だけしておれば救済されるとも言えないと思うのです。
念仏がなくても信心があればよいと言ったつもりは御座いませんでした。
「涅槃の真因はただ信心をもつてす。」真巻
「真実の信心はかならず名号を具す。名号はかならずしも願力の信心を具せざるなり。」真巻
という親鸞さんの言葉を、僕が誤解しているのかもしれませんが。


いみじくも 投稿者:ぐっちん  投稿日: 3月 9日(土)21時10分01秒

 三吉さんに「響いてこない」といわれ、そういえば過去Zazieさんにも
いわれたっけ。

 そう「誰にとっても」とはいえない。じゃあ、いつまでたってもどこまでいっても
「私にとっては」だけしかいえなのかなあ。。。他人の見ている・感じている「赤色」
は、自分の見ている・感じている「赤色」とは厳密に一致しているかどうかわからない。。。

 ぐっちんというキャラも実は「お話ゲーム」のプログラムと変わらないのかな〜。


回顧録 投稿者:ぐっちん  投稿日: 3月 9日(土)20時04分04秒

 ま、そういえばぐっちんも京都寺町の○栄堂さんで安田せんせの『自己に背くもの』
という本を手に取るまでは、林田茂雄とか古田武彦とか本多顕彰とか吉川英治とか野間宏とか
笠原一男とか倉田百三・・・・とまあ、きりがないほどの宗門関係以外の親鸞さんと出会って
いたんだもんなあ。

 これだけのおっさんたちを魅了する親鸞とは何者ぞ?という関心でしたわいなあ。ぐっちん
はあきっぽい性格で、好きになる女性も、タレントも、仕事も学校も趣味も5年ともちません。
しかしながら20年も直接・間接この親鸞が気になり続けているのは何ででしょうな?

 でもまあ、私の友人のお寺の住職候補さんが、「信心正因というのが本心であって、念仏する
ということは親鸞においては本心ではなかったが、弟子としての法然の教を無視できないという
立場から、念仏してたんだ」というような理解をこの間、電話で聞きました。

 え?あーた東京の魚河岸の近所の学校で真宗勉強してたんでしょ?そんな、家永三郎みたいな
話しを何で君がするの?と疑問でした。

 クリ○プの入ってないコーヒーはありうる。砂糖の入ってないコーヒーもありうる。けど、
念仏のない信心ってコーヒーの入ってないコーヒーみたいなもんやないか?


「どうじょ」の記憶 投稿者:らくりん  投稿日: 3月 9日(土)14時34分45秒

考えてみれば、私が生まれた村にも、歩いて1〜2分の範囲内に三つ道場があった
なあ。もっともそれらは昔から家族で常駐して、ほとんどいわゆる「お寺」の形に
なっていましたが。
子どもの頃は村の人はお寺とは言わずに「どうじょ」と言っていました。
ちなみに私のところは、寺号を持ったのは私が生まれたころです。
だから上○○と下○○にそれぞれ道場があっても何の不思議もないんですよね。


舌鼓→冷や汗→のんびり 投稿者:らくりん  投稿日: 3月 9日(土)14時28分53秒

昨日(8日)、生まれた村の近くの村の老人会の聞法会に初めて招かれて
お話に行ってきました。
同じ在所に知り合いの人がやっている食堂があり、そこの「熊うどん」が絶品。
少し早目に家を出て、少し遅めのお昼に「熊うどん」大盛りを食べました。
うまかった、ですよ。

そこのお店で、今日の会場である在所の道場の場所を聞いて、
ちょっと早目かなと思いながら道場へ。そこは在所の共同管理の道場なので
だれも常駐していません。そんなところがまだあります。
約束の時間40分前。人の気配がない。まだ誰も来ていないのかな、と思いながら
車の中で一休み。30分前になっても誰もこない。おかしい。
この辺の人達だったら、きの早い人は1時間前にでも来かねない人がいるはずなのに。
まして、お世話の人たちがこの時間になっても来ていないなんて。
日時を間違えたか場所を間違えたに違いない。心配になり、世話人さんの携帯に
電話。出ない。やばい、(∞;)。
たしか近くにもう一つ道場があったはず、とにかくそっちへいってみよう、と車をだす。
胸ポケットで「ブルルッ」、世話人さんから折り返しの電話。よかった。

どうも上○○の道場と下○○の道場を取り違えたようでした。最初に行ったのは上○○
実際は下○○でした。世話人さんのところは上○○なので、てっきりその在所だと
思っていました。

そこに呼ばれたのは初めてでしたが、
三つの在所の人が合同で老人会を持っていて、その日は午前中から総会があって、
午後は法話会という日程だったそうです。
上○○からも下○○からじいちゃんばあちゃんたちが歩いてこれる、
車で3分とかからない場所なんですが、それぞれに道場があるなんて……
思ってもみなかった。

実は、上○○ではないことがわかって、もう一つのところへ向かおうとしたのは、
また別の道場でした(冷汗)。そこでも5分もかからないのですが……(∞;)。

余裕をもって動いていたのと、携帯の番号を聞いてあったのが幸いしました。

帰り道、そこから10分ぐらいのところにある、ひなびた温泉につかって
その日の冷や汗を流して帰りました。
前から一度入ってみたいと思いつつ、いつも横目で見ながら素通りしていたのですが、
念願(オーバーかな)がかないました。
3人も入れば満配の杉野木の湯船と、3人分の洗い場。
薄めも加熱もしていない、ぴったし42度の源泉が湯船に常時注ぎこんでいました。
洗い場にも、源泉の札が下がった蛇口があって、常連さんはそれを洗面器に
流しっぱなしで身体をあらっていた。もったいない。

なんだかしらないけど、素朴さを満喫してきました。

今日は、美川の会。狂信さんは大丈夫かな?


老人会の方は、なんとも のびやかな 時間が流れていました。
昔は、どこもこんなんだったんだろうなと、妙になつかしい感じがしました。


千部読経の中止 投稿者:お留守居役様  投稿日: 3月 9日(土)10時18分37秒

親鸞聖人は、
集団の意志に従って千部読経を開始して、
個人の意志に従って中止したのだと思います。
ここに共同幻想と個人幻想の典型的な関係を見ることができます。

吉本さんのいう「幻想論」は、
哲学用語でいう「意志論」の範疇にはいると思います。


千部読経 投稿者:お留守居役様  投稿日: 3月 9日(土)00時19分30秒

津本陽「弥陀の橋は−親鸞聖人伝」上巻

親鸞聖人が、関東で三部経を千部読もうとしたことについて、
仲間の僧侶50人とで各々20回読んだことになっています。
しかも、名号の他に何の不足があろうかと反省はしますが、
仏の教えにふれるきっかけになり、
衆生利益になると考えて読み続けたことになっています。
ということで、
この部分を立ち読みしただけで購入しませんでした。

読経にしろ念仏にしろ、
このように合計するということはあることなのでしょうか。
法然聖人は、1日に何万便も申されていたといわれていますが、
分業じゃなかったと思うのですが。


http://www.trc.co.jp/trc/book/book.idc?JLA=02010225


梁山泊 投稿者:Genko  投稿日: 3月 8日(金)15時47分59秒

少なくとも、私の場合で言えば、野間宏訳『歎異抄』と吉本隆明による一連の「親鸞論」の系譜などが、その良き水先案内人でありました。それらの本に巡り合わなかったら、かつてフォイエルバッハの「宗教批判」を潜り抜けてきた私にとって、未だ親鸞とも真宗ともご縁がなかったことでしょう。
かの宮本武蔵には足元にもおよびませんが、無手勝流の剣法があってもいいと思います。
そして、頼もしいことに私の周辺には、同じ真宗僧侶でも、その無手勝流のつわものが、良き友人として割合多くおられます。


楽屋おちの反省 投稿者:ぐっちん  投稿日: 3月 8日(金)15時36分57秒

 つきたての餅もカビが生えて、カチカチになってたりなんかするからなあ。
でもまあ、焼いたら食えんこともないやろ。。。


ルールブック 投稿者:ぐっちん  投稿日: 3月 8日(金)15時17分52秒

 ただ念仏して弥陀にたすけられまいらすべし。


駄蛇足 投稿者:ぐっちん  投稿日: 3月 8日(金)14時42分19秒

 >長々と書きましたが、有体に言えば「吉本さんを通して親鸞さんに出会う人も
 >いるかもしれない」とだけですね、今回あなたに伝えたいのは。

 三吉さんのご指摘。

 >さて、サッカー評論からサッカープレイヤーになる可能性はあります

 と3月6日、えんじょーい・ふっとぼーるでそれについてはふれておりまする。

 いわずもがなのことをいわしていただければ、バックネット裏からの野次であれ、
球場外からの罵倒であれ、ご自宅でのTV・ラジオ観戦であれ、それらいっさいを
含んだゲームが球界である。とはあみださんからの視点からすれば、そうなのだと
おもいまする。


真宗とは 投稿者:ootubo  投稿日: 3月 8日(金)06時23分33秒

如来に照らされて、自己が明らかになる教えといただいています。
和田稠先生の次の言葉に感動しました。

真宗門徒になろうということは、
それによって競い合い、前進しようというこではありません。
(中略)
今まで身につけた真宗に関する教養・観念・信心・修行の全てを投げ捨て、
裸の愚者に帰って森羅万象にみなぎる宇宙の根元意欲、
如来の本願の呼びかけに聴くことです。
その時、人は初めて思い上がっていた自己の愚かさ、現代人の妄念妄想に目覚めるのです。
(同朋新聞 2002.3月号)


「誰にとっても」と「私にとっては」 投稿者:三吉  投稿日: 3月 8日(金)02時49分05秒

「共同幻想」「個人幻想」についてですが、「誰にとっても」「私にとっては」という「いい
換えは」はいかがと思います。
ぐっちさんにとっては、「こりごり」かもしれませんですが、「誰にとっても」ではないか
もしれません。えてして人は(たぶん私の生来の特徴でもありまが)、正しいと感じたもの
に、「誰にとっても」といつてしまうが、「私にとっては」と抑えたほうが安全ではないの
か。それが親鸞の「一人がためなり」ではないかと。
釈尊の遺言は二つあり、一つは、「教法と戒律を師とせよ」で、もう一つがこの「自灯明、
法灯明」ですが、私はこのうちの「自灯明」という意味をずっーと取れなかっ
た。なんでなんだと。煩悩塗れの自分をともし火になんかにすれば、間違って
しまうではないかと。ですが、今、これは「私にとっては」ではなかったのか
と、思う次第でございます。

長々と書きましたが、有体に言えば「吉本さんを通して親鸞さんに出会う人も
いるかもしれない」とだけですね、今回あなたに伝えたいのは。
それは、「墓守」「葬儀」「永代供養」の中から親鸞に出会う可能性があるのと「等
価」だと私は思っています。で、誤読の生じた理由は、たぶんプロのお歴々の
被害妄想だろうなと。あれは「真の仏教徒」なる言説に対するツッコミですね。

生意気申せば、プロだからこそ、はまっちまう「罠」もまたあるぞ、と。
「自称」という自意識からは見えにくいモノもあるぞよと。
(談義の流れで吉本さんを擁護しているような形になったが、私は吉本さんか
ら親鸞理解に関して肯定的に考察したのは今回がはじめてかも)

付言:生来怠け者で、他所から刺激がなければ、「もの思う」ことなぞなきにひとしい愚鈍
なる私めは、こーして、掲示板のやり取りを通して「思索の真似事」をしております。
ありがたいことでございます。
掲示板の管理人の真似事をひととき楽しましていただきましたが、諸般の事情により、閉
鎖いたしまして、他所様の掲示板で遊ばしていただいております。
ありがたいことでございます。


謹んで返礼申し上げ候ふ 投稿者:三吉  投稿日: 3月 8日(金)02時48分02秒

S学会の人たちと遊んでいた頃、彼らは自らをプレイヤーに擬し、余所者を評論家と論評
していましたが、他人様に対する「評価」は、須らく「評論」ではあるまいかと、感じた
ところでございます。
ゆみちゃんならぬぐっちんさんが、ゆみちゃんの人生を語ったとして、それもまた「評論」
ではないかと思います。そのお話とは違った、別のキャラクターを持った新しいお母様が
ゆみちゃんの物語世界をぶち壊し、「リアル」を教えて、「ねぇ、私たちと家族になってみ
ない?」と言っても、「うん」といったゆみちゃんもいるかもしれません。

人それぞれですし、人は変わるものだと思います。

ぐっちんさんは、自らを「やわらかい」と自己規定されておられますが、「今の私にとって
は」どちらかというとわかりにくいようなきがします。
私ごときの比ではないほど、雑学の情報量はあるのではないでしようか。
たまたま、あなたのフォローされている情報収集の「エリア」と、情報集めの「性向」「視
点」が違う。それだけのようなきがします。
それはそれぞれのキャラではありますまいか。

聞こえてくる聞こえてこないも、阿難の例もありますですね。
ぐっちんさんの「わが身は汚い」とだけしか私が自己に対して語ってないと「聞こえた」
聞こえ方は、ぐっちんさんのイメージですれば、私はそれに説明責任を負えないのですが、
「賛美」であれ「中傷」であれ、私に投影された私のイメージは、身から出た「錆」とは
申せ、なんと申しましょうか。。。「ご自由にどうぞ」とでも。。

「法に向かう動機」についてですが、逆に申せば、ぐっちんさんをはじめ、自称「信仰者」
「念仏者」のお歴々も掘り下げて吐露されてますまい。
少なくとも私には響いてきてませぬ。これはお互い様ではないかと愚考しております。
ただいえますのは、事実として私を含め皆様が、あれこれ井戸端談義するほどには、「法」
にひきつけられている。ここで「見える事実」はそれだけではありますまいか。
その点に、当方は自称のお歴々と「事実としての差」を感じてはいないのですが、往々に
して「自称」のお歴々は、そこに深い溝をご自分からおつくりになられる。


個人の幻想 投稿者:お留守居役様  投稿日: 3月 7日(木)23時15分59秒

共同幻想論では、
文学とか芸術を個人の幻想と考えていますが、
同様に「科学」も個人の幻想と考えています。
例えば、原子力発電の理論は、個人幻想ですが、
商業運転するかどうかは、共同幻想の領域にあると言えると思います。

「幻想」と言っているのは、
実体的観念、実在的観念を意味させるためですが、
「現実」や「物質」ではないものという意味しかなく、
善悪や価値観を持った概念ではないのです。


過去ログアップ 投稿者:らくりん  投稿日: 3月 7日(木)21時23分57秒

取り急ぎ、今年の2月28日分までアップしました。
たまにしかやらない作業なので、けっこうすったもんだしてしまいました。


おすすめです 投稿者:おじき  投稿日: 3月 7日(木)20時43分43秒

Genkoさんに一読して頂きたい本があります。絶版のものも図書館にはあるでしょう。
『日本ファシズム下の宗教』市川白弦著、エヌエス出版会(たぶん絶版です)
『仏教の戦争責任』市川白弦著作集第三巻、法蔵館
『近代仏教の変革者』稲垣真美著、大蔵出版
『妹尾義郎宗教論集』稲垣真美編、大蔵出版
『仏陀を背負いて街頭へ』稲垣真美著、岩波新書(たぶん絶版です)
『フォービギナーズシリーズ、日本の仏教』梅原正紀著、現代書館


以上は、新着順61番目から90番目までの記事です。

lycos homepage
ウェブを検索:

[ Free BBS ] [ bbs.teacup.com ] [ CHAT! ] [ CD / DVD ] [ 前ページへ ]


パスワード


管理者:fujiba@yu.incl.ne.jp

TeaCup AUTO BBS Level 1