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「共命鳥」3〜4号(1987年9〜10月)掲載

未校正WEB版
クリスマスツリーがやってきた
      続編「美穂との対話」へ飛ぶ
 ―靖国神社公式参拝違憲訴訟に対する真宗門徒からの一視点―
                                             藤場 常照

  私は三二歳、真宗大谷派の僧侶である。父は金沢近郊の小さな寺の住職をやって
いる。 現在、京都の大谷大学の大学院博士課程で勉強している。妻も同じ大学の修
士課程に在学している。二人の専攻は、共に「真宗学」といわれる、一般にはなじみの
薄い分野であるが、親鸞の教えに学ぶ学問である。私は真宗の教えに触れ、自覚的に
真宗門徒を名告っているつもりである。妻もその点においては同じである、と私は思っ
ている。私たちは二人の女の子に恵まれている。一人は四歳六ヶ月で、もう一人は三
歳になったばかりである。二人とも家の近くの保育園に通っている。

  十一月のある日、妻がクリスマスツリーを買ってきた。そのことは一年前から、子供
たちに約束していたことであるが、それがついに我家にやってきたのだ。それを見る気
持ちは複雑であった、が何も言えなかった。しかし違和感は抜き難かった。それは自分
が自覚的に浄土真宗の教えを自分の生活の指針あるいは根拠として選びとったという
自負心、と同時に僧侶としての世間体が悪いということに起因するこだわりであろう。に
もかかわらず、その違和感を口にできず、拒否できなかったのは、第一に私自身にクリ
スマスツリーそのものに対してはあまり否定的なイメージがなかったということがある。
そして京都に住んでいて、あまり周囲の目を気にする必要がないこと、さらに子供がそ
れを非常に喜ぶことは充分予想できたし、保育園で他の子供たちがそれを楽しんでい
るのに、自分の子供だけにそれをだめだというのはしのびなかった。 そしてこれが最
大の理由であろうが、私には、楽しみにしている子供たちと、どういうつもりかはわから
ないが準備を進めている妻に対して、それを拒否することを納得できるように説明する
だけの理由と自信がまったくなかったのである。

  そのことを自分に納得させるために私が用意した言い訳は、子供のことだしクリス
マスツリーの意味をわかって喜んでいるのではない(目的において、自覚的には宗教
的行為ではない)、世間で皆がやっていることだし、子供のためにそれをしてやっても私
自信の宗教的信念に何ら影響を与えるものではない(効果において宗教的意味はほと
んどない)。あとから思えば何のことはない、これは津地鎮祭最高裁判決の目的効果
論を無意識のうちに適用していたのである。

  一応その時はそれで自分を納得させたが、子供の目に触れないようにしまっておい
たクリスマスツリーを見ながら、毎日の生活でこだわりは消えたわけではなかった。ひと
つの大きな要素は、これは寺を離れて京都に住んでいるから気楽にかまえていられる
が、数年後に寺に帰ってからも、同行衆や寺を訪れてくる人、そして近所の人たちの視
線の中でもそのように平然としていられるかということがあった。また、もしその視線を
配慮して寺に帰ってからはクリスマスツリーを飾らせないとしたら、その時は子供にどの
ように説明できるのかということも私を悩ませた。

  下の子の三歳の誕生日の前日、クリスマスまでにはまだ幾日か残していたが、子供
たちの友だちを招待してささやかな誕生会を予定していたので、その舞台装置のひとつ
として、少し早いけれど、ツリーを出そうということになった。それまで、飾り付けられた
クリスマスツリーを見ないでいることで、すこしは気が楽な部分もあったが、いよいよそ
の時がやってきた。「もうだすの?」「うん、あしたお誕生日で、お友だちも誘っているし、
少しでもにぎやかなほうがいいでしょ」「少し早いけど、まあいいか」。不本意ながらも、
承認せざるを得ない。我家にクリスマスツリーが飾られることになった。

  クリスマスツリーの飾り付けが進み、子供たちが無邪気にはしゃいでいるのを、複
雑な心境で見ているうちに、あることがひらめいた。私のこだわりは、いっぺんに解消
した。この子供たちの喜びは、子供たち自身の信教の自由として完全に保障されなく
てはならないのだと確信したのである。信教の自由が絶対的権利として保障されなけ
ればならないのならば、それは子供であるという理由で、たとえ親からであっても侵害さ
れてはならないのだ。「家の宗教から個の自覚の宗教へ」ということであるならば、私自
身の宗教的信念によって拘束されるのは、いかなる意味においても私ひとりであって、
たとえ妻や子供であっても、私の宗教的信念によって拘束を受けてはならないのだ。信
教の自由が「信じる自由」を保障すると同時に「信じない自由」をも保障するものである
限り、子供であっても、欲求や喜びが親の信仰によって奪われたり、親の信仰が強要さ
れることがあってはならない、いや、まだ自分の権利侵害を告発することができない子
供であるからこそ、親は子供の信教の自由が、「信じる自由」「信じない自由」として共
に完全に保障されるために充分な配慮をしなければならないのだ。だからクリスマスツ
リーを喜ぶ子供の自由は一方的に侵害されてはならない。これこそが、まがりなりにも
靖国神社公式参拝違憲訴訟にいささかかかわり、そこから学んだことに他ならない。

  (筆者注:真宗大谷派では十数年まえから「同朋会運動」と証する信仰運動が展開
  されているが、そのスローガンのひとつに「家の宗教から個の自覚の宗教へ」という
  のがある。これは封建的寺檀制度の下に支配の貫徹のためにとられた宗教政策の
  影響を断って、一人一人の自覚的選びに立った念仏者をうみだそう、という理念に
  基づいた画期的な運動として、結果はともかくとして、その願いは一応評価できるも
  のである)

  このことに気付いたことにより、およそ一ヶ月にわたって私の心の中にあったわだ
かまりは吹きとんだ。そして、最初は、自分のこだわりを納得させるために、まさに津
地鎮祭最高裁判決の目的効果論院外の何ものでもない言い訳を無意識に使ってし
まっていた自分の浅慮を恥じた。目的効果論とはこのように、抵抗しがたい形で深く
深く浸透しているものであり、津地鎮祭最高裁判決は、それを法廷という場で利用し、
信教の自由の侵害を正当化してしまったのである。

  私が津地鎮祭最高裁判決まがいの言い訳で、自分をごまかしていながらも、私の
中からわだかまりが消えなかったのは、クリスマスツリーが日本において、通俗的か
つ後半に受入れられていたとしても、それがあるということ自体が、それにかかわる
者(今の場合は五歳に満たない子供)の意識とは無関係に、その行為の受け手であ
る私にとって、すでに充分宗教的行為として象徴的な意味を与えていたのである。し
かもそれは私一人に象徴的意味として受けとられていたのではなく、その行為として
の象徴的宗教性は、一般的通念として社会に広範に受入れられ共有されているもの
として(少なくとも私には)とらえられていたのである。もしそうでなく、「自分だけが例外
的にクリスマスツリーは象徴的に宗教行為であると受止めている」とその時私に意識
されていたならば、周囲の目を気にするというようなことはありえなかったはずである。
行為の宗教性とは、行為者自身の意識とは無関係に、どこまでも受け手によっての
み決定されるのである。つまり、子供たちにはクリスマスツリーを飾ることに宗教的意
味があることはまったく意識されていないにもかかわらず、側で見ている私にとってそ
れは十分に宗教的意味を持っているのである。

  中曽根首相の公式参拝は「あらかじめ、戦没者の追悼という非宗教的目的で行なう
ものであることを公にした上で、実施されたものである」から、憲法の「政教分離」原則
に違反しないという主張が法廷でなされているが、非宗教的目的であることを宣言した
からといって、参拝行為が宗教的でなくなることはない。象徴的意味としての宗教的行
為による、権利の侵害、今の場合「信じる自由」と「信じない自由」の侵害も、受け手の
信念(宗教者あるいは無宗教者)によってのみ決定され得る。それはあくまでも個人の
主観の領域であって、一人の人間に侵害された「信念」がその人に有るか無いかは、
客観的に証明することは不可能であり、そのことを議論することは本来意味をなさない。
したがって、判断は、そのような「信念」が人間に成立するか否か、あるいは「そのよう
な『信念』が人間に成立する」ことを、法律的に認め保障するか否かという点において
下される以外にない。

  以上のように思い至ったときに、私は初めて、私の一ヶ月来のわだかまりを妻に
告げることができた。それは我家にクリスマスツリーが出現した翌日の朝食のテーブ
ルで熱っぽく語られた。その時クリスマスツリーは我家に存在の権利を、家族全員に
承認されたのである。

  話はここまででハッピーエンドになるはずだった。しかし、そうは問屋が卸さなかっ
た。

  私はこのすばらしい顛末を誰かに聞いてもらいたくてたまらなかった。その朝職場
に着くとすぐ隣の席にいていつも私を親切に批判してくれる有難いパートナーの、『兵
戈無用』編集帳の山内さんに、誇らしげに説明した。(注:非常勤で真宗大谷派教学
研究所に在籍していた) 話し終わると開口一番「何かうまく言えないけど、その話お
かしいと思うわ」「どうして、裁判でやったら、こうなるはずやろ」「そりゃ法廷でやったら
そうかもしれんけど、真宗門徒としてそれでいいのかなあ」。この言葉に不安がよぎっ
た。しかし、一ヶ月来のわだかまりが消えた私としては、そう簡単に譲れない。

  しばらくやりとりが続いた。私は興奮していた。そこへ山内さんは「もし、そのクリスマ
スツリーが神棚やったらどうする。子供が保育園で神棚流行っているからお父さん神棚
買うてって言うたらどうする」。この質問に一瞬言葉を失った。神棚が家の中に入ってく
ることは嫌だ、しかしさっきの論理では、私は喜々として子供に神棚を買ってやらなけ
ればならないのだ。「子供のプライベートな部分に限って買ってやる」と答えてしまった。
失言である。この時点で私の確信は大きく揺らいでいた。 それ以後の私の発言は、積
極的主張から、抵抗と防御になっていった、しかもそれは虚勢に満ちたものであった。
「クリスマスツリーなんてキリスト教でもなんでもないんちゃう、あんなん靖国と同じやな
いの」。もう抵抗の力を失った。「そう言うてしまっていいのかなあ、あの論理は裁判で
は絶対必要だと思うんだけどなあ。もう一回ゆっくり考えてみるわ」。二時間にわたる議
論は終わった。朝の勢いは、少なくともこの問題に関しては消え失せていた。

  その日の夜は、真宗大谷派反靖国全国連絡会の用で金沢に行くことになっていた。
午後には、事務局長の菱木さんと山内さん、それに菱木さんの息子のN君も同行し、四
人が車で金沢に向った。

  車中、二三日まえからいろいろと思い浮かんでいたいくつかの考えを話して二人の
意見を請うた。それらについては、また別の機会に何かの形で書きたいと思うのでここ
では触れないが、私はそれらの着想に、その二三日ずっと興奮状態が続いていた。だ
れか、それを理解してくれそうな人に聞いてもらいたくてたまらなかったので、勢いこん
で話し続けた。N君は、そうした大人たちの大声の会話に、眠ることもできず、時々抗
議の声をあげた。大人三人は、彼の迷惑を考えて黙ることにした。そこへ、彼は「お父
さんおなかすいた、このお餅食べてもいい?」と言った。その餅は、その日彼が保育園
で自分でまるめて作ったもので、彼が金沢の従兄たちへの手土産に持って来たもので
ある。それに対して菱木さんは「ダメ」と言った。そうしたやりとりは、我家でも親子の間
でしょっちゅう交わされている。

   その時、またまたひらめいたのである。「そうだ、子供の欲求は親の価値判断によ
って制限され得るのだ。食べ物のような、人間の基本的絶対の要求であっても、子供
は親によって制限あるいは、選択肢の変更をさせられる場合があるのだ」。その親の
価値判断の基準の中には、当然親の宗教的信念も含まれるはずである因みに我々の
小さな同行者はその後すぐに、ハンバーガーとフライドポテトとジュースを獲得した。そ
れでもなお、餅の試食をあきらめきれずに何度か、父にそのことを訴えたが、ついに許
可されなかった。

  車の中は、沈黙が続いたので、私は昨日からの出来事を思い出し整理した。およそ
次のような点にまとまった。

 @我家にはクリスマスツリーは必要ない。また私にとってはないほうが好ましい。

 Aであるならば、真宗門徒を名告る妻や私は、子供がクリスマスツリーを要求しても
  それに応じる必要はない。少なくとも積極的に協力する(要求がないのに買い与え
  る等の)必要はない。

 Bもし子供が、自分の小遣いで買うとか、自分でクリスマスツリーの絵を描くとか等の
  ように、子供にとっては能動的であって、私にとっては受動的に受入れなければなら
  ないような場合、私としては最低限のこととして、不快に感ずることを表明しなけれ
  ばならない。可能ならば話合うことによって、私の意見を納得してもらうことが好まし
  い。

 C子供たちが納得しなくても、強権的に取上げることは好ましくない。その場合でも、
  私がそのことにこだわっていることは伝えて、子供たちにもなんらかのこだわりをも
  ってほしい。

  これだけの確認によって、一応の方針は決まった。しかしこの方針を実行するには
さらにいくつかの困難と問題がある。まず第一は妻に対して、一日にして豹変してしまっ
たことを、説明し、納得してもらって協力してもらわなければならない。そしてその場合、
妻がすでにある程度協力してしまっていることを批判しなければならない。 むろん事が
起こった時、即座に指摘できなかった私の責任は重大である。その責任が重大である
からこそ、そのままほっておくことはできない。

  次に子供たちとの関係では、そのクリスマスツリーは、彼女たちが能動的に手に入
れたものではないが、すでにしてそれは両親の手を離れ、彼女たちの共同所有物にな
っており、その所有権はできるだけ尊重されなければならない。彼女たちは四歳六ヶ月
と三歳になったばかりで、私の考えを納得してもらうには、非常な困難が伴う。むろん彼
女たちの理解と納得なしにむりやり取上げても、この問題は解決したことにはならない。
彼女たちが理解納得できるまで、親子でこだわりつづけなければならない問題である。

  その夜金沢では、六時から講演会に出席し、その後翌朝五時まで、金沢と片山津
の二ヶ所で話し合いに参加した。

  八時起床、京都への帰途につく、さすがに車中話声は少ない。疲れ果てて家にたど
り着いたのは正午を少しまわった頃であった。

  昼食のテーブルで、昨日の朝からの行動を簡単に話した。いよいよクリスマスツリー
問題である。すべては妻の納得と協力がなければ始らない。自分では問題の整理はつ
いていたものの、どう説明したら納得してもらえるか、まったく見当もつかなかったし、自
信もなかった。意を決して切りだした。疲労と問題の難しさが声を重くした。 案の定、彼
女は初めから激しく反発した。ますます気分が落込み、元気がでない。もっと機会を慎
重に選ぶべきだったかと後悔した。しかし事は始まっている。考えていたことをまとまら
ないままに、話し続けた。

  (子供たちが欲しいという前に)彼女がすでにクリスマスツリーを買ってしまっている
ことは問題があったのではないかという点に話が及んだ時、会話は中断した。彼女が
食事の途中に席を立ったのである。ただ単に子供たちが喜ぶ顔を見たいと思って買っ
てきただけのことであり、しかも一年前から予定されていたことであるにもかかわらず、
その時まで誰にも文句をいわれていないのだから、当然といえば当然の結果だ。隣の
部屋で泣いているようだ。下の子が心配して彼女の傍らに行って、食堂に連れもどそう
とする。上の子は私に「お母さんどうしたの」と尋ねる。私は、その子に納得してもらえる
ような説明はできないことを知りながらも、なんとか簡単に状況の説明を試みた。重苦
しい雰囲気の中で、下の子だけが母親に「ごはん食べようよ」と説得を続けていた。や
がて妻は、子供に心配をかけまいとしてか、思いなおしてテーブルにもどった。

  沈黙のまま食事は終わった。後片付けをしている妻に、私は再び話かけ始めた。
「あれが神棚だったらどうする?」「神棚だったら私は絶対に反対するわ。子供がなんと
言っても絶対反対するわ。でも神棚とクリスマスツリーは意味がぜんぜんちがうから同
じには扱えないわ」。明快な口調だった。私は「象徴的には明らかに宗教的意味をもつ
行為が、それと意識されずに、通俗的行為として社会全般にわたって受入れられてい
ることが、靖国体質といわれるものなんだ。神棚もクリスマスツリーも、日本人のほとん
どが自覚的な宗教意識をもたないまま、受入れているんだから本質的にはまったく同じ
と言えるのじゃないかな」と山内さんの受け売りをした。「私はそうは考えない。神道なん
て、真宗の立場から言ったらあんなの宗教じゃないけど、キリスト教は、りっぱな普遍宗
教で、私たちとどこかで共通認識がもてると思う。だから、神棚とクリスマスツリーが、日
本人にとって、行為者の意識に無関係に象徴的宗教性をもつといっても、同じに考えた
らおかしいんじゃない。それらによって、象徴されているものの内容が根本的に異質な
んだもの」。

  正論である。神棚は、明治以後、国家神道の成立により日本全域に浸透したが、真
宗の信仰とは根本的に合い入れないものである。そのことは主題ではないので、今は
展開しないが、妻がそのことを自信に満ちた口調で語ったことに人生のパートナーとし
ての頼もしさを感じた。しかし、議論の流れの中では、私はちょっと苦しくなった、あまり
予期していなかった反論だからである。しかし負けてはいられない「それは象徴されて
いるものの内容として考えるべきではないんじゃないかな。つまり本人の自覚的選択に
基づかないで、象徴的に意味をもった宗教的役割を担わされていることが今の場合問
題なんじゃないかな。それにいくらキリスト教といっても現在の日本の一般的状況では、
とてもあれ(クリスマスの大騒ぎ)をまとなキリスト教の儀式だとは言えないと思う」。

  議論は膠着状態に陥るかと思った。その時彼女が「クリスマスといったらキリストの
誕生を祝う、キリスト教では最も大事な儀式のひとつでしょう、いってみたら、私たちの
報恩講に匹敵する儀式でしょう」。「ちがうちがうそうじゃない」。やっと何が問題なのか
わかった。「いくら大事な儀式堕って、その儀式がキリスト教徒にとって大事なことと、そ
れをクリスチャンでない日本人の僕たちがどのような形でやるかということは別の問題
だ。だって僕らがいくら報恩講が大事だからといって、そのことは報恩講で登高座をす
るとか、衣の色が違うということを問題にしないことの理由にはならない。むしろ僕らが
真宗の教えやその教団のことを真面目に考えようとしているからこそ、そういう形で報
恩講という儀式をやるかを、本当に真剣に考えなきゃならないんだろう。 キリスト教徒
の中にも、まじめに儀式のことを考えている人たちが当然いるはずで、そしたら、その
人たちにとって、今の日本で一般的に行なわれているような具利住ますの行事の形は
許しがたいものに見えるんじゃないかなあ。だから僕たちはどういう形ででも、今の日本
の一般状況としてのクリスマスのありかたを是認することは慎むべきなんだよ。だって、
僕たちはキリスト教徒の人たちとは課題を共有できることを知っているんだから、無意
識の行為であるからといって、そのもっとも良心的な部分のキリスト者たちの努力の方
向に逆行するような行為は許されないよ。それは僕たち自身が儀式の問題に取り組も
うとすることをも否定することになる。さっき芳子は、神道、特に靖国はその存在自体を
認めなから神棚はいやだけど、キリスト教のクリスマスはちがうと言ったけど、それは間
違っていないと思う、だけど、だからといって今の日本でのクリスマスの在り方を肯定す
る理由にはならない。やっぱり象徴的には宗教的意味をもつ儀式を無自覚的に受容し
てしまうような体質が問題なんだよ。

  だからその意味では神棚もクリスマスツリーも同じといわなきゃならない。そこに混
乱が起こったのは、神棚の場合、神道を積極的に推進しようとしている人たちにとって
は、神棚が増えることは好ましいことで、無自覚的にそれを受入れることは、嫌いな神
道のお先棒を担いでしまっていることになり、クリスマスツリーの場合、それが広まるこ
とを無自覚的に受容すれば、僕たちが連帯できる良心的なキリスト者を裏切ってしまう
ことに気がつかなかったからだよ。

  神棚もクリスマスツリーも、通俗化されて広範に受容されている宗教的行為であると
いう点では同じであっても、それを僕らが無自覚に受入れてしまうことは、神棚の場合
は神道を肯定・助長する効果をもち、クリスマスツリーの場合には、キリスト教の儀式を
阻害してしまう効果をもつんだよ。もし報恩講が、クリスマスのお祭さわぎみたいにされ
てしまったら、やっぱいやな感じがするんじゃないかなあ。僕らが混乱してしまったのは、
(真宗では)こうした問題を見抜くようなきちんとした儀式論が確立していなかったから
なんだ。これはきっと僕らだけの問題じゃなく、大谷派全体の問題だと思う」。ここまで
一気に言った時、それまでかたかった彼女の表情が柔らかくなった。わかってもらえた
みたいだ。第一段階は突破できた。話を切り出してから二時間ぐらい経っていただろう
か、もうくたくたである。眠いけれど、神経が高ぶっていてとても眠れそうもない。金沢行
きの前日まで研修の仕事で五日間家をあけていたので、一週間分ぐらい読んでいない
新聞がたまっていたが、それを手にする気にもなれない。

  しばらく子供たちと遊ぶが、この時はさすがにこの問題を彼女たちと話し始める気
力は残っていない。一時間ほど遊んでから、金沢行きで一日遅れになっていた、したの
この誕生祝いを買いに家族全員で出掛けた。我家にクリスマスツリーが出現してから
二日と数時間経過したが、小さいクリスマスツリーは、私にとって、二日前とはまったく
違う大きな存在感をもって、いまだに狭い我家の片隅の空間を占領している。

   クリスマスまでにはあと十日ある。
                         (1996年12月15日 午前2時45分脱稿)



未校正WEB版美穂との対話
  ―「クリスマスツリーがやってきた」その後―               藤場 常照

  「クリスマスツリーがやってきた」を書きあげて、寝室に入った。三人が枕を並べて眠
っている。妻は私の気配に目を覚まして、「今何時?」と尋ねた。「三時十五分。 読んで
もらいたいものがあるんだけど、やっぱ無理やね」。「うん、今頭がはたらかない」。私は
かなり神経が高ぶっているのですぐには眠れそうもない、しかたがないので、寝酒を飲
んで床についた。すぐにアルコールがまわって、いつの間にか眠ってしまった。

  翌朝、子供たちの声で目が覚めたが、とても起き上がる気にはなれない。妻が「教
も美穂休ませようと思うんだけど、どうしよう」。美穂は、二・三日前から風邪をひき、熱
があったので、保育園を休ませようというのだ。その日は月曜日で、二人とも大学で同
じ講義があり、どちらかが休まなければならない。私は、まだしばらく寝ていたかったの
で、「僕休むよ、講義テープとっといて」といって、そのまま、また眠ってしまった。

  どのぐらい眠ったであろうか、目を開けると、美穂は布団のそばで一人で遊んでい
る。それをみるともなく、あることを考えていた。金沢行きの前日までの五日間、教学研
究所主催の研修にスタッフとして参加したが、それは「同和」問題を課題としたものだっ
た。その研修で見た『人間の街』という映画のワンシーンが妙にずっと頭から離れなか
った。金沢へ向う車の中で話題にしたのも、その映画を見て思いついたことだった。そ
の話し合いの中で、問題の整理はおよそできていたのだが、かえってそのことは私の
心の中に大きな位置を占めていた。

  『人間の街』は、「部落」差別の実態や、解放運動の現状、成果をドキュメンタリーに
描いたものだが、その中で、屠畜場のある技術員へのインタビューがあった。彼は、ま
だ小学生である自分の娘が、結婚を考える時期のくることを思いやって、Yはがて彼女
がつき合うであろう男性に、「私は『部落』の出身ですが、それでも私とつきあってくれま
すか」と言わなければならなくなるだろう、その時までに、自分は娘にそのことをしっかり
教えようと思っている。解放運動によってそれが正々堂々とできるようにならなければ
ならないことを教えられた、と語った。そして次に「そやけどな、これから言うことは、微
妙なことで、わし、うまくYほう言わんけど」と前置きして、「自分の娘に、なんでそんなこ
と言わせんならんかと思うと、かわいそうでしかたがない。なんでわしらだけ、こんなこと
で苦しまなあかんのやろうと思うわ。 な、わかるやるやろこの気持ち」と、娘に「部落」出
身であることを名告らせなければならないことの不条理さに対する苦衷を述べた。その
時も、彼は、名告らずに隠したまま交際し、結婚して子供ができてからそのことがわか
った場合、現状においては、より深刻な結果をもたらすことを指摘するのを忘れていな
い。自分の出自を明らかにすることに苦しむということは、差別されたことのない者には
決して考えられないことであり、それは差別される者にだけ、強要される苦しみなのだ。

  『水平社宣言』に、
  「吾々がエタである事を誇り得る時が来たのだ」

と、高らかに宣言されたことは、その宣言自身が必要でなくなる時を願うものである。つ
まり、解放運動は、運動の中から多くの人が目覚めてきた輝かしい歴史をもつが、運
動の本質が、その歴史の幕を閉じる方向を指向する自己否定の運動であることを意味
する。その映画によって、「名告り」の問題が、解放運動の根幹に関わる問題であるこ
とを改めて考えさせられた。そしてそのことが、真宗の「名号」、すなわち「阿弥陀仏」の
名告りにも深く関わっているように思えてならなかったのだ。

  一人で遊んでいる美穂を見ながら、そんなことを考えているとき、書きとめておきた
い言葉がいくつか浮かんだ。布団からはいだし、紙に書き始めた。美穂はやっと遊び相
手が起きてきたとばかり、盛んに話かけてくるが、耳に入らない。いったん書き始めると、
次から次へと言葉が浮かび、一気に書き上げた。

  その紙を壁に貼って、それまでの穴埋めとばかりに、美穂と遊ぶことにした。美穂は、
小さな人形を十五ばかり箱のまわりにならべてままごと遊びをしていた。
  「なにしてるの?」
  「ごはんつくってるの。」
  「そう、お人形さんたち、ごはんできるの待ってるの?」
  「うん。」
  「その間お人形さんたち何してるの?」
そこで美穂はしばらく考えて、
  「夢のお話。」
  「どんな夢?」
  「うーんとね、いろんな夢。」
  「じゃあ、この子の夢はどんな夢?」
  「うんーとね、お菓子食べてる夢。」
  「それじゃ、この子は?」
  「あのね、遊園地行った夢。」
 私は順番に、ひとりずつの人形を指差し、彼女たちの夢を尋ねていった。プールに行
った夢、ケーキを食べてる夢、動物園に行った夢、音楽を聞いてダンスをしてる夢、美
穂は自分が楽しかった思い出を人形の夢に託して次々と話してくれた。そして、最後は、
私の頭を指差して、
  「それじゃあ、この子の夢は?」
と尋ねた。彼女はまたしばらく考えた。
  「うーんとね、うーんとね、勉強してる夢。」
  「そう、この子は勉強が好きなのか。」
  「うん。」
  「なんのお勉強してるの?」
  「あのね、本読んだり、何か書いたり。」
  「その本どんなことが書いてあるの?」
  「わかんない。」
  「教えてあげようか。」
  「うん。」
  「あのね、お父さんはね、みんなが本当に仲よく暮せたらいいなって思ってるの、で
もね、みんなそう思ってても、なかなかみんな仲よくできないでしょ、美穂もほんとは恵
見と仲よくしたいと思っても、いつもけんかになっちゃうでしょ。お父さんとお母さんも昨
日みたいにけんかすることもあるでしょ、だからね、みんな仲よくしたいと思っているの
に、どうしてみんながほんとうに仲よくできないのかなってことをお勉強してるの。」
  「ふうん、おもしろいね。お母さんも?」
  「そう、お母さんもおなじお勉強してるんだよ。」
  「美穂も大きくなったら教えて。」
  「うん、いいよ。」

  いつも忙しさにかまけて、子供たちとゆっくり遊ぶことも少なかったので、そんな会話
は久しぶりであり、新鮮に感じられた。楽しかった。

  朝食を食べていなかったので、空腹を感じ、十一時半頃に食事をとった。美穂はま
だおなかがすいていないというので、ひとりで簡単にすませた。

  朝食の後、また二人で遊びながら、いろいろ話した。話は、たまたまクリスマスのこ
とになった。私はいつかはクリスマスツリーのことについて美穂と話をしなければならな
いと思ってはいたが、その機会がこんなに早くやってくるとは考えていなかった。実際、
どのように話を進めていいのかまったくわからなかった。
  「美穂、クリスマスって楽しい?」
  「うん、だってサンタさんがきて、枕のとこにお菓子おいてってくれるもん。」
去年のことを覚えていたのだ。
  「そう、お菓子くれるの。それでサンタさんが好きなの?」
  「うん。」
  「でも、お菓子なら、お母さんやお父さんでもあげるじゃない?」
  「そうだけど、サンタさんは甘いお菓子くれるもん。」
  「そうかあ、甘いお菓子くれるか。お母さんもお父さんもあんまり甘いお菓子あげな
  いもんね。」
  「そうだよ。」
  「お父さんはね、あんまりサンタさんこなくってもいいんだ。」
  「どうして?」
  「あのねえ、お父さんのところにはね、まんまんさん(仏さま)がもっといいものも
 ってきてくれるもん。」
  「えっ、もっといいものってなあに?」
  「なんだと思う?」
  「もっといいもの、うーんと、おまんじゅう?」
思わず笑ってしまった。
  「そうだね、まんまんさんの時はおまんじゅうくれる時もあるもんね、でも、もっと
 いいもの。」
  「甘いもの?」
  「甘くはないなあ。」
  「甘くなくてもっといいもの……、じゃあ、おもちゃだ。」
  「おもちゃよりもっといいもの。」
  「ええっ、もっといいもの?なあに、おしえて。」
  「なんだろう、考えてごらん。」
  「どのくらいの大きさ?」
  「大きさかあ、大きさはお父さんもわからない。」
  「じゃあ色は?」
  「色もわかんない。」
  「形は?」
  「形もわかんない。」
  「お父さん、そんなのずるい。」
  「だって、お父さんもほんとにわかんないんだもん。お父さんも名前だけしか知らな
 いんだよ。」
  「お母さんにも、まんまんさんがいいものもってきてくれるの?」
  「お母さんのことはわからないけど、きっとお母さんのところにももってきてくれて
 ると思うよ。だからお母さんもほんとは、もうサンタさんやクリスマスツリーいらな
 いと思うよ。」
  「でも、お父さんが昨日クリスマスツリーいらないって言った時、お母さん泣いてた
 じゃない。」
  「そうか、そうだね、でもあの時は、お母さんまんまんさんからいいものもらってる
 の忘れてたんだよ。だから、お父さんとお母さんと、後からお話したら仲直りしたで
 しょ。だから、お母さんも、もうきっとサンタさんこなくてもいいと思ってるよ。」
 「ねえ、それなあに、教えて。」
 「お父さんもね、今、美穂にわかるようにはうまくいえないんだけどね……、今は、
 うまく言えないんだけど、さっきお父さん字を書いていたでしょ。あの紙にそのこと
 を書いていたんだ、だから、美穂が大きくなったら、あの紙読んでね、きっと、お父
 さんがまんまんさんからもらったいいものがわかると思うから。」
  「でも、あんなの今読めないもん。ねえ、一番上の言葉はなあに。」
  「一番上の言葉か。一番上は『ナ』だよ。」
  「『ナ』?『ナ』だけじゃわなんない。次は?」
  「次か、次はね『ム』。」
  「ええっ、『ナ』の次は『ム』?その次は?」
  「その次か、その次はないしょ。」
  「そんなのずるい、ずるい、ねえ、教えてよ、もっといいものってなあに?」
  「ヒ・ミ・ツ」
  「ずるいなあ、ずるいよ、お父さんとお母さんばっかり、まんまんさんからいいもの
 もらって。ナ・ム……、ナ・ム……、ナ・ム……、ナムアミダーブ、ナムアミダーブ。 」と、
 歌うように言った。
もうしばらく同じようなやりとりが続いたが、それ以上私にはどうしようもなかった。
  「わかんない、お父さんずるいなあ。」
の言葉を最後に、ついに美穂はふてくされてしまった。

  美穂はだまってしまった。私は新聞を読みながら様子を見ていた。口をきかなかっ
たが、時々壁に貼ってある紙を見上げながら、一生懸命考えているようだった。私には
今の美穂に納得できるように、これ以上話すことはうまくできないが、美穂はものごとに
こだわるほうだし、豊な感受性で受けとめて、今日の会話はきっと心の隅に残ることと
思う。今はそれでいいと思った。サンタさんのくれるお菓子やおもちゃより、もっといいも
のがあるということさえ覚えていてくれれば。それはいつか美穂自身が見つけ出すだろ
う。これだけは自分で見つけだす以外にない。
  壁の紙には次の言葉が書いてある。

    解放への祈り
  出自によって差別されつづけてきた友人たちよ
  名告りつづけよ
  名告りによって自と他を引き裂き、差別する世界に
  怒りをもって名告りつづけよ
  名告りが無用な世界を願い求め
  名告りつづけよ
  名告ることの悲しみの涙で
  自らの頬をぬらしながら

  糾弾せよ
  糾弾が差別を助長するだって?
  とんでもない
  糾弾こそ真に差別なき世界を願い求める者の叫びだ
  誇り高き糾弾の歴史を見よ
  差別されつづけてきた者の怒りの声をあげよ
  糾弾者こそ、
  糾弾しなければならない世界を最も悲しんでいるのだ
  糾弾は矛盾に満ちた叫びだ
  そうでなければならない
  友人たちよ
  糾弾しつづけよ
  糾弾が無用な世界を願い求めて

  本尊は
  「いろもなく形もましまさず」
  もちろん名前もない
  しかし、我慢できなかったのだ
  この濁悪に満ちた世界に打ちひしがれた
  われら群萌を見捨てたまま
  沈黙を続けられなかったのだ
  怒りが沈黙を破った
  名告った「南無阿弥陀仏」
  阿弥陀の名告りは阿弥陀自身の自己否定だ
  その悲しみが「南無」と叫ばせた
  真宗の本尊は
  怒りと悲しみの「南無阿弥陀仏」だ

  名告れ 名告れ
  わが名を名告れ
  一たび名告れ
  十たび名告れ
  名告りつづけよ
  汝が命根尽きるまで
  称(たた)え 称え
  我が名を称え
  一たび称え
  十たび称え
  称えつづけよ
  汝が命根尽きるまで
  誇れ 誇れ
  我が名を誇れ
  一たび誇れ
  十たび誇れ
  誇りつづけよ
  汝が命根尽きるまで
                          (1986年12月17日 23時38分脱稿)

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