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梅原 真隆
「闇をとおして 光は いよいよ光る」 に寄せて

(未校正WEB版)
  近年、身のまわりで「生かされて生きるよろこび」という言葉を耳にする機会がし

ばしばあります。それが浄土真宗の教えであるかのように語られることに、私はある

種の戸惑いをおぼえます。おそらく「生かされて」ということを「他力」という意味で領

解されることから出ているのではないかと思います。もしそれが「他力」という意味で

あるならば、「生かされて」ということは浄土真宗独自の考え方であることになるはず

ですが、どうも浄土真宗の専売特許ではなく、新旧さまざまな宗教的団体でこの言

葉が使われているようです。

  浄土真宗において、「他力」ということが言われるのは、あくまでも「弥陀の浄土

への往生においては本願のはたらきを根拠とする以外に道はない」、つまり「自力

では往生できない」ということを明らかにするためである、と私は領解しています。

ですから「阿弥陀さんからこの生命をたまわった」という意味で「他力」ということが

言われているわけではありません。もし私たちが阿弥陀さんから何かを「たまわる」

ことがあるとするならば、それは「生命」ではなく「信心」しかないはずです。そして、

その「信心」とは、「ただ念仏して弥陀にたすけられまいらすべし」ということのみを

内容としています。

  「生かされて生きるよろこび」という言葉が好まれる風潮の中には、「生の礼讃」

とでも言うべきよろこびや感謝の念がこめられているのだろうと思います。私は、そ

のように受けとめてよろこばれることを無意味だと言うつもりはありません。その一

方で、浄土真宗の教えをよろこんでおられる方々の口からしばしばこの言葉が出て

くるのを聞くと、ひねくれ者の私は「それって、どこが浄土真宗なの?」と問い返した

い衝動にかられます。浄土真宗の「よろこび」とは、どこまでいっても「浄土への往生」

ということを中心にして語られる事柄ではないか、という思いがあるからです。

親鸞聖人の言葉に尋ねれば、「決定往生の徴」という「救いの決定」か、あるいは「地

獄は一定すみかぞかし」と「救いの断念」として表されています。方向はまったく逆に

見えますが、どちらも「定まる」という言葉をもって語られています。

  浄土真宗は、「生きる」ということを「生死」の問題としてとらえてきた教えです。

「生死の闇の深さに気づかしめる教えである」と言っても言い過ぎではありません。

生死の迷いの闇にあった者が、往生浄土という方向を見い出して、その道を歩もう

と一歩踏み出すことが「定まる」ということです。行く先に地獄が待ち構えているとし

てもその道を進もうとする決断が第一歩を可能にするのです。

  闇の中にいる者は、自分が闇に包まれていることに気づくことができません。ま

た、光だけに包まれる者は、光の存在に気づくことができません。影の濃さが光の

強さを表すように、苦悩の闇の深さが、救いの光の輝きを際立たせるのでしょう。

  死すべきいのちを生きているという、誰もが避けられない事実から目をそらすよ

うな形で「生の礼讃」のみが語られるならば、私たちは闇の深さに苦悩する人間とい

う生き物を見誤ることになるのではないかと思います。

                       (藤場 俊基  二〇〇〇年五月十九日 筆了)

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