〈 落 鱗 板 々 〉
【 お 願 い 】
相手が特定できる個人格への言及、および個人情報の公開は慎重に願います。
実生活や他の掲示板での「いきがかり」を持ち込まないでください。
「管理人へ」ではなく「らくりん個人へ」の用件には掲示板を使わないでください。
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私は、貴方のその過剰とも思える反応と執拗な固執に、
一種病的な気配さえ感得せざるをえないのですが、
一体、それを明確にして、それでどうなるというのでしょうか?
人生には、もっと有意義な議論や、前向きな話題といったものが、
まだたくさんあるように思えます。
「第一級」という審級を表す名詞が、何故に、
いきなり「全て」という形容詞的な普通名詞にまで一般化され、変化してしまうのか?
ここで私に感じられるのは、文脈をすり替えてしまう<作為>と、
私自身に対する何らかの<悪意>です。
私が今まで貴方に、どんな恨みを買うような悪事をしでかしたのでしょうか?
大変失礼ながら、私は、貴方の反論とも弁解ともつかぬカキコを毎回読ませて頂いて、
正直「アホらしい」という感慨を抱かずにはおれません。
こうした議論には、何の生産性もないと思われるからです。
けだし、近代以後のヨーロッパの思想界では、必ずしも20世紀後半のみならず、
もともと「<国家>と<個人>」をめぐる主題や「資本主義」をめぐる主題は、
例えばホッブスやルソー問題とかマルクス問題等を持ち出さなくても、
政治学や人文諸科学の範疇においては、扱いとしては最前線のホットな審級でした。
私がパリに住んでいた70年代後半から80年代初等にかけても、
別に学者でも学生でもない市井のタクシー・ドライバーでもカフェのギャルソンでも、
こうした政治的な議論は、むしろ彼らの好む毎日の話題の定番ではありました。
周知の通り、スターリン批判以後のユーロコミュニズムの伝統や、
サルトル以後の新左翼系知識人(アルチュセール、フーコー、ブルデュー、ドウルーズ=ガタリらもこの中に入る)らによる影響力や、「緑の党」の進出などもさることながら、
対米・対日経済政策上の必然性からも、はたまた、
陸続きのイスラム諸国間の石油利害や人種・宗教対立などの相互矛盾も手伝って、
<EU>へと大きくブロック化されてきた思想的背景には、
それぞれの地域ネオ・ナショナリズムや、
アソシエーショニズムなどの相対立する様々な動向や政治的確執が、
今でも敏感に錯綜し、複雑にうねっています。
特に68年5月の<革命>の影響を受けて、
主にイギリス、オランダ等から発祥してきた<カルチュラル・スタディーズ>派知識人
(以下「カルスタ」と略す)の第一世代(おおむね50歳後半〜40歳後半の世代)の多くにとっては、この「国家と資本をめぐる主題」はとりわけ最重要視され、
各分野で徹底的に追求されてきました。
そして今、「カルスタ」第二世代(おおむね40歳前半〜30代)の若手知識人らにとって、その主題的継承・関心はさることながら、むしろ今度は、
アメリカや第三世界の知識人へと飛び火し、一般化されて興隆し、
大学内で<制度化>された「カルスタ」それ自身が主題化され、
相対化されようというところまで来ています。
こうした思想界の世界的動向に只一人全く鈍感であり、お気楽なのが、
主に我が国の大学を中心とする<知>の生産場であり、私たち国民なのです。
つまり、戦後半世紀以上を経て、世界は、
各種テロリズムやグローバリゼーション問題が政治経済の中心主題となっているのに、
また自分たちの身近なところで「有事法制」や「住基ネット」などに見られるように、
憲法の平和主義や基本的人権が水面下でどんどん踏みにじられていくのに、
多くの国民はあまり怒らず、指をくわえて殆ど動こうとはしないのは何故なのか?
「日本の常識は世界の非常識」とは言われ続けて久しいわけですが、
きょうび、これほどこの国の人々の関心領域から、
「国家と資本をめぐる主題」が遠景化したことがかつてあったでしょうか?
繰り返しますが、欧米や第三世界の知的生産場やジャーナリズムにおいて、
「国家と資本をめぐる主題」は、今までも、また今後も、とりわけこの国においては、
なお引き続き議論の名に大いに値する「第一級の」テーマです。
三吉さんに先を越されてしまいました。
別の角度から私の心情を言い当てられていると思いました。
実体験を重視しすぎている点や表現上に若干の相違はあると感じますが、
おおむね承諾いたします。
繰り返しになりますが、私の主張は、
「第一級の主題」ではなく
<大事な問題の一つ>と言うべきであるということです。
念のため、簡単に原文引用の上、私の解釈を再度述べさせていただきます。
>「国家と資本の問題は、全ての根底にあり、全てに優先する」
と
>「国家と資本を巡る問題性(群)」が、
>久しく世界の政治と現代思想界の「第一級の主題」だという客観的事実の確認と、
>今日我が国ではこれが一般に等閑にふされているきらいが顕著だから、
>少しくらい考えてみるべきだと強調したいだけなのです。
とが異なる意見とは思えません。それは、
>少しくらい考えてみるべきだ
という理由が、
>「第一級の主題」
だからと読みとれるからです。
「第一級の主題」とは、全ての根底にあり、全てに優先する
ということではないのでしょうか。でなければ、
「第一級の主題」とは言えないはずです。
さらに、
>「国家や資本」の問題系は、その大前提でありマクロ的背景という意味で
>「第一級」と表現しているのです。
>それをヌキにしたら、ミクロ的な個別現場問題をいくら論じても、
>百人百様の意見が噴出するばかりで、方法論的に空回りするばかりだからです
と言われてもいます。
「前提」とか「背景」は、「根底」と同種の言葉で、
「大」とか「マクロ的」という形容は「全ての」に等しいと言えます。
故に、「全ての根底にある」との言い換えは正しい。
次ぎに、「いくら論じても」「空回りする」問題よりも「優先する」と解せるので、
「全てに優先する」という言い換えは正しい。
以上、証明終わり。
ところで、
>ここは飲み屋ではありません。
と言われていますが、
らくりんバンバン〈 落 鱗 板 々 〉という名称からして、
「バンバン」書き込みするということと
掲示板の「板」をかけた駄洒落です。
ここの最初のらくりんさんの書き込みには、
>〈おきらく〉を真似て自分で掲示板をオープンしました。
>これで、まあ、遠慮なく硬軟取り混ぜて、独り言のようなことも書いていけるかな。
と書かれています。
私は、「ゴッタ煮」みたいなものと解しています。
↓過去ログ参照
私の最初の書き込みに何と、早くも
「宗教的スターリン主義者」という言葉が出てきていて、
自分でも驚いています。私にとって「第一級の主題」なのかと思いました。
私が言う「スターリン主義」は、
直線的な一元論で、排他的で、しかも価値観が逆さまになっている
思考の様式を意味しています。
共同幻想優先思想の左翼版という意味合いなので、
個人独裁とか暴力的専制とか恐怖政治とかの意味合いは薄いのです。
この点を反省して、以後の使用に注意したいと思いました。
まこさんのレスは国会答弁みたいだというのは、私も同感であるが、つまりレスしても金太郎飴みたいなことしか聞けんと感じる。無駄であろう。血が通ってないのではないかと感じる。
ただ、査問に関してはまこさんと同じく私の少ない経験では見てないな。それは、職業活動家の上のほうの問題ではないだろうか。末端は無関係と思う。私は党ではないが、青年組織から除籍処分されたが、査問どころか、なにもなかった。規約では、除籍処分するとき、調査しないとならないとあるので、私から要求したが、おざなりにこれがそれであると言われて、彼らは私との接触を一分一秒でも早くやめたいという感じであったがね。
それと、元々共産党とは前衛意識というエリート意識があるので差別と親和性のあるところで、その元大幹部が差別的というのは当たり前で、それがどうしたという感じなのであるが。。。ぐっちんさん、幹部を信じいたのかね。で、裏切られたと思われているの?
党は民主集中制を賛嘆しているが、実質は上意下達だし、理念である下からの要望を上に上げ、その集まったものを集約してよりいい形でみんなに云々よりは、直接、横横で話し合いたいと本当に思うのははじきとばされる制度だと思うが(分派活動とみなされる)、まあ
まこさんのように鵜呑みにできる人は問題ない。
カースト制のインドでは、カースト制は差別ではないらしいぞ。
この世で罪を贖えば来世、どの階級も天にいけるので合理的だそうだ。
主観的なへ理屈などどの立場でもでっちあげられるのである。
曹洞宗の町田さんも日本には差別がないと言ったし、党も私たちは差別に云々と
当然いおうし、そんなことを鵜呑みにしてどうすると私は思うが。。
それと結婚の約束までして周りが引き離せば、この国法律では「同姓の合意」だけが
「一級の大事」なので、慰謝料請求できるぞ、その大幹部に。
問題の所在はその恋人が親の言うことを聞いた事実にあるのであって、親じゃないとおもうぞ。親に反対してまで、ぐっちんさんをまだ好きではなかった、と。
感想を求められても。。。(笑)
「主義者」から「主義的」と変更されたように、人格規定が意図ではなく
そもそものテーマ「第一級問題」という表現は、留守さんにとり、
<「国家と資本の問題は、全ての根底にあり、全てに優先する」>
と響いた内的な事実が主題だと思いますが。
私の温度差があるとの指摘は、げんこさんにとっての意図は、<少し考えてくれ>
なのですが、それは留守さんにとっては<大事な問題の一つ>という表現が適当で、
一級問題といえば、<すべてに優先する>となり、過去彼が苛めらたように、優先
問題に取り組まない人は苛められるとなり、そこを批判されているのでしょう。
そのトラウマが彼の拘りの理由ではないでしょうか。
私的には「全ての根底にある」とか「全てにそれの影響は免れない」というのは
客観的事実に属する事柄で、「全てに優先するかどうか」は、本人の意思に属する
事柄のなので、自然分けておりますが、留守さんとここで見解が違っているわけ
です。(だからげんこさんはそんなことは言ってないといわれているわけです。事
実をのべていると)
留守さんの感覚に沿ってモノを考えますと
社会的な問題を考えようという主張は、学生時代あらゆる方策・手段でやって
おりましたので、留守さんを責めた人たちと同様のことを私も過去やっていたと思
っております。
「10/21国際反戦デーに参加しよう」とか、その過程で「君は戦争に反対なのでは
ないか、わたしたち若者がこういう問題から目をそむけていいのか」とか、まあ、
詰めないまでも、参加しないことに結果的にある種の「後ろめたさ」を抱かせるよ
うなことはあったかもしれない。いやあったと思います。
問題の所在はここでしょう。「後ろめたさ」を抱かせる表現ではないかと。
あるいは、私たちはなにか社会問題をやる過程で、やっている自分たちはどこか、
なにかしら偉く、やってないひとを言葉にせずとも自然、軽蔑してしまいがちでは
ないかと思います。そういう傾向は凡夫のなので避けがたい。
100%ではないにしても、5%はあるかもしれない。
私の感覚にそっていいますと
留守さんもらくりさん(いれてあげる(笑))も、げんこさんも、誰しもがそういう
愚かな傾向を内包している。それに気づくか気づかないかは、センスの問題だし、
機の深信の問題である、と。
愛猫に何かあったということではございませんので、
ご心配にはおよびません。
たいしたことではなく、一喜一憂して疲れてしまったということです。
たとえば、一喜としては、探していた「乾燥イチジク」を購入できた、
というようなことです。
変則的な一日で、とても疲れて、
ついウトウトしてしまい、気が付いたのはつい先ほどでした。
お約束をたがえてしまい申し訳なく思っております。
TVでいろいろやってる。功罪あわせもっていた、と。
真紀子さんにある種、期待してたのは自民党を壊すこと。建物でも解体屋さんと工務店、
大工さんは、別の人。
>東西本願寺ともこの役僧問題と本末関係問題にきちんとした解決をしていかないと、21
>世紀を生き延びることは不可能になると思っていたりします。
これ、まこさんのご意見。ぐっちんは、つぶれるものはつぶれていくのがよいと思います。
自民党のように。。。で、
>住職の世襲制もなくしていかないと浄土真宗は生き残れなくなるのではないかとも愚考
>します。
とおっしゃいますが、民間でもやれます、郵便業務。親鸞と、本願と出合ったひとがいる
限り、宗門なくとも浄土真宗は続きます。
まあ、どっかの首相の答弁みたいですね。
「査問」?そんなことは、自分の身辺ではおこらなかった。差別発言した「党幹部」を私は
知らない。
「役僧問題」自分ところには、雇ってないから。「世襲制」考えなおさなければいけませんね。
。。。
あくまで私の体験による「社会派」僧侶、日本共産党員を意識して書
いています。「甘い」のは自己肯定があるからでしょう。自己否定する
勇気がないのかもしれません。
お留守居役様さんの言う、次の指摘について。
>「国家と資本の問題は、全ての根底にあり、全てに優先する」
一体誰がここでこんな発言をしたのでしょうか?
私は、このような発言は今までしたことがないし、
このような考え方は、従来も今後も一切持ったことはありません。
ありもしない例を引き合いに出さないで頂きたいものです。
私が言った文脈は、何も己れの思想や立場を申し述べたのではなく、
「国家と資本を巡る問題性(群)」が、
久しく世界の政治と現代思想界の「第一級の主題」だという客観的事実の確認と、
今日我が国ではこれが一般に等閑にふされているきらいが顕著だから、
少しくらい考えてみるべきだと強調したいだけなのです。
これを否定することは、事実を歪曲することになるので、
私は撤回するつもりはありません。
不思議な言葉ですね。住職後継予定の衆徒(候補衆徒は真宗大谷派の
用語?)が寺族でなければいけないという規定は浄土真宗本願寺派には
ないのではないでしょうか。在家出身の衆徒の方が住職になっている例
はいくつか知っています。
門主制がミニ天皇制であることは機会があるたびに指摘しましたが、
私自身が世襲で住職になることにはいまでも抵抗感があります。いずれ
住職の世襲制もなくしていかないと浄土真宗は生き残れなくなるのでは
ないかとも愚考します。
名指しを受けましたが、役僧問題がどうでもいいとは思っていません
し、東西本願寺ともこの役僧問題と本末関係問題にきちんとした解決を
していかないと、21世紀を生き延びることは不可能になると思ってい
たりします。具体的に所属寺院が役僧も本末も関係ないので、その立場
にたって発言できないことを申し訳なく思います。
>社会性抜きの信心は信心とは言えないと私自身は思います。
とまあ、「社会性」というのを錦の御旗に掲げられるんですが。。。門主制など宗門には、
厳しい目を向けられるまこさんが、なぜゆえ<社会派>僧侶や、日本共産党には甘いのでしょう
か?
ぐっちんは、「社会性」の内実(中身)を問わなければいけないと考えます。社会問題や
っておれば、それで万事OKなのでしょうか?
さて最終学歴中学中退(おめこぼしで卒業)のぐっちんが、元高校教師のまこさんに学習
指導を。
>社会運動に熱心な方々は、ご門徒さんの「ちまちま」した悩みにあまりお付き合いされない
>傾向があるようです
これをまこさん「決めつけ」とおっしゃる。ぐっちんは、「ある○○は××である」という
論理を念頭においてこれを書きました。(あまり〜〜しない傾向がある)
>私が東西本願寺非戦平和共同行動で出会った僧侶、本願寺派岐阜教区の僧侶、知り合いの
>真宗大谷派の僧侶は皆さん、門徒を大切にされています。
このまこさんの文章は、(皆さん〜〜である)という形です。つまり「すべての○○は××で
ある」という形です。どちらが、決め付けなのでしょう?
私の体験では別に脅迫を受けたことも脅迫をしたこともありません。
20年間の日本共産党員の間に民主集中制について異議を感じたことは
ありませんでした。政党としてはむしろ正常なあり様であるのではない
かと思います。
ぐっちんさんが書かれた大幹部とはどなたのことか存知あげません。
私の知っている幹部・議員はそれぞれ個性を持ちつつも、日本共産党の
政策の実現のために奔走されています。政党がその目的を達成するため
に党員を統制するということは一般的なことではないでしょうか。
穏健に日本共産党を離党して10年、平の支持者でいることは確かに
自由ですが、かといって現役党員の方々に離党を勧めるつもりはありま
せん。むしろ地元町議にアドバイスする立場にあります。町村合併問題
では共闘を組んでいます。
自民党や公明党には「偏見」をもっています。残念ながら魅力的な自
民党員や公明党員に直に逢った体験がありません。田中真紀子さんには
期待していたのですが、脇が甘かったですね。野田聖子さんとは男女別
姓のことだけは一致しますが、他の政策は駄目ですね。高市早苗さんな
んてとんでもないです。小泉純一郎さんももはや歴代首相と変わりませ
ん。それどころか、靖国にこだわり、有事法制という名のアメリカ追随
の戦争法案を継続審議にして、10月臨時国会での成立をねらうという
のは、トンデモないことです。
>お留守居役様さんへ
申し遅れましたが、この私ごときを、
サルトルやハイデッガーなどの<批判>的前例と同列扱いにして頂き、
まことにありがとうございました。
>お留守居役様さんへ
僭越ながら、私の日頃の「座右の銘」を二つばかりご紹介させていただきます。
「<知性>は、無限の優しさを目指す」。
これは、私の尊敬する戦後リベラル派の政治学者・脇圭平氏の好んだ言葉です。
「人間一般を知るのは簡単だが、人間一人について知るのはものすごく大変だ」。
これは、ラ・ロシュフーコーの有名な箴言です。
私(や多分三吉さんも)は、
貴方(や他の誰か)がこのサイトでどれほどのことを云々しようと、
それがネチケット違反でもない限り、限定的もしくは内在的な<批判>はしても、
その人の全人格まで規定しかねないような「レッテル貼り」だけは、
断じてすまいと以前から自分に言い聞かせていました。
それは、ここのサイトの少ないカキコだけでは判断材料に乏しく、
おまけに相手の素性すらわからないわけですから、
批判はあくまで一定の発言の正当性を巡ってのやりとりの範囲でしかないからです。
その一定性を逸脱して、問題が全人格に及ぶような発言だけは、
なるべく差し控えようとしてきたつもりだったのに、
貴方はそれを行使してしまった。
本当はそんな貴方のことを、以前から「スターリニスト」と言いたかったのは、
むしろ私の方だったかもしれませんよ。
しかしそれをやらなかったのは、私がたとえそう思っていて、
相手がそれを承認したとしても、
それを言ったからとて、何の役にも立たないし、事態は何も変わらないからです。
いわんや相手がそれを承認しなければ、お互いの関係が悪化する分、
余計にまずいことになるだけでしょう?
>そもそも、発端は、
>>あらゆる戦争は悪いわけではなく、抵抗戦争とか、
>>民族独立戦争はありだと思っている(三吉氏)
>と
>>「国家と資本をめぐる主題」こそ、
>>今日において第一級の問題であるに決まっているではありませんか。
>(Genko氏)
>に対する批判であったことを思い出していただきたいと思います。
が、どうしたと言うのですか?
私は、今でも三吉さんがここで言われている主旨には限定的には同意致しますし、
自分自身のこのカキコを、今までの主張の前後関係と文脈の流れから、
今後とも変更するつもりもないし、間違っていると思ったこともありません。
第一、私はこの意見を、お留守居役様さんに対して申し述べたつもりは全くないのですから。
私が「限定的」と言うのは、おしなべてひとの意見とは、なにがしか、
@特定の「何者かに」対して指し向けられるもの。
A関係性のなかで、既に一定のシチュエーションと意味場とが生じているもの。
B自己の前言までの文脈の流れを受けて、既に一定の「限定性」が生じているもの。
等々の特徴を自ずと持つものかと考えられます。
飲み屋でよく、すみの席に座っていた知らないオジサンが、酔っぱらった拍子に、
こちらの或る「ことば」だけを鬼の首でもとったかのようにとらまえて、
突然話の渦中に絡んで来る場合がありますが、ここは飲み屋ではありません。
お留守居役様さん、こんなところで油売ってる。
今終わったところです。
おやすみなさい。
マッハ主義というのがあったことを思い出しました。また、
プハーリン主義、プレハーノフ主義というのもあったようです。
このソ連における「〜主義者」問題に関しては、私が間違えていたことを認めます。
あえて弁明させていただければ、
敵と味方論で分別するスターリンと毛沢東のやり口が念頭にあったので、
「〜主義者」と断罪したことに思い及ばなかったのです。
ただ、やはり「反革命分子」とかの規定とは異なると考えています。
サルトルが「実存主義とは何か」という講演の中で、
「実存主義はヒューマニズムである」と言い、
キルケゴール、ニーチェ、ヤスパース、ハイデガー、マルセル
を実存主義者としたことに対して、
ハイデガーは「ヒューマニズムについて」を書いて、
自分は、実存主義者でもなければ、
ヒューマニズムという人間中心主義とも異なっていると
返事をしたことがありました。
>「〜主義者」という一方的<断定>をもって批判とするのは
>自由な意見交換を妨げるものでないでしょうか?
という「疑問」に対する「実例」となると思われます。
サルトルが、実存主義とヒューマニズム(人間主義)と
二重の断定をしたことによって、
ハイデガーから「言葉は存在の家である」という
象徴的な言葉を引き出したとも言えるからです。
そもそも、発端は、
>あらゆる戦争は悪いわけではなく、抵抗戦争とか、
>民族独立戦争はありだと思っている(三吉氏)
と
>「国家と資本をめぐる主題」こそ、
>今日において第一級の問題であるに決まっているではありませんか。
(Genko氏)
に対する批判であったことを思い出していただきたいと思います。
私の拙い私見によれば、
「スターリニスト」と「トロツキスト」との語源の出所であった、
スターリンとレーニンについての決定的な相違は、芸術や文学に関して、
前者がいささかも理解とセンスが無かったのに対し、
後者は優れた才能と教養があったということくらいです。
私は、己れのもともとの人生の出発点が「政治」でも「宗教」でも「哲学」でもなく、
拙いながらも「音楽」と「文学」であったことを想起せずにはおれません。
そして今現在ですら、再度大学の文学部に戻ってまで、日本文学にこだわりを持ち続け、
源氏物語や俳句などの古典を学んでおります。
どうせなら、「トロツキスト」と呼んで欲しかったですね。
>特定なされた方によると、医師が患者の病気を特定するのと同じようなものだそうです。
>ご感想は?
先だって感想めいたカキコは既にここで述べておきましたが、
例えば私がパリ大学時代に直に学んだ、
コレージュ・ド・フランスの正教授M.フーコー氏言うところの<近代的ミクロ権力>
の諸相(展開過程)には、そうした医師と患者のような「看る→看られる」関係、
あるいは教師と生徒のような「試験する→試験される」関係といった構造が、
必ず<装置>としてこの二者間に(前提的にかつ無意識的に)配分されていなければ、
成立しないことになっています。
その意味では、僧侶と門徒のような「説法する→説法される」関係もまた、
決して例外ではありません。
このたび私は確かにお留守居役様によって「スターリニスト」と命名され、
一方的に規定されたわけですが、かつて吉本隆明氏などが柄谷行人らに対し、
雑誌『試行』などを通じて批判的に呼称した「ソフト・スターリニスト」という名辞の政治的文脈や内容的必然性は応分に理解できても、
それは批判の相手が言論界において一定の影響力を既に有していたからで、
私など何ほどの社会的発言力も<場>的なヘゲモニーも有していないにもかかわらず、
それでも彼がその名辞を行使してきたこと自体は、
私の本音としては逆説的に「光栄の至り」だと喜んでいる次第です。
ということはつまり、自称であれ他称であれ、
今でもどこかにまだ本物の「スターリン主義者」がまだ残存していると仮定したならば、はっきり言って彼らは怒るでしょうね。
「我々をそんなつまらない奴と同じにしないでくれ」と。
私はむろん「スターリニズム」なぞ全く理解するに値しないと考えてきましたから、
自分自身がそうだと断定など出来ませんが、
よしそれがたまさか当を得ていると仮定しても、
今度はそれではあまりに「スターリニズム」という、
この歴史的にそれなりに重みのある概念が泣くような気さえします。
「スターリニスト」って、そんなに軽々しい存在だったっけ?
私は、元実存主義者ですから、人の本質規定として
「主義者」と言うことはありません。
「国家と資本の問題は、全ての根底にあり、全てに優先する」
という特定の考え方の部分だけを指して、スターリン主義者と同じと規定しました。
全人格的規定としてではないので、
スターリン主義的というべきであったかと反省しております。
最初は、
>我が国の隠れスターリン主義者のセリフと同じ
とか
>スターリン主義者の常套句です。
と言っていて、「スターリン主義者」と全人格的な規定はしてはいなかったはずです。
それが、いつのまにやら。。。
ところで、
ミクロとマクロは、次元が異なり、
むしろ、ミクロはマクロよりも大きい、
という主張に賛成していただけるでしょうか。
これをしもテストと考えて回答を拒否されることは自由です。
朝鮮労働党の実例は、視野になかったので勉強になりました。
ところで、実例に挙げられた、
「地方主義者」「家族主義者」「宗派主義者」「宗派主義分子」「技術神秘主義者」
については存じないのですが、
「スターリン主義者」と同列の「〜主義者」と言えるのでしょうか。
つまり「スターリン主義」のような思想大系があるのでしょうか。
自覚的な主義主張と言えるのでしょうか。
私もロシア、ソ連における実例を1つ思いつきました。
「無政府主義者」です。
私は、戦前戦中の我が国での「主義者」というレッテルと
スターリン=ソ連における「主義者」とは異なると考えていました。
非合理的で有無を言わせない決めつけとして
「主義者」と言っていたした我が国に対して、
ソ連においては、「反党」「反革命分子」などと名指していたと考えていました。
こころみに「主義者」でインターネットを検索をしてみました。
じつにたくさんの「主義者」があることを知って驚いています。
なんにでも言葉の末尾に「主義者」と付けています。
私の言う意味での「主義者」は、「イデオロジスト」のことであり、
合理的に説明可能な特定の思想信条の体系を持つものを指していました。
実に狭い意味で考えていたことを反省しています。
今でも、広い意味での「主義(者)」は、認めがたいと思っています。
例えば、「マイホーム主義」(家族主義者)などというのは、比喩的な使用例であって、
「交通戦争」が、国家間の本物の「戦争」ではないように、
しゃれ(比喩)のようなものと考えています。
ですから、狭い意味の「主義者」と広い意味での「主義者」とは区別すべきで、
実質的に「主義(者)」ではないものは「主義(者)」と言うべきでないと考えます。
非合理的に「主義(者)」ではないものを「主義(者)」として断罪し、
排除したことが我が国にはあったとしても、
ヘーゲル、マルクスの流れをくむ近代国家であった
スターリン=ソ連には、この手の断罪はないであろうと見当を付けていました。
むしろ、主義を問うことなく、敵か味方かで断罪していたのではと考えていました。
>実例 投稿者:CHINCHIN 投稿日: 8月10日(土)14時28分36秒
>解放前、中国で朝鮮独立期成同盟や朝鮮義勇軍の出身者・・・(誤)
>解放前、中国で活動していた朝鮮独立期成同盟や朝鮮義勇軍の出身者・・・(正)
>このほか、技術者として朝鮮で仕事をしていた在日朝鮮人の話として、
>共和国政府と党の指導で全国の電線を地下に埋設する計画に対して、諸外国(資本主義国)
>の工法などを示した上で漏電対策の不備を指摘した技術者が、西側の技術思想に毒された
>「技術神秘主義者」(?)として、政治犯などが送られる収容所にいれられたという報告
>もあります。
のなかで2回<技術者>という言葉がでてきますが、同一人物でなく、別の方のことです。
ぐっちんさんのアイデアは面白いですね。いいかもしれせんね。
龍大の社会学部で寺院に関心のある学生がどれだけいるか・・・つれあいが行ってましたが、滋賀県の瀬田にあるので、宗門色うすい・・・。
でも面白そう。
う〜ん、でもこれ以上仕事増やすと・・・悩みます。
学習会、おさそいありがとうございます。楽しみにしています。
お二人は、スターリン主義者だと「正しく特定」されました。
私にはわかりませんが・・・
特定なされた方によると、医師が患者の病気を特定するのと同じようなものだそうです。
ご感想は?
>正しい特定であると主張しているのです。
>理由はそこで述べています。
そうですか。三吉さんやGenkoさんのそれ(<スターリン主義者>という<特定>)に対する反応があっても、あくまで、「正しい特定」だとおっしゃるのですね。
あなたご自身がおっしゃるように、<スターリン主義者>というのは主張に対してのものではありません。ある特定の主張への指摘であれば<スターリン主義的>でよかった。(私は<スターリン主義的>だとも思いませんが)にもかかわらず、その主張・発言の主である個人格をさす<スターリン主義者>という言葉をもって三吉さんやGenkoさんのことを<特定>された。
個々人の根底にある主義・主張を掲示板でのやりとりだけで<特定>するようなことは私などには出来ないことです。三吉さんとやりとりしたり、あるいは投稿を読ませていただいていて、<スターリン主義者>だと感じたことはないですし、Genkoさんにいたっては、実生活でもお付き合いさせていただいておりますが、いまだGenkoさんを<スターリン主義者>だと「正しく<特定>」できておりません。
あなたの<特定>が正しいのかどうか、私にはよくわかりません。
個人格を<スターリン主義者>と<正しく特定>できるほどの知見のない私にはGenkoさんと何度か一晩中議論したことがあっても、Genkoさんのことも<スターリン主義者>であると<正しく特定>できませんでした。
本人がどういおうが、個人の主張からその人が何主義者であるのか「正しく特定」することが、あなたにはできるのですね。恐れ入りました。
>「〜主義者」とレッテルを貼った実例をお示しください
とおっしゃるのは<からかい>でしょうか?本当にご存知ない?
世代的にいえば、私などより生きた<スターリン主義者>たちに出会う確率が多かったはず
でしょうが・・・・
一応、実例として、スターリン主義の亜流、朝鮮労働党の粛清の歴史を示しておきます。
まず、日本からの解放以前から朝鮮にいた、朝鮮共産党系の幹部たち(朱寧河など)は「地方主義者」「家族主義者」という理由で、粛清。(主に独立から十数年の間)
解放前、ソ連にいた<ソ連派>の重鎮・朴昌玉らは「独裁反対」のほか、「家族主義者」という理由で粛清。(主に50年代後半まで)
解放前、中国で朝鮮独立期成同盟や朝鮮義勇軍の出身者が占める<延安派>の大半は金日成の独裁に反対したため、「宗派主義者」「宗派主義分子」として粛清。(主に1956〜58)
このほか、技術者として朝鮮で仕事をしていた在日朝鮮人の話として、
共和国政府と党の指導で全国の電線を地下に埋設する計画に対して、諸外国(資本主義国)の工法などを示した上で漏電対策の不備を指摘した技術者が、西側の技術思想に毒された「技術神秘主義者」(?)として、政治犯などが送られる収容所にいれられたという報告もあります。
我苦生さんのご指摘の
「名指しで批判しますが、モモさんに言っていることは
思いっきり他人事なんですが、、、。って、いうか、
とても善人臭くって、よく解らないのですが、、、。」
について
私の考えが伝わらないのか、ホント残念です。
小生としては、国民総番号制などがドンドン成立し
ますます国家に縛られつつある現実を危惧している
訳です。その中で、小林よしのりの主催する会合に
賛同する若者が多いということ、何とか自分の存在を
知らしめるためにバスハイジャックをしたり、小学校に
凶器を持って乱入したりという現実を悲しんでいるつもりです。
我苦生さんからすると、それが善人者とか偽善者と移るのかも
しれませんが。
そういう背景を自分なりには何とかしたいと思っています。
「何とかしたい」というのは偉そうだと言われるかもしれませんが
まずは実践をしていきたいと思っています。
そういう中で、今小生は都会の子どもが自然体験するのを
手伝っています。それは、自然がスキというのが一番ですが、
子どもは未来だと思っているし、その未来に対して責任を持ちたい
というと大袈裟かもしれませんが、何とか生きることが薄い子どもたち
に何かメッセージを送っていきたいし、彼らから多くのことを
教えられるからです。
何も自分が善人者していることや、偽善者面していることを否定
する気はありません。しかし、その中で何とか自分が出来ることを
地味でもしていきたいと願ってます。
お留守居役様さんの投稿が、
同一内容の二重投稿になっておりましたので削除いたしました。
共産党の有名人といえば、いわさきちひろの旦那、松本善明さんがいた。(ってこれも
オタクねたやな〜。でも本人じゃなくて、つれあいが有名なんだ)
で、ぐっちんの家には小児麻痺の妹がいるから付き合うな!とご丁寧な忠告をしていただ
いた寺族出身であられ東大出身の共産党の大幹部さまはいまは引退(宮本氏のご威光が地に
おちて同時に降格)なされております。
>CHINCHINさん
穏健な作戦としては、まず役僧の地位向上を謳った要望書を僧侶養成学校の校長(院長)に
手渡す。中央仏教学院、専修学院等。もちろん、龍谷大学、大谷大学の学長、学生部長、宗務
総長などにも渡す。(実務官僚、教育者宛て)。これは、まずこの問題を意識してもらうこと
から始める。
四大紙や赤旗や、地方紙の投稿欄に一般のひとたちに「役僧」という立場のお坊さんがいる
ことを知ってもらうため、実情を投稿する。各地の役僧さんにも匿名で投稿してもらうよう呼
びかける。
宗教社会学などをやってる宗門外の教授に(ないしはゼミの生徒に)役僧問題をフィールド
ワークして論文を書いてもらうよう働きかける。
などなど。。。
お悲しみの最中にこのようなことを申すべきではないと思いますが、
人のであれ、犬のであれ「骨」にこだわることはないと思います。
欧米人は、遺体を捜索しても、日本人のように
遺骨を収集することはないと聞いています。
愛犬の死をきっかけとして、人と争うのではなくて、
死についての思索を深められたらと思います。
私も愛猫の死を迎える準備をしようと思っているのですが、
とてもできることではないので、
それは何故かと考えている最中です。
下の方の削除をお願いします。
>その思想や主張を本人に確認することもなく
><特定>することなど出来ません
つまり、CHINCHIN さんは、本人に確認することが必要だと主張されました。
親鸞聖人の場合は「無理」だとすれば、この主張は誤りであることになります。
それとも、またもや「一般について述べたものではない」
と言ってごまかすつもりですか。
私は、
>三吉さんやGenkoさんの主張をスターリン主義者だと
>一方的に<特定>した
ことは、レッテル貼りではなく、
正しい特定であると主張しているのです。
理由はそこで述べています。
その理由を吟味することなく、
一方的にレッテル貼りになぞらえて批判されたので反批判しているのです。
(さらに細かいことですが、
「主張をスターリン主義者だ」というのはおかしいので、
「スターリン主義的だ」と訂正すべきと思います。)
反追伸
<トロツキスト>が<トロツキー主義者>と翻訳されたことがないとすると、
「〜主義者」とレッテルを貼った実例をお示しください。
でなければ、
>スターリンやその亜流たちも同じように
>「〜主義者」とレッテルを貼っては、
>「人民の名のもと」に人民を弾圧しました。
ということは、
>歴史的な事実
ではないことになります。
「〜主義者」という言い方と「反革命分子」や「非国民」
という言い方とは違うと思います。
このことを混同したのが、そもそもの間違いの発端と思われます。
私が言いたいのは、「〜主義者」と名指すことは、
必ずしもレッテル貼りではなく、弾圧することでもない
ということです。
>まこさんをはじめとする現ご住職ないしは候補衆徒(次期住職)の方々は、
>結局我苦生さんのよびかけに答えられませんでした。(らくりんさん除く)
何のことかよくわからないのですが、何にしても我苦生さんの呼びかけには
あまり応えられていないと思ってますのでらくりんだけ除かなくてもいいですよ。
元気ですよ。
8月4日の「聖戦大碑」集会後、久々にたっぷり時間ができたので
机の前になんぞ座っていられませんでした。
ゆっくりと娘たちといっしょにいる時間を持てました。
8月4日と言えば、
聖戦祭&小林よしのり講演に800人というのは、あくまでも主催者発表です。
実際に見に行った人によれば
倍近くサバを読んでいる感じです。それでも400人か……(∞;)
しかも、若者は案外少なかったとか。
本島さんの200人というのも主催者発表で、実質は150人ぐらいかな。
それでもPeaceSounds金沢と合せれば、200人は越えています。
ぐっちんの愛犬パグのダナちゃんは、かかりつけのお医者さんのもとで死にました。
享年15歳(人間年齢)。遺体は、お医者さんから保健所に渡されました。
生前、毛と爪はとってありまして、あとお医者さんが歯を抜いてくれました。だから
法隆寺夢殿の木製模型の中に眠っています。
犬と人間は違う。同様に天皇陛下と平民は違う。同様にごもんじき様と門徒は違う。
同様に寺族と在家は違う。。。
まこさんをはじめとする現ご住職ないしは候補衆徒(次期住職)の方々は、結局我苦生さん
のよびかけに答えられませんでした。(らくりんさん除く)
社会派といわれる(自称される)方々は、天皇制はどうお考えなのかなあ?ミニ天皇制門首
制については?ミニ門主制世襲制については?自分達に直接降りかかる問題にはほおっかむり。
ぐっちんは、ご門徒が自主的に寺という場所をつかって、宗門というネットワークを生かし
て自分達の声をあげるようなそんな寺・宗門であればなあと思います。寺は寺族の私物ではな
くして。その活発な活動の中から、ご門徒ないし衆徒の中から選挙で次期住職を決めたらいい
のだと思います。そういう人が出てくるのは、コワイだろうな。。。
だから門徒は生かさず殺さず、お客様として大切に扱う。そのための相談ならナンボでも
聞きます。
さびしくなりましたね・・・
飼っていた犬が死んだと聞くと、以前(もう8年くらい前ですが・・・)自分の実家で飼っていた犬が死んだ時のことを今も思い出します。
<犬死>という言葉がありますが、あの言葉はどうも・・
<無駄死に>という意味ですが、飼っていた犬を亡くした私としてはなんとなく受け入れがたい言葉です。
>その思想や主張を親鸞聖人本人に確認することもなく
><特定>することなど出来ません
>でしょうか。
私はそれは無理だと思います。<特定>できるのであれば、親鸞の思想をめぐる真宗の教義学的な議論の結論はすぐに出るはずだからです。しかし、古来から<特定>できない宗学の論題があるので、未だに様々な方が親鸞の思想内容をめぐってその理解を提示し、議論しているように思いますが。たとえばらくりんさんの『読み解く』にしても、親鸞の思想をすべてこれが正解とばかりに<特定>したものでなく、さまざまな角度から、「読み解」こうとされたものと理解しています。(そのあたり、らくりんさんのお考えはいかがでしょうか?)
それに親鸞に直接質問できない私たちは、その代わりとして、親鸞の著書に親鸞の思想内容を確認します。そこで、親鸞自身が断言していれば親鸞の思想として<特定>できるかもしれませんが、「そう読めるのでは?」といった程度にしか読めない場合は、あくまで<推定>にとどまるものでしかなく<特定>できません。
ちなみに、親鸞の話にすりかわってしまっていますが、もとはといえば、三吉さんやGenkoさんの主張をスターリン主義者だと一方的に<特定>した、あなた自身の発言がことの発端です。
追伸
細かい事ですが、<トロツキスト>という語は外来語としてそのまま日本語になっているので翻訳されないだけで、これをあえてより日本語的にすれば<トロツキー主義者>でしょう。あなたの<スターリン主義者>という言葉をGenkoさんが同義の語として<スターリニスト>と言い換えたのと同じです。
>うむむむ。それって偏見投げ合っているだけですよ
偏見というより実体験です。いち平党員には、すさまじい査問があります。ちなみに
私の恋仲を裂いたお寺の叔父さんというのも、繰り返しますが党大幹部です。
うちの犬が4日の夜に死にました。僕としては家族同様に暮らしてきましたので遺骨は
うちの墓に入れて一部はうちの庭に埋めようと思ってますが、父親は「動物と人間は違う
から墓に入れることはできん」と言います。また母親がどこかで誰かに聞いてきた話による
と、「飼っていた動物の遺骨などをうちの敷地内に埋めるのはその家にとってよくない」
という事なので「犬の遺骨を埋めるのはいやや」と言い、また僕が最後の思い出にと犬の
闘病姿をホームビデオに撮影したのですが「そういうこともしたらあかん」と言います。
両親の思考の根本には「動物の祟りを避けたい」というものなどがあるのだと思いますが
そういう迷信を否定する仏教を学んでいる僕の意見など聞く耳を持ちません。
僕は愛犬の事を「仏の遣い」だと思っているのでくだらん迷信など打破したいのですが、
両親にさえそういう話は通用しません、道は遠いです。
だいたい、共産党の専従職員というのは、つれあいが民医連の看護婦さんか何かで、生活まるごと共産党お抱えだから、異論、反論、オブジェクション(古い?)なんかにならない。
共産党やめたら仕事ないし、誰も彼もが同じ意見。これが組織原則である民主集中制。
公明党は、やめたら地獄行きだぞ〜とおどされるけど、共産党もやめたら、人民の敵(反党
分派分子)、生きては帰さんぞ〜という脅しが。。。
あくまで傾向と書いたはずです。例外の無い法則はないと申します。(その法則にも例外が
ある)
自民党の方が個性的でしょう。まきこあり、むねおあり、亀井あり、平沢あり、野中あり、
むちゃくちゃ役者ぞろいですがな。共産党は個性薄いわ。共産党で誰思い出します、一般市民
は。紙智子ですか?万年北海道ホーマツ候補。
「わかる」ということは、他のものに置き換えることであり、
他のものと一致していること知ることかと考えています。
「AはAである」では、わかることにならないので、
「AはBである」ことがわかるということかと考えています。
「AはAである」も「Aは非Aではない」と言いかえることによって、
AとBと同様にAと非Aの「差異の関係」になり、
わかるということになると思います。
この「わかる」ということは「知」の立場と言えます。
これに対するのは「信」の立場です。
「差異」に対して「同一」の立場になると思われます。
即身成仏や涅槃、悟り、解脱は、「同一」の立場と思われます。
恍惚となって、われを失い、仏とか自然とかの対象と一致し、
自己と他との差異がない状態だからです。
これに対して、親鸞聖人の言われる「不退転」とは、
死とか極楽、浄土や涅槃、成仏の手前ということですから
「差異」を言おうとしているのではと思われます。
親鸞聖人は、「信」ではなくて、むしろ「知」の立場かと考えました。
でなければ、あの膨大な「教行信証」を書かれるはずがないと思われるからです。
ですから、
阿弥陀様におまかせするとか、おさめとるとか、
偉い方が言われていることが、
仏と一体となるということでしたら、
親鸞聖人の趣旨とは違うのではと考えました。
>スターリンやその亜流たちも同じように
>「〜主義者」とレッテルを貼っては、
>「人民の名のもと」に人民を弾圧しました。
このことは、
>歴史的な事実
でしょうか。私の知る限りでは、スターリンやその亜流たちが
「トロツキスト」とレッテルを貼ったことくらいです。
ただし、「トロツキスト」とは言っても
「トロツキー主義者」と言ったとは聞いたことがありません。
スターリンやその亜流たちが使ったレッテルは、
「反党分子」「反革命分子」「反動」「ブルジョワ」「プチブルインテリ」などです。
「〜主義者」といった例を知りません。
>この掲示板の特定の個人の発言について述べたものではありません。
なら、ここまでの歴史的事実の確認は何のためだったのでしょうか。
ふつうに読めば、私=お留守居役様は、
「〜主義者」とレッテルを貼っている。
故に私=お留守居役様は、スターリン主義者であるとしか読めません。
つまり「スターリン主義者」が「スターリン主義者」とレッテルを貼っている
ことを歴史的事実をひいて説明しようとしたとしか読みとれませんでした。
こまかいことですけど、
>彼らが一方的に断定した「〜主義者」という<レッテル>をもって、
>異なる見解を排除してきた
ここで言われている「断定」と「排除」は別のことであると思われます。
「排除」するために「断定」することは、批判されるべきでしょうが、
「断定」をレッテル貼りとして否定するのは誤っていると思われます。
言うまでもありませんが、全ての「断定」が「排除」のためになされる
ということはありません。
ですから、私は、「〜主義者」と否定的に断定することは正しい行為であり、
批判されるいわれはないと考えています。
ところが、どうも、
>私などには到底他者にテストを課してその正否を判定したり
>その思想や主張をその本人に確認することもなく
><特定>することなど出来ません
ということが真意であったようです。
つまり「〜主義者」と断定することを批判されたかったのではなく、
私がテストしたことを批判されたかったことを確認いたしました。
さて、私は、
>テストを課してその正否を判定した
かったのではなくて、
>その思想や主張をその本人に確認
したかったのです。
「私」が「公」に優先するのは、当たり前と考えていますので、
当たり前のことを確認したかっただけです。
繰り返しになりますが、
>その思想や主張をその本人に確認する
ために
>テストを課し
たのです。
新たな疑問ですが、
>その思想や主張をその本人に確認することもなく
><特定>することなど出来ません
でしょうか。
その思想や主張を親鸞聖人本人に確認することもなく
<特定>することなど出来ません
でしょうか。
ぐっちんさんは「議会へ行こう」で、議員さんの所に行くということで、
これに対して、我苦生さんは自ら「議会へ出よう」ということですね。
お二人の意見が混乱したままでレスしてしまいました。ごめんなさい。
そうですな〜、西なら誰のとこに行くのか・・・・あるいは東なら・・・
例えば具体的にどの議員さんのとこに行くとかは考えておられますか?
私は宗政についてはもうひとつ良く分かりませんので・・
>選挙公報に主張が載る
って、大谷派には候補者の主張が掲載された「選挙公報」があるのでしょうか?
それは宗派が出しているのですか?
三吉さんの言われる
>動物に関しても水子と同じく、世間では「霊障」「たたり」として、
>脅かし金儲けに悪用している輩がおるみたいです。
といった話はペットを亡くされた方と関わっていると、ほんとよく聞きます。
あるペットの供養・納骨をしている寺院から、何十万もの額で「観音像を買わないと、供養しないぞ!」と、すでに納骨している方が言われたといった例などなど。
それに、「供養しないと<祟り>が・・」みたいな話を、ペットを亡くされて混乱している方に周囲の人たちがして、余計にパニックになってしまったという話も多いです。とくに火事や交通事故などでペットを亡くした方などにこういったケースが多いのです。
参考までですが、皆さんならこういったことに悩まれる方々とどう関わりますか?
宗会議員ですか?
CHINCHINは教師資格をもってないので残念(?)ながら被選挙権がありません。
(西の僧侶議員選挙では選挙権は全僧侶、被選挙権は有教師のみです。)
ですので
>本派は、今でも出れるんでしょう?(我苦生さん)
といっても私は不可能です。
ということで、ぐっちんさん、3年後の我苦生さんの出馬を前に、支援体制を・・・って
強引か・・・(笑)
>という中の、この「〜主義者」という言葉が、一方的<断定>・・・
の誤りです。
>というのは、この「〜主義者」という言葉が、一方的<断定>・・・
とあるのは
>というのは、この「〜主義者」という言葉が、一方的<断定>・・・
の誤りです。
最初の4行目までは、歴史的な事実を端的に述べたものです。
それで、それにつづく5行目文頭の「この手」というのは4行目までに述べた歴史的な事実としての、スターリン主義者やファシストたちの<レッテル貼り>を指しています。(したがって、ここではお留守居役様さんのカキコを<レッテル貼り>だとしているわけではありません。)そして、彼らが一方的に断定した「〜主義者」という<レッテル>をもって、異なる見解を排除してきた事実を
>この手の「〜主義者」というレッテル貼りは言論の自由を抑圧するスターリン主義者
>(死語?)やファシストが、異なる意見を排除する時に用いる常套手段です。
と確認しています。
ここまでは、スターリン主義者とその亜流、ファシストたちがおこなった歴史的事実を述べており、この掲示板の特定の個人の発言について述べたものではありません。
続く最後の2行ですが、まず、この文そのものは基本的に疑問文です。すなわち、問いを発しているだけのものである、という点をまず確認させていただきます。
>「〜主義者」という一方的<断定>
>をもって批判とする
というのは、この「〜主義者」という言葉が、一方的<断定>(「〜主義者」という語そのもの)をもって批判しようとする側から発せられるものであるので、これが批判しようとする者からみて、批判の対象者を否定的におさえた意味合いの言葉であることはお分かりいただけないでしょうか?すべての「〜主義者」一般について述べたものではありません。そしてそれは自称ではなく、(あるいは「〜主義者」という言葉そのものは自称と一致していたとしても、自称する者の用いている意味合いとはことなる否定的ニュアンスで)一方的に他者によって<断定>されたものにすぎません。
私などには到底他者にテストを課してその正否を判定したり(最近は我苦生さんにも出しておられますね)、その思想や主張をその本人に確認することもなく<特定>することなど出来ませんので、その真意をお尋ねしたまでです。
>「主義者」 投稿者:CHINCHIN 投稿日: 7月30日(火)18時07分50秒
>戦前は社会主義者・共産主義者・アナキストが、戦時中になると、自由主義者などもこう
>呼ばれて弾圧されました。
>スターリンやその亜流たちも同じように「〜主義者」とレッテルを貼っては、
>「人民の名のもと」に人民を弾圧しました。
>この手の「〜主義者」というレッテル貼りは言論の自由を抑圧するスターリン主義者
>(死語?)やファシストが、異なる意見を排除する時に用いる常套手段です。
>たとえ自分と見解がことなっているからといっても、「〜主義者」という一方的<断定>
>をもって批判とするのは自由な意見交換を妨げるものでないでしょうか?
というカキコについて、説明させていただきます。
<例えば『三吉さん』であったり>
いや最近はネットでは私は疲れ気味ですな。(笑)
遅くなりましたが、CHINCHIN さん レス サンクスです。
「水子供養」に関して、本派の伝道院特定課題研究会の文章が
「教学シリーズNo1 女人往生」の付録としてついてますが、
動物に関しても水子と同じく、世間では「霊障」「たたり」として、
脅かし金儲けに悪用している輩がおるみたいです。
<共に泣く>だけでも、こーいう輩にすがってしまいそうになる人が
仏教と出あう機縁になるかもしれません。。
まこさん
うむむむ。それって偏見投げ合っているだけですよ。
共産党に魅力的な人がいるならば、公明党にも自民党にも魅力的な人はいますって。
ものの道理です。
「うちだけが正しい、うただけがいい、うちのほうがいい」つーのは子供っぽすぎます。
>ついでに聞きますが、いまのGenkoさんなら、だめ連と親鸞の思想を照らして、どの辺が違うと思いますか?
まったく違うというよりも、そもそも両者は縁もゆかりもないものだと思います。
「親鸞の思想」とわざわざ限定しなくても、我が国の多くの社会性ある「運動体」もしくは「運動・のようなもの」は、いわゆる「仏教」一般に対してあまり親和性を持っていません。
「だめ連」の場合は、前にも言いましたが、対象それ自体が運動としては「不定形」のスタイルを取っています。ですから、「だめ連と仏教」という比較論が、そもそも議論として成立しないのではないかと思われます。
「モモさんに」じゃなく、「モモさんの」です。
>都会の中で隣に誰が住んでいるのかも分からん、そんな孤独の中で生きていると自分は何のために生きているのか疑問に思う。その中で、何か新聞で自分が大きく取り上げられることが生きている証しと勘違いしている人の多いこと、ウンザリします。というか、悲しくなります。生きている実感をどこで感じるのか?大変だ。
で、名指しで批判しますが、モモさんに言っていることは思いっきり他人事なんですが、、、。って、いうか、とても善人臭くって、よく解らないのですが、、、。
>生きている実感をどこで感じるのか?大変だ。
ただ、これは自分の本音なのでしょうか?自分のさけびなのでしょうか?それとも、やっぱり、自分は生きている実感を感じたからよくて、感じられない人達は、、、という話なのでしょうか?
また、あなたが感じたというのなら、それは、自分に何らしかの社会的価値を発見した、あるいは、された、という事と違うのでしょうか?その確かめはキチンとなされたのでしょうか?
まあ、私のような、あなたにとっては、価値のない人間の発言ですからまた無視されるのでしょうが。ちゅうか、お盆で忙しいですね。
>自分の存在意義を見出せないでいる人が多いいんだろうな。
でも、こういう発言をなされているという事は、
>生きている実感をどこで感じるのか?大変だ。
という事は、やっぱり他人事か、、、。あなたには、生命感覚、痛みがない。共に苦しんで生きようという意思がない。
お盆の忙しさを過ぎて、一度ひまになったら、一度平座で、キチンと出会ってください。
>議会へ行こう!
じゃなく、『議会へ出よう!』でしょう。
大派は、あと三年、本派は、今でも出れるんでしょう?
めざせ!東郷けん。選挙公報に主張が載るだけでも素敵だが、まあ、その時まで、私が役僧をやっているとは思えない、、、。
しかし、小山ひろあきさんには、感動したな、、、。
筋金入りの真宗門徒。
念仏は、お話じゃなく、生き方だ。ということを、さんざん見せ付けられる。
「お話」が嫌いなのは、お話でなら、なんでもいえる。もちろん、発言という行動も、もちろん認める。だけど、それだけじゃないでしょう?って、言いたい。
この、掲示板でもそうじゃないでしょうか?誰かが、その人を名指しで書きこんでも、無視したり、あるいは、全然違う書き込みしたり、、、。結構、きちんとその人に同じ立場で出会おうとしているのは、例えば『三吉さん』であったり、『お留守居役様 』であったり、『OYAJIさん』であったり、、、。坊主は偉そう。こういうのが、お話の典型。きっと、頭の中が、教団マニュアルのお話でいっぱいで、自分より価値が低い人の話を聞けないのだろうか?「こいつもいつか解るよ、、、。」とか、「話しても無駄」とか思ってんだろうか?坊主のくせに。
坊主、特に本山で仕事したり、なにか価値ある事をやっている人たち、自分の価値観の世界に閉じこもって、あまり対話出来ない。自分(達)の価値観に引きこもり。菩薩の死。さようなら、勝手に浄土でも作ってくれ。私には用はない。
坊主は、偉そう。って、いうか、偉くなってしまいがち。だから、キチンと本尊と向き合わないと。他人、特にクズなんてどうでもイイや、って思う私だから。
決めるな!決めるな!とは誰かの有名なお言葉ですが、ぐっちんさん
の決めつけには疑問があります。
社会派と言われる僧侶が門徒のことをほったらかしにしているという
のは解せません。ぐっちんさんのお知り合いはそうかもしれませんが、
私が東西本願寺非戦平和共同行動で出会った僧侶、本願寺派岐阜教区の
僧侶、知り合いの真宗大谷派の僧侶は皆さん、門徒を大切にされていま
す。私自身、月参りと法事と中陰法要を通じて個別に対話することを大
事にして、色々と相談事にものっています。
逆に非社会派ないし反社会派の僧侶の方々は社会性を持って門徒さん
と接しておられるのか疑問です。社会性抜きの信心は信心とは言えない
と私自身は思います。
ちなみに日本共産党には個性あふれる魅力的な党員が数多いことを、
私自身の友人・知人については言えると思います。幹部もそれぞれに個
性があって、演説や会見にしても特徴があるので、赤旗に掲載される演
説要旨などは欠かさず読みます。不破さんはずいぶん丸くなってきたの
ですがいつも読み応えがありますし、志井さんは切れ味が鋭くなってき
ましたね。癌を患われていたこともあって○○さんは(度忘れする位)
印象が薄いですね。似たような顔と言えば、公明党や自民党こそ該当す
るのではないでしょうか?
ようするにお坊さんのお話がつまらなく、受けないのは、自分がその教えに出会って
ないからじゃないの?自分を解放したものじゃなくて、寺に繋ぎとめたものとしてしか
感じてないのじゃないの?だから、ごちゃごちゃコリクツだけいってる。
佛教という大きな遺産を再発見できずに、そのカンバンだけを利用して自分たちの
既得権益を守るためのものにしている。ああ、これは「新しい」歴史教科書をつくる会といっしょじゃないか。あの手の人たちは、日本が心底好きで髷を結い、着流しで「なんば歩き」して時世の句がいつでも読めるように短冊でも持ち歩いているのであろうか?大東亜聖戦などといって、あたかも自分たちが戦争行ったからアジア諸国が独立したんだとかいうへんな「自信回復」のためにちょこちょこっと歴史を利用するだけ。
こんにちは。モモさんとぐっちんの意見が一致することが多くて、もうちょっと
絡んでもらった方がオモロイのではないかと思ったりなんかしたりして。。。
ぐっちんの手元に某教区の同朋大会の講演録があります。講師の方はちょっとした
知り合いなのですが。。。教化委員長さんと教区会議長さんのお話も載っています。
。。。だんだん参加者が減っている。それもおつきあいで参加されているようだ。
若い人がこず、高齢者ばかり。お勤めも出来ない人が増えている。。。経済不況、学級
崩壊、自然環境の悪化、自殺、虐待さまざまな問題が山積。。。
まあ、どこの同朋大会でも聞かれるような話。誰でもが思いつくようなことばかり。
で、失礼ながらこの講師さん?なのです。「寺を開く」というテーマなのですが、事前
に打ち合わせしたの?って感じ。講師の方の話もこの「寺を開く」とは関係ない話。
テーマと講師の話と前説がバラバラやんけ。まさにバラバラでいっしょといいたいのか?
若い人を集めたいのならそれに徹する。教育問題ならそれに腹を据える。地元の環境
を考えるなら、具体的にひとりひとり・お寺が何に取り組めるか提案する。何か宗門が
やってる「教化活動」という営みは、ポイントが絞りきれず、具体性や持続性がまったくないなーと思います。
ところで、らくりんさんお元気ですか?
CHINCHIN さんおよび我苦生さんへ。
さあ、いよいよ時が来た。っていったいなんの?そう、血気盛んな若者よ、決起しよう!病院に行こうでも、学校に行こうでもなく、議会に行こう。というか、議員宅へ
お邪魔しよう!
某大阪南部に住む、大谷派住職はこの度、宗議会議員に落選された。また某大阪南部
S市の市議会議員であった方は、この度市長選に出て落選された。まさにチャンス!
さあてお立ちあい。一介の役僧に何が出来るか?一介の市民に何が出来るか?いっぺん
ちゃんと聞いて見ようやないか。何かの用事のついでに、「ちまちま相談」するんで
無しにちゃんと事前学習会して、きちっと訪ねる。
どうすれば市民の、役僧の「要求」が実現するか?CHINCHINさんは、お西やからお東
との議会または宗憲の違いなどをお互いが情報交換したあと、疑問点をぶっつける。
また当の元議員さんに議員さんならではの裏バナシをお聞かせいただく。どや?これお
もろいやろ?市議会の話がヒントとなって、宗議会でどんな戦略をたてて、宗憲の網の
目をくぐるか?全国の役僧を蜂起させるか?ああ、オモロなってきた。。。
元ちとせという歌手のCDが売れているようです。鹿児島県奄美大島出身。
シロートのぐっちんにはこまかい違いが分からないけど、この人もまた<島唄>の
発声法のようだ。
古くは、フィンガー5、南沙織。新しくは、安室奈美恵、MAX、SPEED、
Kiroro、DAPUMP。。。これらの歌い手さんはあまり沖縄を感じさせないが
ネーネーズやりんけんバンドや喜納昌吉&チャンプルーズなどは沖縄民謡がベースに
ある。
やっぱり、どこに行っても自分のふるさと・土着の文化をベースに活動している人っ
てぐっちんにとってとてもカッコいい。
わからないということは、ぼやっとしてイメージがつかめないことだと思います。
わかるということは、ぼやっとしていたものを構造として形式化(もしくは数式化)
できたことだと思います。ひらたくいうと、かたちのないもののしくみをかたちとして
捉えることができたことだと思います。
具体的に言えば、たとえ話をつかって説明するとか、図で説明できるようになること。
ここ一週間ほど、チェックはしてたけどカキコできずに
いたら、ぐっちんさんからの発言で
「岐阜といえば、中村久子というひとを思い出します。
あぁむかしは、歎異抄読んで影響される障害者の方も
いたんだーという感慨。しかし、なんとなくこの中村
さんの著書『こころの手足』などをすすめるような人は、
ぐっちん好かん。」
という発言ですが
小生も苦手です。中村さん自身ではなく、この話しを
ウリにしている方が。中村さんは自分の生きることを
懸命にされた方として凄いと思いますが、「手足がなくても
生きる人」という発想は、障害者でも頑張って生きているんだから
健常者はもっとガンバレという発想でしょ。つまり、障害者は
不幸に違いないという勝手な思いこみの上に成り立っている
発言です。それに、自分の歩みを語るのはイイのですが、
人の歩みを話しのネタにするのはダメです。
あ、そう言えば、ハンセン病の藤井善さんをネタに
しているお偉い方もいらっしゃったな。
アレも、苦手です。
ぐっちんさんの
「やっぱり何かの役に立ち、誰かの役に立つという価値観は、「元気が出る」のでしょう
ね。実際、戦場にたってみたらやっぱり死ぬのはコワイと思うのだろうけど、平時は「男
らしく、勇ましく、お国のため、家族のため死ぬのがカッコいい」と思うのだろうな。」
ホント、世の中がますます世紀末へ近づき、何が真実で
何が虚偽かが分からなくなってきた現代で、自分の
存在意義を見出せないでいる人が多いいんだろうな。
ぐっちんさんのご指摘の通り、都会の中で隣に誰が
住んでいるのかも分からん、そんな孤独の中で生きている
と自分は何のために生きているのか疑問に思う。
その中で、何か新聞で自分が大きく取り上げられることが
生きている証しと勘違いしている人の多いこと、
ウンザリします。というか、悲しくなります。
生きている実感をどこで感じるのか?大変だ。
わかるとは、どういうことかが、
だいたい解ってはきたのですが、
言葉でうまく言い表せないので、もどかしく思っています。
あることと別のこととの対比がうまくいったとき
わかるというと考えています。
わかるは、「分ける」「分別」ということだけではなくて、
「一致」ということが必要と考えています。
なんのことだか、わからないでしょうけど。。。
>生活が荒れて、自分を粗末にしたりするのは、幼児虐待、寝たきり老人に対する虐待、
>障害者に対する虐待より、たちの悪い事だ。愚劣で、卑劣で、鬼畜生のする事だ。
ぐっちん理論からいえば、人は「この役立たず!」とか「このいうこと聞かず!」とか思って
幼児や老人に虐待するのだと思う。で、「役に立つ」とか「ゆうことをきく」ということにこの
虐待する人は人間の存在価値を見出しているのだと思う。
で、この人はこの価値観を自分にも向けるであろうから、自分をも大事に出来てないと思う。
AV女優の桜井風花(ふうか)という娘さんは、親とのソリが悪く希死念慮(つまり自殺願望)
をずっといだいてたといいます。で、AVに出会って、スコーンと抜けてしまって今ではこれが
天職だと思って楽しんでるそうです。
彼女とても可愛いし胸もでかい。この理論も以前に書きましたが、オトコたちの視線はいきおい、彼女を<人格>とはみないで<セックスドール>として向けることでしょう。彼女はそれを
100%受け入れちゃって生きる方が今は楽だ、と判断したのだと思います。これが、彼女流の
解放なのでしょう。
逆にある種のオトコの子たちは、自分にまったく視線が集まらないことにいらだつ。そこに用
意されていたのが、劇場型犯罪ってやつです。つまり、<デカイこと>やればTVをはじめマス
コミでとりあげられいちやく<悪のヒーロー>になれる。。。
もはや「お天道様」だの「ご先祖様」だのは、彼ら彼女らにとっては存在しない。鬱陶しい親
とか教師の目があって、これに反抗してやるのは快感かも知れませんが。。。うちのつれあいも
出たがりでした。TVばっかり出てたな。。。「宗教の時間」とか「ニュースステーション」
とか。。。
で、元カレのつてで某児童文学者にあって自分の半自伝的小説を出版化しようとしてたっけ。
多いですね、ぐっちんのまわりでも作家になりたいという人。でも一発目はいいと思うんです
けど、次からが難しい。。。
アミダさまがみそなわし。。。 とか何とか、彼女の耳にはとても入らないと思った。で、
彼女にはモー娘。とかのオーデションとかを勧めてみたりしたけど、歌も踊りもできないし。。
自分のHP作ってみるのもよかったかも。。。
肝心なことには答えずに
そう言われると予想はしていました。
>負け惜しみ
と言いましたのは、
>揚げ足とり
どころか、軸足もとられて、
相撲で言えば「死に体」で、勝負は付いているということだったんです。
>全体を「ちゃんと」読んでください。
と、説明もしないで、人に「読め」と要求されるほどの方でしたら、
この程度のことを読みとるのは、容易なはずではと思いました。
ですから、
犬の遠吠え
と訂正させていただきます。
ところで、
>「〜主義者」という一方的<断定>をもって批判とするのは
>自由な意見交換を妨げるものでないでしょうか?
この「〜」に入る言葉について、妥当なものとそうでないものがあることを
お認めになるのでしょうか。
いつぞや、我苦生さんが「お話はもうええねん」といっておられた。また教育評論家を批判され
てもいた。そこで、ひとこと。知的なことを考えるのも一種の快楽です。「わかった!そういう
ことだったのか!」というのは、ぐっちんにとっては確かに悦楽であります。学問と言うのも、
芸事のひとつとして、つまり学芸ということばがあるけど、そういうものとしてとらえる。
教学クロスワードパズル。宗乗ジグソーパズルをやる。これは別に人様に迷惑がかかるわけで
も何でもない。らくりんさんもずっと考えてると、「これはここにはまるんだ!なるほど!」と
教行信証を読み解く悦しみを語っておられた。そういうひとりエッチが、同好のなかまと複数
プレイしておる段階では罪はありません。つまり旦那芸の世界。
ところが、学問をやれば<ハク>がついたりするからおかしなことになるのであります。銭の
とれるような面白い法話(知的好奇心をくすぐるというのも芸のうち)がでけへんのやったら、
聴衆のみなさまに折り詰め弁当でも配るぐらいの気持ちでやらんとおかしいんとちゃうかな?
口唇期とか肛門期とか、フロイトの用語にあるけれど、つまり人によって快感センサーが集ま
ってる部位が違うだけ。「アタシ耳たぶの後ろが弱いの。。。」という人あらば「おれ大脳旧皮
質の国家野と資本野がものすごく感じんねん」
その程度に考え取ったらええんとちゃいますやろか。
<負け惜しみ>とは?
いつから私と勝負してたんでしょうか?
私は別に勝ち負けを競った覚えはないですが・・・
うぉ〜〜!知恵の足りない私は今、虐待のまっさい中。クズだ!うぉ〜!うぇ〜!うぅ〜! こんな私といっしょにいる私、面倒みるの大変だ! 今の私にとって、ここは「いつでもどこでもドウボウ会」 らくりんさんを始め、みなさんごめんなさい。あ、また忘れてた。ごめんね、私の命。
なんだか随分ぐっちんが書きすぎて下の方にいっちゃいましたが
>また、学校の部活は、強制された遊びじゃないかなとも思っています。現役ではないので、
>実情は解りませんけど。
正しい国民として育て上げるのに力があったのが、軍隊と学校という制度だと思います。
学校の体育の時間は、何か軍事教練みたいでした。昔の日本人は「なんば歩き」という歩き方を
していたそうですが、今の歩き方は西洋の軍隊式の歩き方を義務教育の体育で習ったからなのだ
そうです。部活も、マッチョで〜〜〜す。
>ステキなものに出逢えば、ひとは何か誰かに向かって表現したくなる。音であろうが、
>絵であろうが、言葉であろうが、踊りであろうが。。。
もちろん真宗では、それは<南無阿弥陀仏>ということばで表現され、伝承されてきた
わけでありまして。。。で、我苦生さんのいわれるようなほれぼれするような「念仏馬鹿」
がいて、それに感染してきた歴史があるのでしょうが。。。
上人と書いても、聖人と書いても同じ意味らしい。大寺に所属せず、もぐりの坊主。
聖(ひじり)とは、火知りに通じるという。このHPには、本願寺=聖=火薬の関係が
出てる。
昔、親鸞も親鸞の弟子たちもお逮夜まいりがなかったころ、いし・かわら・つぶての人たち
のよろず相談引き受け業者として活躍したんだろうな。。。
>社会運動に熱心な方々は、ご門徒さんの「ちまちま」した悩みにあまりお付き合いされない
傾向があるようです。
今のお寺の門徒さんにも言われた。その家、前のお寺の人が本山での活動に忙しく、お参りに来てくれない、来ても忙しいからすぐに帰る。で、あいそうが尽きて、今のお寺に変えたそうだ。でも、今のお寺もな、、、。
今年の反戦法要。戸次住職は遅刻しました。役僧Nさんが最初の挨拶から、進行からをやってました。住職は法事に行ってたそうです。いい話だ。
自殺する人は、勝ち組み、負け組み、どちらの人が多いのだろうか?
最近殺人事件が多い。ちゅうか、多すぎる。わけわからん。しかも、わけわからん事件が。テレビ見てて、「あ、あの事件こうなったん?」とか思ったら、違う事件だったりする。う〜ん、やっぱり暑いのだろうか?
殺人事件を起こす人は、勝ち組み、負け組み、どちらがおおいのだろうか?
非常にナンセンスだが、ふと思う。
自殺というのは、やはり『殺人』ではないだろうか?しかも、一番弱い『自分』を殺す。これって、幼児を殺したりするより卑劣なことなのじゃないだろうか。絶対に抵抗出来ない相手『自分』。自分の命だからと、生命を私物化し、いやになったから『殺す』。嫌いになったから、用が済んだから、『殺す』。負け組みだから、『殺す』。クズだから、『殺す』。
こっれて、かなり卑劣な行為ではないのか?
嫌いな他人、いやなやつ、用済みのやつ、負け組みのやつ、クズのやつ、、、。他人を殺すのは、抵抗されそうだし、幼児でも泣かれたら心が痛むし、、、。で、抵抗出来ない自分を殺す。自分が流している涙の意味に気付かずに。
こんな卑劣なやつを『心が繊細』だとか、言っていい訳がない。
自殺未遂って言うのも、殺人未遂だ。しかも、一番卑劣な。愚劣な。
と、自殺未遂経験者は語るのであった。
生活が荒れて、自分を粗末にしたりするのは、幼児虐待、寝たきり老人に対する虐待、障害者に対する虐待より、たちの悪い事だ。愚劣で、卑劣で、鬼畜生のする事だ。
負け組み、失敗した、クズ、(と思い込んでいても)、自分を粗末にしたり、自殺する事は、一番卑劣な事だ。どうせ殺すなら、自分をそう思い込ませているものを殺すべきだ。一生かかって、仕返しし続けるべきだ。自分をそこまで苦しめるモノを。恨みの分だけ、憎しみが多い程、その仕返しに対して本気になれる。
で、自分を苦しめるモノってなんだっけ?マナちゃんだったけ?忘れた、誰か教えて?
政治家の先生とは違って、大谷派もしくは本願寺派(あと八派のみなさん失礼します!)の
社会運動に熱心な方々は、ご門徒さんの「ちまちま」した悩みにあまりお付き合いされない
傾向があるようです。
<大>問題重視。<社会>問題重視。<政治>問題重視。。。こないだ、師匠のお寺の反戦
法要にいってきたら、友達の役僧さんにこういわれました。「○○町の××のおばあちゃん、
いまだにぐっちんさんのことをおしゃべりされてます」。。。
話を聴いて思い出した。ご門徒さんが、神の幕屋グループというキリスト教会からは異端と
されている団体から冊子をもらってきてはって、そこにイギリスのブラウニングという詩人が
書いた英語の歌詞があったので、これを訳して欲しいと頼まれたことが10年前にあった。英語
なんて読めないけど、どないかこないか訳した思い出があります。うれしいですね、そんなこ
とを覚えてくださってくれて。。。
なんだか、とてもご門徒さんがいとおしい。
ジョンレノンいわく、「昔、宗教のことに熱心だったころ悩みも多かった。。。」
ぐっちんいわく、「昔、政治や地球環境のことに熱心だったころ絶望も深かった。。。」
Genkoさんが、あまりに国家と資本とおっしゃるもんだから、柄にも谷にもなく
「朝までテレビ」や「ニュースステーション」や「サンデーモーニング」などをこのところ
真剣に見てたらだんだん気分が悪くなってきた。
なんとかというおっさんの帝京大学「陳情」事件。陳情またの名を口利き。この場合は裏口
入学だったけど。久米さんの番組ででるわでるわ、まあなんとも自分勝手な政治家へのお願い。
交通違反のもみ消しから、お盆ピーク時の帰省切符の手配とか、何でこんなもん頼むねん!
昔、ぐっちん市営住宅の抽選にはずれ続けたのだけど、あれも政治家の口利きで一発で入居
してるご家庭もあるのだろうな。。。こんなお願いばっかりするから、政治秘書にどうでもい
い仕事が増えるんやんけ!ほんで、政治家が政策立案の仕事がおろそかになるんやんけ!よろ
ず相談業務ばっか。。。でもいてたなー、どっかの住職さんも某部落解放運動団体の人に頼ん
で、交通事故の示談。。。いまや坊さんは警察に顔きかんからね。おっとイエローカード発言
かな。
で、どうでもいいけど「朝なま」に出ておられた日本K党の穀T恵Jさん。不W哲Zさんに
そっくり。思わず、清水ミチ子の顔真似かと思いました。目線を相手に合わせず、伏目がちにし、ワンフレーズしゃべるごとに自分でうなづく。。。同席していた評論家、宮崎哲弥が「K党に
個人はいるはずない」といってたけど、ほんまクローン人間の集まりかいな。。。
正:I can’t stop
スティービーワンダー→竜鉄也ときたので、
レイ・チャールズ
I can’t stop loving you
『愛さずにはいられない』
をもじって、言わずにはいられない
というつもりでしたのに。。。
すべってしまいました。
>私は「だめ連」という対象がその不定性故に「面白い」と言ったことはあっても、支持を表明したことなどはありません。
このへんがよく解らないのですが、本人が違うと言っているのなら、そうなのだろう。
私は、てっきりGenkoさんは『支持』しているものと、思っていたので。しかも、Genkoさんに対するレス(使い方あってる?)じゃなかったので、一言おわびしておこうと、したわけです。だめ連に関しては、Genkoさんに教えていただいた訳ですし、知識としてはあとホームページを見たぐらいですので。
ついでに聞きますが、いまのGenkoさんなら、だめ連と親鸞の思想を照らして、どの辺が違うと思いますか?
「わいとこな、こないだ補助金もうて空中庭園つくってん。見に来るか」。。。
「こ、これ、枯山水やないか。砂漠化にひとやく買ってどうすんねん!」
「だっておれとこ、禅宗だもん!。。。」
日テレ系『西遊記』のテーマソングを担当していたゴダイゴのベーシスト、スティーヴ・
フォックスもゴスペル歌手。小阪忠というフォークシンガーもゴスペル歌手。「異邦人」の
久保田早紀も本名の久保田小百合でクリスチャン。どこにいるのだ仏教歌手。学会歌手なら
いるけれど。。。(♪なんでもないようなこと。思い出だったと思う。。。)
新宿ロフトプラスワンでしたか、トークライブの店。そこで「だめ連」聴いたなあ。。。
おんたま、くんたま。。。卵にいろいろあるけれど。巨人、大鵬、卵焼き。
阪神、柏戸、目玉焼き。
卵の味という例えは、彼らと付き合え!という意味ですか?
>卵の味は、実際に食べてから批評すべきでしょう。
このせりふは、毛沢東「実践論」にあるのと同じです。
誤りであることは言うまでもありません。
少なくとも科学の方法ではないからです。
実際に食べて解れば世話はないし、学問もいりません。
>我苦生さんへ
>だめ連は嫌いです。GENKOさんには悪いが、、、。
なんで私に「悪い」のですか?
確かに私は(坊主バーなどで)「だめ連」について多く語ったことはあります。
しかも、今現在もペペさんやQ極さんたちとつきあいがあります。
しかし私は、彼らを私以上によく知っておりしかも多分に批判的だった町口氏らともつきあいがありました。私は「だめ連」という対象がその不定性故に「面白い」と言ったことはあっても、支持を表明したことなどはありません。
何故なら、あれはどんな<組織>でも、<運動体>でもないからです。
つまり指されている対象の範囲も責任主体も、全く持って不明確なのですから。
これでは支持しようにも、しようがありませんよね。
従って、ペペさん本人でさえも自分たちを「規定」できないので、しいて「だめ連界隈」という自称を使っていますし、「運動体ですらない」という言い方をします。
「界隈」ですから当然、いろんなひとが混在しています。
右翼のひと、アーティスト、演劇人、企業人、もちろん本物のダメ人間等々・・・。
従って、
>やっぱりあれは、なんだかんだいっても隠れサヨクだもん。
というぐっちんさんの「規定性」は、部分的には当てはまっても、おおむね見当はずれと言わざるを得ない。卵の味は、実際に食べてから批評すべきでしょう。
私も彼らの出版物をほとんど読んでいますが、あれはたまたま神永氏やペペ氏らの「見解」であって、実際の「界隈」の人たちの実態とは大きくずれています。
こういうところが実に「面白い」のですが、私も「だめ連界隈」についてはその曖昧性や無責任性の故にやや批判的ではあっても、生き様としてのぺぺさん個人や、詩人としてのQ極氏個人は、私の良き友人たちではあります。
ぐっちんも「だめ連」ダメです。やっぱりあれは、なんだかんだいっても隠れサヨクだもん。ばっちりレッテル張りするけど。ぐっちん古典芸能ファンだもの。あれを支持するくらいなら狂言師・野村萬斎に一票入れる。雅楽師・東儀秀樹のやってることに一票入れる。
数の問題やない!とおしかりを受けそうですが、世知辛い浮世は時間給という数字に
如実に表れるように「勝ち組み」「負け組み」を作り出します。<政治>は数が勝負ですものね。
小林よしのりは本当影響力がありますね〜。文芸評論家加藤典洋がいうように、最初小林はオーソリティに向かって何かヘンという感覚をもって『ゴーマニズム宣言』を書き始めた。その時は支持してた。だけど、最近はこれが答えだということを主張するようにな
った。これには違和を感じざるを得ない、と。ぐっちんも同じ感想です。
でもぐっちんは、我苦生さんが「だめ連」や「河田光夫」を認めない以上に辺見庸みた
いなかんじのおっさんもキモイ。あれじゃあ、ついていけん。ぐっちんは、自分が属する団体、大きくは国家小さくは所属寺院とか家族のあいだで自分の意思が表明でき、それがちょっとでも反映されて「何か自分も変えれる。または何かが変わる」と信じられるとき、人はその場を(自分を)信頼できるのだと思う。
誰がやっても、何をやってもかわらへんわと繰り返し巻き返し体に刻みこまれるとなーんもしたくなくなる。
といえば、冷やし中華またはチューブまたは稲川淳二。金沢の集会が気になったけど
お盆のバイトの面接があったので行けませんでした。。。今年は、もうお盆参りのバイトはやめました。お盆だけは坊さんにもどってたのが、2・3回あったけど。。。ほとほとイヤになった。いくらカネになっても。。。
とはいうものの、おはぎの製造補助なんですが、お布施と比べて時間給にして七倍強ちがう。うわ〜〜シビア!これじゃあ、死生さんのいる東京に遊びにいけないではないか!
ところで大東亜聖戦集会は小林よしのりがきて、800人が集まった。で、若者の姿が目立ったそうな。一方、反対派集会は200人らしい。う〜ん、マジメにやってたんでは
太刀打ちできませんね。(朝日紙より)若い女性はどれだけ来てたのかな?
やっぱり何かの役に立ち、誰かの役に立つという価値観は、「元気が出る」のでしょう
ね。実際、戦場にたってみたらやっぱり死ぬのはコワイと思うのだろうけど、平時は「男
らしく、勇ましく、お国のため、家族のため死ぬのがカッコいい」と思うのだろうな。
HPを見てもらうとわかりますが、努力、勤勉、忍耐、従順、不屈。。。
障害者にも「かかわらず」素晴らしい。実に社会から体制から国家から天皇さまから
おほめにあずかる徳目を身に付けられておりまする。
これは二宮金次郎よろしく「利用」されますね。。。ぐっちんが介護に入ってた障害
者のおにーちゃんは「乙武くんは、ルックスもいいし、頭もいい。だから、本も書けるし
TVにも出れる。ぼくらとは全然ちゃう」
そうです。信仰をもっている障害者といってもレーナ・マリアさんのようにお美しい
か、新垣さんのようにイイ声してるか、星野さんみたいに絵がうまいとかやっぱり何か
「芸」がないとひとは称賛しません。ただぐうたらしてたり、ものぐさだったりする
障害者はアカンわけで。健常者は、「すぐれた障害者」に涙しながら、やっぱり「普通
の障害者」に対してはいちだん低く見てたりなんかする。。。
なぜ性懲りも無く差別発言ばかりするのだろうか。。。フォービギナーシリーズという
本で『部落差別と宗教』というのが涼みに行った図書館でおいてあったのでパラパラと
めくってみた。期待にたがわず、つまらない本だった。宗教のことがほんの少ししか書いてない。それも、ここ3年ほどの本願寺派の坊さんの差別発言だけだった。
スタンダールの小説に『赤と黒』というのがあった。赤は軍服を象徴し、黒は僧衣を
象徴する。つまり、貧乏人の主人公が出世するのに、軍人になろうか坊さんになろうか
と迷っていたことをタイトルにした話。日本における親鸞の時代も、役人になるだけが
出世街道を歩むことじゃなくて、坊さんの世界もまた天台座主のイスを争って熾烈な競
争合戦があったんでしょうね。。。
負け組みは不満をもつけど、勝ち組にも不安はある。いつまでも、あると思うな親と
金じゃなかった、いつまでもあると思うな人気と仕事。あ、これは元あのねのねの原田
伸郎の格言だった。。。とにかく、関白だって座主だって不安だらけだ。いつまで続く
かわからんもの。で、降りれない。既得権益にしがみつくが、追い落としにかかる勢力
にびくつかなきゃなんない。。。
あ、話の本筋からそれて来た。昔つとめてた寺のご院さん、くさってた。男兄弟三人。くじびきで住職を決めた。他の兄弟は、金融とマスコミに就職した。それなりに地位を築
いた。自分も帝大卒なのに。。。ご院さんは別に差別発言されてなかったけど。実にくや
しそうでした。
お勉強のできるお坊さん。みんな、寺の外へ出たいと思っている。自分の力を試したい。あるいは、寺をどうしても逃げたい。でも、引き戻される。いくら教団内で、宗務
総長や教学研究所所長や、大谷大学学長になっても「二流意識」は抜け切れないのでし
ょう。だからずっとコンプレックスを引きずってる。いきおい、差別発言になる。まあ
そんなとこなんでしょう。。。
国民的歌手です。代表作にしてヒット作にしてそれ以外は知らない
『奥飛騨慕情』。盲目の歌手です。とっちゃん坊や風のルックスです。
今からでも遅くない、住基ネットにハッキング!
http://kokuminbango.hantai.jp/
あ、河田光夫は、最近あまり好きじゃありません。なんか、強引に運動親鸞にもって来ている気がする。
今、一番のおすすめは『ハニー』ですよ。『ハニー』。
>『だまされたと思って行ってみろ!』
美味しいと思うから、行くのなら、行っている間は多少カンパします(寮費ぐらい)。まずかったら、謝ります。私には、大変美味しかったけど、まあ、人によりますし。
『こんな生活、もう念仏するしかないやん!』と、らーめん作りながら念仏する『ハニー』。信国淳亡き後、新念仏馬鹿。
『専修念仏の道場』という看板をかかげているわりに、以外に普段念仏する人の少ないあの学院、ならび、この教団の中で、今一番の私のおすすめ。
そういえば、宗先生の本だったかな?その中に、こんな言葉があった。
「安田先生は、生きている念仏者として信国先生に出会われて、非常に喜んでおられた、、、」
確か、こんなん。理屈や、教学が沢山出来るからこそ、迷いも大きい。真剣に求め、悩むから、迷いが大きい。『念仏とはなんぞや?』。そんなもん、念仏してる『念仏馬鹿』にあうしかない。と、思う。
「うら〜!くそ〜! なんまんだぶつ、なんまんだぶつ、、、」
昼飯のラーメンを作ってる時の出来事でした。
で、ハニーの言葉。
「私が念仏申しているのは、『念仏だけは、いつの、どんな時でも申してよい』と、いう親鸞聖人の進めがあるからです。」確か、こんなん。
全然関係ないが、『ガチンコ ラーメン道』で、一人のあんちゃんの発言。
「私はラーメンにコショウはかけませんが、人生はかけます。」う〜ん、深い、、、。
ハニーらーめんは、『コショーをふりかけ、ラー油を垂らし、紅しょうがを添えて、しょう油を加え、酢でもって。。。』しなくても、私には美味しかった。だから、おすすめです。
>強制させられるボランティア(自発)活動
は、
戦時中の勤労奉仕と同じだと思っています。
また、学校の部活は、強制された遊び
じゃないかなとも思っています。
現役ではないので、実情は解りませんけど。
読解の専門家、文学批評家を名乗る私に対して、
>ご指摘の私のカキコ全体を「ちゃんと」読んでください。
と言われては無視できません。
私が「ちゃんと」読んでいないところ、
読み間違っているところを具体的に指摘し、
間違いである理由を説明してください。
>それとも<意図的に>文全体から一部を取り出して
>意味を変更しているのでしょうか?
意味を変更している実例をお示しください。
なお、正しく意味を変更していることもあることを
くれぐれも考慮した上でご指摘ください。
また、私が反批判したところの
>思想の構造、特徴、傾向を「〜主義者」と特定することは、
>必ずしも「自由な意見交換を妨げるもの」とは言えないと思います。
>逆に、思想を特定することを「レッテル貼り」と言いかえて、
>>レッテル貼りは言論の自由を抑圧する
>と主張することのほうが、よほど「言論の自由」を抑圧しかねないと思います。
について、「ちゃんと」読んで、間違っているのなら
「ちゃんと」書いてください。
でないと、
><揚げ足とり>にさえなっていませんよ。
と言われても、負け惜しみにしか聞こえませんよ。
追記:「反スターリン主義者」というレッテルを貼るのはどうでしょうか。
>やっぱぐっちん、クリスチャンに戻ろうかな? >いさぎよく<負け組み>である自分を認める思想はないのだろうか。。。
少し若ぐっちんさん「先生の話、なんか核心のまわりばっかりぐるぐる回って、結局、核心ついてないやん。」
少し若コザブロー先生「ほな、おまえがせい!!」
で、何が言いたいかというと、私は野垂れ死にはしたくないが、掲示板で青空を作りだしてくれた、まこさんの居る、岐阜のうすずみ桜の下でなら、いいかな〜、とも思う。大好きなひとが住んでいる村なので。で、これも価値。
>既成仏教教団の教えで救われている人ってどこにおるんやろな?
これには、もちろん、私達『坊主』のことも含まれている事だと思います。相変わらず、きびしい意見です。
真宗坊主、門徒だから、念仏申しているわけなどない。仕事や、習慣で念仏してても、本当に、『祈り』として念仏しているか?と聞かれると、「たまに、、、」としか言えない。瞬間、そういう感情が出ても、また、すぐに価値がでてくる。「あんな、寺にいてられるか!」とか。
『だから、もう決めるしかないんやって。ごちゃごちゃいうてんと。どっちの世界に生きたいのか、もう決めるしかないねんて。』と、先生の声が聞こえる。
決めたら、カーナビ(まあ、誰かの昔のハンドルネーム!)みたいに、『ピッピ、道が違います。正しい道に戻るか、行き先を変更してください。』となる。それだけでも、今の私には十分だ。
日差しが強く、紫外線でやられたかな?
今日は、とてもいい天気。一面の青空で、日差しがとても強かった。
仕事を終え、西日差し込む家を避け、ネットカフェに来たら、あらまあ、こんな所にまで青空が、せめて来てやがる。
>要するにあなたのいいたいことは「だめ連」の主張だ。
だめ連は嫌いです。GENKOさんには悪いが、、、。
「クズ」だから、何かになって、輝こうとする。もしくは、クズに価値を見出す。同じだ。クズはクズだ。じゃあ、誰がクズと呼んでいるのか?何がクズと呼んでいるのか?そこが大切だと思う。
阿弥陀の論理は「えらばず、きらわず、みすてず」。クズは居ていない。
だけど、阿弥陀の世界に生きたい、そこにしか生きる道がない、と言えるのも、クズしか居てない。それも、本当にどうしようもないクズしか。
ぐっちんさんが、どういうつもりで
>強制させられるボランティア(自発)活動。
の、ニュースを取り上げたのかは知らないが、あのニュース、私も気持ち悪い。で、あると同時に、
>強制させられるボランティア(自発)活動。
を、『強制させられる真宗活動』でもいいのでは?
『坊主』というのは、間違いなく、世間の一つの『価値』であり、『坊主』を『真宗者』、『念仏者』と、置き換えてもいいかもしれない。その価値を高めるのが、人によっては、『声明』であったり、『解放運動』であったり、『教学』であったり、『ビハーラ』であったり。
「おれは、他の坊主どもと違うんや〜!」って、それも価値。あるいは『差別』。
世間では、クズのダメダメやろうだからこそ、何者にも成れない。何者にも成れないから、与えられた『自分』でいるよりほかない。『ありとあらゆる、いのちあるもの達と共に生きたい』と、願うしかない。自分に価値がないから、他者を自分の価値で切れない、裁けない。でも、相変わらず、世間ではクズのまま。価値なく、野垂れ死に。
竜鉄也ってだれですか?歴史上の人物?
どっかの党の名誉議長だかなんだかいう人はその昔、「改造」とかいう雑誌に評論を投稿し、
お留守居役様さんが名前をお出しになった小林秀雄をおさえて見事いっとうに輝いた。
「敗北の文学」。芥川龍之介が<自殺>してしまったのは、エリートゆえのひ弱さだとか
何とかいう論文。自分は、もちろんプロレタリアだから<勝利>するのだ!と。ああ、ずい分
お元気で。プロレタリア文学なんて、いまじゃとっくの昔に<敗北>したんじゃないのか。。
いさぎよく<負け組み>である自分を認める思想はないのだろうか。。。
>世間で価値を無くした、『クズ』あつかいにされる人間にしか発見出来ない世界があると
>信じます。それを説いていくのが、念仏者だと思います
と。要するにあなたのいいたいことは「だめ連」の主張だ。
http://www.ne.jp/asahi/r/s/dameren/
学校行かなくてもええじゃないか。就職しなくてもええじゃないか。結婚しなくてもええじゃ
ないか。だめでええじゃないか。。。
出家すればみんな平等と思ってたら、高学歴エリートが正大師になっていく(女性は麻原ごの
みのオンナ)アングラエリート集団、オウム真理教。こんなのよくあるパターンで、労働者が主
人公(国民といいなおしてますが。。。)といってるどっかの党が、M本もF破もS位も東大出
身のエリート組織だったりなんかする。。。(またルサンチマンだ。。。)
ブリュデューというひとはこういったそうです。「教育年限の延長というものは二流のエリー
トに自分の二流性を納得させるまでにかかる期間である」と。
久しぶり産経新聞を読んでたら、一面に産経抄にこうあった。「中教審の答申が出された。
奉仕活動も単位として認めようではないか。ところが、某TV局では奉仕がボランティアといい
直されていた。奉仕だと強制させられるということだろう。いいじゃないか、最初は強制でも人
に尽くすよろこびはあとからわかる」
ああ、気色悪い。強制させられるボランティア(自発)活動。いうてる本人は、社会の公器た
る新聞で自分勝手ないいたいこといって存分に奉仕活動されてるもんなー。「誰かのために」
「何かのために」という大義名分がないと自分を肯定できない。この自尊感情のなさ。条件つき
でないと自分は愛されない、受け入れられないという思い。
実はこれをぶちこわしたのが、法然、親鸞というひとの仕事だったのではあるまいか。しかし
真宗の説教で中村久子や星野富弘(これはクリスチャンだ!)を取り上げても「だめ連」を
取り上げるひとはいないだろう。。。
お二人は岐阜にいらっしゃる。岐阜といえば、中村久子というひとを思い出します。
あぁむかしは、歎異抄読んで影響される障害者の方もいたんだーという感慨。しかし、なんと
なくこの中村さんの著書『こころの手足』などをすすめるような人は、ぐっちん好かん。
晩年、「天皇陛下に拝謁を賜わ」っておられたような、こういう感じの美談として語られる
その語り口が気色悪い。ほんとうは、どうなんでしょう。新垣勉さんのTVを見ていても、コ
ンサートのお客さんの中でこういうことをいうおじさん(おじいさん)がいました。「まあ、
目が不自由なのにあんなにがんばっておられて、自分なんかとうてい及びもつかないよう。。」
河田光夫はこういわれる。「にもかかわらず」ではなく「であるから」。スティービーワン
ダー(ぐっちん注;アメリカの竜鉄也)は、盲目だったからすばらしいソウルシンガーになった。。。確かに視覚障害者は、聴覚に鋭い感覚をもっていることでしょう。しかし、みんなが
みんな音楽家になるとは限らない。また本人が好きな事やってもみんながみんな<成功>する
とは限らないしなぁ。。。
日テレ「知ってるつもり」のブービー回。おしゃかさまのところで、確か中村さんもちょろ
っと出てたような。。。で、若い頃「だるま娘」として見世物小屋で興行していたのが、講演
会活動に専念するようになった。だが、さらに晩年ひとさまにお話しできるような人間ではな
いといって云々と紹介されてたような。。。ここで「日常」に復帰されたのなら、ぐっちんは
「もの凄い」人だなとも思う。。。
らくりんさんは、ラーメン屋のたとえというのをされる。自分はラーメン好きだ。だから
うまいラーメン屋をみつけたらついついひとに教えたくなる。
「だまされたと思って行ってみろ」
「ラーメンを好きになれ!」と抽象的なこといわれてもどうしようもない。「あそこの店の
とんこつをいっぺん食ってみてから考え直してくれ!」だったらよくわかる。
しかし、「おれそこのラーメン食ったことあんねん。で、まずいから行きたくない」と言って
る人に「いや、コショーをふりかけ、ラー油を垂らし、紅しょうがを添えて、しょう油を加え、
酢でもって。。。」
そんなことするくらいなら、よそのラーメン屋行くわ。。。
主演でむかし、東映映画があったなあ。。。女囚さそり 701号うらみ節。。。
♪花よきれいと おだてられ 咲いて見せれば すぐ散らされる バカなバカなバカな女の
恨み〜 ぶ〜し〜
失われた30年ですか。。。ずいぶんと空白が。。。空白の部分に情報をつめこむんですよ。
前科とか。。。オトコ関係とか。。。
の大きな空白は何か意味ありですか?
お留守居役様の書かれた「社会主義的全体主義」とは日本の実情にて
らして、具体的に何をさしておられのかわかりかねます。旧ソ連、中国
には該当するのかもしれません。
日本共産党の組織原則や政策の元はレーニン主義かもしれませんが、
70年代以降は、マルクスレーニン主義の呼称をなくして、科学的社会
主義の哲学・経済学・政治学を標榜してきました。
>真宗では供養に対して批判的であるところから、ペットの死に関わるのを軽視もしくは
>無視・軽蔑するような風潮があるように思うのですが。。
全くそのとおりですよね。同じ事を考えていました。
葬儀にしても、人の死の場合は遺族の<仏縁>という「能書き」があるのに、
ペットの葬儀は教団の空気としてはどちらかというと否定的です。
しかしながら、残った家族(飼い主)の悲嘆は人の死に匹敵、あるいはそれ以上のことが
多くあります。その苦悩と向き合うことが、<霊信仰><死者供養>につながるという認識で
否定されているとすれば、実は真宗僧侶は人間の葬儀でもそのような認識でかかわっているのでは?などと考えてしまいます。「うしろめたいけど、仕方ないか・・・」みたいな。そのうしろめたさが「それをなにも動物にまでひろげることないよ」という風な考えに結びつくのでしょうか。
>大事なのは残された「人」が問題なのですから、「人の死」と同質の影響があるように
>想っている
というのが本当だと私も思います。
私は精神医学の専門家ではないので、ペットロスの学術的な理解は欠如していると思いますが、今までの関わりから経験的に感じたことを簡単にいいますと、
ペットを亡くされた方に必要なのは、その苦悩を表明する<場>とその時を共有する<人>だと思います。
もちろん、家族など<人の死>の場合でも同様ですが、その場合、折々の死にまつわる宗教的儀礼の場で泣いたり、そこに同席した家族や知人と会話することで、抑圧されていた悲嘆の感情が和らげられたりします。しかしながら、ペットの場合はそのような他者がいる場でその苦悩を表明する機会が極めて少ないので、ますます悲嘆の感情が抑圧されてしまいます。それに、「ペットを亡くしたくらいでいつまでも泣いているのは恥ずかしいことである。笑われる。」と考え、その悲しみを自ら押し殺して、明るくふるまったりします。家族のあいだでもお互いその感情を押し殺したままでいることもあるようです。
まずこの感情の抑圧からの解放の場に共にいることが大切なように思います。
そこで解放の強要でなく、あくまでも<いる>だけ。そういう関わり方を試行錯誤しながら模索しているのが現在の私の状況です。ですので論を展開するほどではないかもしれないですが・・・
追伸 ヤクソウ問題についての三吉さんのご見解について、近日の三吉さんの書き込みを拝見して、私が誤解していた部分があったことが分かりました。多様なアプローチを認めつつ、<サンガの平等原則>をもって私達を批判して下さっていたのですね。誤解していましたので、もしかすると失礼なことも申し上げたかもしれません。随分時間がたってからで恐縮ですが、お詫びいたします。
ご指摘の私のカキコ全体を「ちゃんと」読んでください。
それとも<意図的に>文全体から一部を取り出して意味を変更しているのでしょうか?
<揚げ足とり>にさえなっていませんよ。
私にも番号がつく。どんな番号なんだろ?
横浜か杉並にでも引越ししたい・・・・・
を百万遍称える前にまず映画という手があるけど。。。
仏教者に国家や資本の問題関心を!でしたか。。。仏教者がまず仏教に関心がないんですから
どうしようもない。。。
カトリックの友人からもらったこのひとのテープをたまに聞く。やっぱぐっちん、クリスチャ
ンに戻ろうかな?はっきりいってお経のテープなんか聞くことないし、勤行なんてのもぐっちん
してない。。。
ステキなものに出逢えば、ひとは何か誰かに向かって表現したくなる。音であろうが、絵であ
ろうが、言葉であろうが、踊りであろうが。。。表現するものもないのに無理矢理リクツこねて
もそれは誰にも伝わらない。。。
朝から「こころの時代」を久しぶり見ました。全盲でテノール歌手の新垣勉さんが出てた。
名字からわかるように沖縄出身。メキシコ系米兵と日本人の間に生まれたという。歌が小さい
頃から上手だったけど、まずは牧師の資格を取った。しかし、自分を捨てた父と母のことをどう
しても許せなかったという。それで、本当に自分の好きなことをやるため音大に進んで歌手にな
ったそうです。
長野の佐久市でのコンサートの模様。曲はクラシックもあった。そして、今競作で話題の「さ
とうきび畑」もあった。そして、今生きてるか死んでるかわからない父に歌ってあげたいといっ
て「アメージング・グレイス」を歌われた。
午後からは再放送の分で仏教学者の竹村牧男が出てた。すっごくつまらないから見るのやめた。
ぐっちん、大阪で障害者の外出介助のボランティアをやってたのだけど、お宅にお邪魔すると
ベッドの脇には十字架というパターンを何度か見た。まれに学会さんの仏壇が。。。
既成仏教教団の教えで救われている人ってどこにおるんやろな?
今部屋の窓から外を見ると、県道を下の車が
ビュンビュン走ってます。これは、スキーシーズン
の週末と同じ風景です。スキーシーズンは、関西や
名古屋の方からスキーヤー(今ではボーダーか)が
大挙してやってきます。今までは泊まりで来てたのが
高速が出来たし、週末は午前3時ごろからスキー場が
開いているのでほとんど日帰り。だから、昼過ぎ頃から
高速、国道は渋滞状態。それで、普段地元の人しか
走らない県道みたいな抜け道がこれまた混雑する。
無茶な運転で地元民はウンザリ。
うだるような暑さの中、川や山に涼を求めて
週末はまたまた都会から人民大移動が。そして、
ゴミだけ置いて都会に帰っていく。悲しいな〜
ネコのノミがぐっちんの足に跳んできて夜中にかまれる。かゆい。一晩中眠れない。ネコは毛
足が長いから素手でノミつかまえるの難しいですね。昔、犬のノミはおなかのところを這ってる
やつをつかまえて、プチプチ殺していましたが。。。
あぁ夏。関西じゃあ、クマゼミ。シャンシャンシャンと甲子園大会中鳴いている。子供の頃の
遊びといえば、お寺の境内の木に登ってセミを素手で捕まえることに熱中してました。透きとお
った羽のやつ。関東ではこのクマゼミは珍しいはず。でも最近はいるそうですね。関口宏の番組
でやってた。東京にも40℃を越す夏が十年後には来るでしょうね。。。
コンクリートとアスファルトの都会。屋上や壁面を緑化すれば、少しはマシになるそうで、民
家でも自治体によってはエコリフォームに補助金が出るとか。ツタのからまる、お寺もいいんじ
ゃない?本堂の屋根には太陽発電パネル。庫裏(くり)の屋上は空中和式庭園なんておもろいなー。あと、日差しを避けるのに日本の夏の知恵は、すだれと葭(よしづ)でした。
朝、起きて、誰に会えるのだろうか?明日。楽しみ。
なんか、もういや。熱い。♪生まれて来た時、泣きました。死んで行く時、泣きました。誰を、誰を、誰を、誰を、誰を、誰を、うらめば良いのでございましょうか、、、?♪
三吉さんの口調が、今回はやけにおだやかなのに驚いています。
飛躍論理は小林秀雄の模倣とご理解ください。
ですが、一つだけ間違いを指摘させていただきます。
><合理的な解は次のようにしか考えられません。>
>という立場もまた、<正解は一つという立場>ですね。
「この場合は、正解は一つ」と申したのであって、
条件によって真理は変わると主張している私は、
<あらゆる場合に正解は一つ>という立場で「ない」ことは明白なのに、
故意に正解は一つという立場に限定されるのは、
<飛躍>かと思われますので、抗議します。
言うまでもないことですが、たとえば、
二次方程式の合理的な解は、
一つまたは二つあることを存じております。
長引く不況で、近所の商店街もつぶれている店舗が多いです。そんな中おなじ商店街で三店舗
めの100円ショップがオープンするようです。さて、この100円ショップ。注意が必要です。
安いと油断して、ついつい客が買い過ぎるのをあて込んでいるのはすぐわかります。しかし、
もう一点注意して見てみましょう。となりの普通の薬局屋さんでは88円で売ってるデンタ○ラ
イオンが(しかも同じグラムのやつ)並べられてるではないか?100円以下でよそで売ってる
ものが棚に混じっているわけです。大阪のおばちゃん、これを見逃すはずがありません。
「にいちゃん、これさっき買うたんやけどとなりで安ゥ売ってたから返品するわ」
こんな、超ドあつかましいおばちゃんばかりだと、この店もつぶれかねません。。。
あいかわらず、うちのオスネコ(名前募集中。毛の色はシロとクロ。ウシというかゲートウェ
イみたいなかんじ。。。)ぐっちんの乳をまさぐっています。ミルクをやったあとでもしゃぶり
つきます。はっきりいって痛い。けど、おもろいから吸わせてます。
あたりまえながら、何も出てこないと思うのですが、自分の唾液を飲んでるみたい。前足を互
い違いにして乳房を押します。手前にぐいっと引き、向こうに押し出すようにしてしぼってます。幸せそう。お母さんのおっぱい吸うのは、脳にドーパミンがどっぱーと放出するようにプログラ
ムされているのかな?
あと、痛くなったときは首筋にある水イボを吸わせてます。フェイクちくびと呼んでます。
書いてないこと・主張してないことを、危惧し「こう言い出しかなねい」と
され、持論を展開される姿勢には「飛躍」があります。
その飛躍は「中傷」にしかなっていないのですが、飛躍論理が貴兄のキャラ
ですので、まあその危惧にあえておつきあいしますれば、気分はわかります。
(<みんな>から、<人でない>を感得されて断言されるのも、<正義を振
りかざしている><どんな問題にも。。気が済まない>つーのも飛躍論理)
貴兄は過去流通した「スターリニズム」とか「全体主義」という語を、その
本来の意味ではなく、安易に貴兄流に解釈され(つまり私の使う意味ではな
い特殊な意味)、使用されていますが、まずそこで「何いっているのだろう」
と靄がかかりわかりにくいのですが。。つまり「押し付けの論理」に貴兄は
敏感なのですね。
まあその危惧は、ある程度はあたっているのではないかと思います。
らくりんさんと私の差は、ある意味では「徹底した個人主義」と「全体主義」
かもしれませんですね。(過去ログ華厳談義参照)
歎異抄第二章の論理「親鸞におきては。。。」「面々の御はからいなり」の論理は
徹底した個人主義だと私は感じますが、私があの状況で親鸞の立場ならば、
ああいう言い方はできない。
経文・論書を背景に、「なぜ念仏のみなのか」を論理的に展開・証明して、
こう解釈するのが正しいとしたかもしれない。
で、そういう方向性は「論理構造」を注視し、「論理の合理的な展開」に拘る
あまり<論理の飛躍>という穽にはまってしまう貴兄も同構造かもしれんですよ。
貴兄の<合理的な解は次のようにしか考えられません。>という立場もまた、
<正解は一つという立場>ですね。
<読み解く>でらくりんさんは、<正解は一つ>という立場から脱皮したといわれ
ましたように思います(趣意)が、いわば、相対主義VS絶対主義かもしれんですね
「みんな死ぬ」<事実>から「死の問題は第一級問題」であり、考えないといけない
という場合、
「考えないといけない」には、<押し付け>があります。
「みんな死ぬ」は単なる事実です。
一級問題は<事実>を<押し付け>に繋ぐための<仕掛け>かもしれないですね。
Genkoさんの<仕掛け>としては、一級問題に「ちょっとぐらいそうした問題
に目を向けろよ」という意図を込められたわけです。
「考えないといけない」や貴兄の感得「人ではない」と「ちょっとぐらい目を向けろよ」
には、かなりの温度差があるので話しは交錯していますが、<押し付け>というのは
共通項かもしんないですね。
ただ温度差を無視して共通項だけを問題視されての展開は強引すぎるかかもしんないですね
誤解をまねき、あらぬ方向へ脱線する。
「さん」がぬけました>CHINCHINさん