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   ※個人名が登場するところはイニシャルにあらためました。

  「とにかく自分の目で確かめに」    1995年2月

2月15日 15時15分ごろ 金沢発 I さん(大工)、私たち夫婦の3人

○19時30分ごろ 大阪着
  梅田で食事をすませて、阪神線甲子園駅の近くの大学時代の友人のY宅に着く。

  Y家の両隣は倒壊こそしていないが、危なくて人が住める状態ではなく、両家とも
すでに引っ越したそうだ。Yの家も屋根瓦が落下して、屋根全体をブルーシートで覆っ
ている。電気は地震の日の昼頃にはきた。水もすでに来ているが、ガスは近所まで
来ているが、Y家の近辺だけがまだダメだそうだ。

  水については、庭の水道だけは直後から弱い圧力だけれども出ていたそうだ。少
しだけでも水が出たことはとても助かったが、そのことは他人には言えなかったそうだ。
洗濯さえ出来たが、さすがに大っぴらには干せなかったと言う。被害のひどい人のこと
を思うと、些細なことでも自分が良い目を見ていることに気が引けるそうだ。

  水が来始めても何も知らせがないそうだ。ある日たまたま水道の蛇口を開いてみた
ら突然「水が出る」ということに気がついたとのこと。それを知らなかった人はずっと給
水車通いをしていたそうだ。

  つい前日に話をして、21日にまた会う予定だった奥さんが亡くなられた。
  被害の大きかった地区で、避難所に入った知人は、情報途絶で3日ほどはまったく
呆然としたまま過ごした。最初の頃は、一日にマクドナルドパンが半分しか配られなか
ったと。テレビもラジオも新聞もない。周りが全部同じだと思っていたから、動いてみよ
うとも思わず、ただじっとしているだけだった。数日後親戚が訪ねてきて、「どうやってこ
こまで来たの」と尋いて、西宮から歩いて来たと知り、「そうか歩けば大阪に行けるんだ」
と気付き、初めて動き出したと言う。情報から切り離されるということは本当に恐ろしい。

  またわずか500メートルしか離れていない友人から、地震から4日後の21日に電
話がかかってきて、自分も避難所にいて、そこで炊き出しのボランティアをやっている
と聞いて、自分の家の状況とあまりにも違うので「ショック」。Y(夫)は当日の午前中に
は会社に行ったという。

  わずか数百メートル違いで、日常と非日常が天と地ほども掛け離れて、それらがほ
んの隣り合わせで同時進行している。しかも電話が通じなければ、お互いの状況を知
ることもない。車で移動できなければ動ける範囲は限られるし、徒歩や自転車で友人宅
を訪ね歩く余裕もない。つまりごく近所の軽度の被害を知っていることを除けば、Y(夫)
たちは地震直後から情報に関しては新聞とテレビしかない、金沢の僕たちと大して変ら
なかったと言うことだ。

  家具は置いた方向によって、倒れたのと倒れないのがはっきり分れた。地震は西か
ら東に向って走ったので、その方向と並行するように置いた、つまり北か南に向いて立
っていた家具はほとんど倒れず、地震の進行方向と垂直に立ってた家具はほとんど倒
れた。ガラスの食器はほぼ全滅、コーヒーカップは半分はだめだったそうだ。


◆2月16日午前中 
  Y(妻)さんの運転で西宮周辺を車で回る。交通規制・道路の損壊・渋滞などで思う
ように行動できなかった。それでも酒蔵通、図書館の周辺をまわる。

  少し西に行くと水汲みの人の姿を見かけるようになる。水がまだ出ていないようだ。
所々に更地になっているところがあり、ぼちぼち解体の作業が進んでいる。

  「Mさんが見に来るなら早く来い、全部かたずいてしまう」と言っていた意味を実感す
る。

  車からでは家の中まではわからないが、見た感じ軒並総崩れということはなく、大き
な被害を受けた家と無傷に見えるの家が混在している。この差は何から生じるのか。
家の新旧、建築の向き、工事の仕方、建っていた位置。住める形で家が残ったか壊れ
たかは天地の差。

○正午 JR甲子園口で案内のMさんと I さんの仕事を手伝っているH君と待ち合わせ。
  Mさんは僕たちを案内するためにわざわざ淡路島から来て下さった。彼女が、「案
内するから自分の目で確かめに来い」と言ってくれたので、来ることになった。彼女に尻
をたたかれなければ僕たちは来ることはなかっただろう。

  JRで西宮駅へ。北口へ出る。
  駅の北側は大きな約8千世帯という大きな被差別部落がある。その中を歩いて避
難所になっている若竹会館へ向う。途中には住むことができそうな家はほとんど残って
いない。片付けが済んだ更地も所々にある。

  会館のすぐ手前に、本願寺派の元宗務総長のお寺がある。周辺の被差別部落8千
はほとんどここのご門徒だそうだ。本堂は残ったが、庫裡の母屋は倒壊し、老夫婦と娘
の三人が亡くなり、娘婿だけが助かった。山門は柱が六本ある立派なもので、そのまま
1メートルほど横にずれて立っている。

  本堂を被災者に開放しておらず、お骨も預かっていないそうだ。周辺住民(当然そ
のお寺のご門徒)からは、震災直後の対応について、あまりよく言われていないようだ。

○13時ごろ 若竹会館着。
  ここは避難所になっており、1階のロビーは満員、2階には行かなかったが同じ状態
のようだ。あちこちに救援物資が山積みになっている。Mさんは、18日の肉丼千食分
の炊き出しの打合せと確認をしていた。


  Mさんの聞法道場があったアパートへ。1階部分がつぶれて30センチほどに圧縮さ
れてしまっていた。その上に壊れていない2階部分が乗っかっていた。

  3棟同様のアパートがあったが、一番奥のこの棟だけが倒れた。あとの2棟は立っ
てはいるが、危険で居住不能。

 I さんによれば、この棟だけ瓦を拭き替えた形跡があり、一枚も瓦が落ちていない。
倒壊していない2棟は瓦が落ちて、その分軽かったのが幸いしたのではないかとのこと。
やっぱり目の付けどころが違う。

  Mさんは下敷になったままの本を取り出したいと思っていると言ったが、彼女のおつ
れあいは、そんなものはまた買えると言っているそうだ。

  傾いている家をたくさん見ていると、錯覚のためか目がおかしくなってくる。まっすぐ
の建物でも傾いて見えてしまう。家の前の電柱が傾いていると、家は真っ直ぐに立って
いても、家が傾いて見える。また、そんな景色の中にずっといると、自分の身体が斜め
になっているように感じてくる。

  完全に倒壊して瓦礫の山になっている家よりも、残って傾いている建物が異様な感
覚を覚える。瓦礫の山は、家の解体作業現場に行けば見ることができるから、想像も
できるし、見覚えのある風景であるが、家が傾いている光景はおそらく他ではまず見る
ことがないだろう。それも根こそぎ倒れそうになっている建物よりも、2階が真っ直ぐで
1階だけ傾いて平行四辺形になっているような家がかえって痛々しい。隣の建物や、電
柱に寄り掛かるように、必死で持ちこたえている様を見ると、思わず支えて持ち上げた
い衝動にかられる。

  改良住宅の西側の大通を歩いてJRの方へ移動。途中道路にせり出すかっこうで傾
いている家の近くでガスのにおいがしたので、大阪ガスの車がたくさんいたので知らせ
る。

  JRの構内を通り抜ける時、改札に10センチ四方のボール紙にスタンプを押しただ
けのちゃちな入講証のようなものがありそれを取って反対の南側に抜ける。「いったい
何なんだこれは」。自由に行き来できる通路をわざとつくらなかったのか。JRの高架下
を通り抜ける通路はずっと離れた所にあり、このあたりで駅の南側と北側を行き来でき
るのはここだけ。北側の被差別部落から南側を切り離すための策か?もしそうだとす
ると許しがたい。他の駅の周辺ではこんなことは見たこともないし、ちょっと考えられな
い。

13時30分ごろ 新生会作業所(印刷)に立ち寄る。
  Mさんはそこの職員と再び18日の炊き出しの打合せ、食堂の調理師さんに肉丼の
作り方を教わっている。だいじょうぶかいな。そこでコーヒーを頂き一息つく。

○14時ごろ 西宮東口駅から阪神線に乗車
  窓からあちこちに倒れた家の残骸、傾いた家、ブルーシートが目に入る。あまり焼
けた跡は目につかないが、やはり西に行くほど被害が大きくなっていく。車中から見て
いるだけでも、倒れているのはほとんど古い家だというのがわかる。

  御影駅まで特急で約20〜30分ぐらいか。
  三宮まで行くには御影で代替バスに乗り換えなければならない。バスの発車場まで
徒歩で10分ぐらい。

  途中でたまたま大谷派のお寺の本堂が倒壊しているのを見かけた。つれあいのY
子がこれは難波別院の「南御堂」紙に載っていた知人のBさんのお母さんの実家の寺
ではないかと言う。山門は片側の柱が地上1メートルぐらいのところで折れてしまってい
る。I さんによれば、補修した時にその位置にボルトが通してあり、そうすると強度が落
ちて折れやすくなるとのこと。

  倒れた門の下に10センチ角の材木を井桁に積み上げて支えて持ち上げて応急処
置がしてある。山門向って左側の塀が今にも内側に倒れそうになっている。境内に入っ
てみると、本堂は文字通り倒壊で無残な姿であるが、倒れる前は立派な建物であった
ことはよくわかる。ここは庫裡の方はほぼ無事のようで、「南御堂」紙やBさんの寺報に
は全員ご無事だったと書いてあったはずだ。

  山門前の建物を解体している最中で辺りにホコリがたちこめている。
  共産党の支部の前で物資の無量配布をしていた。一人3品まで。

  古いビルに新しいビルを継ぎ足したと思われる建物の、古い部分だけが完全に倒
れてしまい新しいビルの中が丸見えになっている。まるで舞台のセットのようにテレビや
テーブルなどの家具が、生活していた時のままに見えている。

  代替バスはひっきりなしに来ており、ほぼ待ち時間なしで乗れる。観光バスだったので
全員が座れる状態で発車する。ちょっと足が痛くなっていたので助かった。

  バスは、倒壊ですっかり有名になった阪神高速の下の43号線を行く。片側2車線
の左側はバス専用レーンとなっており、スムーズに進む。右側車線は車が数珠つなぎ
でほとんど動いていない。これでも43号線は許可車だけしか走れないので、一般車は
いないとのこと。三宮まで約30〜40分の乗車。

○15時30分ごろ 三宮着
  バスを下りて今度は地下鉄の駅に向って三宮の街中を歩く。

  ざっと目に入ったところでは、ほとんど被害を受けているようには見えないビルも結
構あるように思える。テレビでよく見たビルもある。三井信託銀行ビルは4階あたりが潰
れている。隣には義兄の興銀の看板が見える。テレビではまったく気づかなかった。ビ
ル自体は日本生命ビル。10階あたりに電気がついているが、銀行部分と思われる下
の方には人気が感じられない。まだ営業はしていないか。その先には建物の半分が傾
いているそごう三宮店も見える。

  地下鉄三宮から高速神戸まで3区間。そこで神戸駅まで4〜5分歩きJRに乗り換え
る。

  Mさんから「座わるとよく見えないから、立っているように」と言われる。
  乗車区間は神戸〜兵庫〜(新長田)〜鷹取。新長田の駅は倒壊のため使えない。
電車の中から長田区周辺の火災の被害が車中からよく見える。山側も海側も焼けてい
る。ほとんど残っている建物はない。たまに焼け焦げたビルの残骸がポツンと建ってい
る。

16時ごろ 鷹取駅下車。
  結構疲れた。Mさんは、そのまま反対側に乗り換えて帰りたそうな雰囲気だったが、
ちょっとそこら辺を一周りしようということで歩き始める。どこも同じような状態でどちらに
向って行けばいいのか分らないが、とにかく目についた路地の方に入っていく。そこは
燃えていないけれど、全部潰れているか、傾いているか、まともな家は見当たらない。
路地には残骸の破片が散らばっている。解体作業は始まっている様子がほとんどない。
時々大きなパワーショベルのようなのを見かけるが、西宮あたりの様子とは全然違う。
更地になっているようなところはほとんど無い。

  ちょっと行くと(おそらく東へ向っていたのだろう)焼け跡が一面に広がってくる。そち
らの方へ歩く。焼け跡と言っても火事の焼け跡とは違い黒い炭のような燃え残りがない。
消火活動ができなかったため燃えるものは全部完全に燃えてしまったのだ。黒いのは
途中で消したもの。焼け跡の色合いは赤茶けた鉄の錆と、コンクリートの灰色。妙に明
るい感じがする。

  焼け跡の中の、角地に一つだけ奇跡的にほとんど類焼被害を受けていないように
見えるビルがあった。靴屋さんだったのか1階ですでに靴を並べて営業している。電気
が点いてとても明るい。

  気が付くとほとんど新長田まで来ていた。ここは電車がとまららないので、このまま
もう一駅先の兵庫まで歩いて行くことにする。疲れていたMさんには気の毒なことをした。
でもこの区間を歩いたことで、被害のすごさが一層よくわかった。

  ガード下をくぐり山側に出て、高架下の道と並行して走る一筋山側の道を歩く。テレ
ビによく出ていた菅原市場の跡も見えた。遠くには同じくテレビで再三見た4階が潰れ
た市立西市民病院だと思われる「西市民」の文字が見える。

  このあたりケミカルシューズの工場が多いとのことだが、すでに操業をしている気配
がする建物もある、がそれはごく少数。この辺りが本当の活気をとりもどすのはいつの
ことだろうか。後から指で押したら今にも倒れそうなくらい傾いたビルの前を人々がそし
らぬ顔をして通っている、もうこれが日常になってしまったのだろうか。僕たちは、余震
が来たらと思うと、恐くて足早に通り過ぎるか、遠回りをする。

  どうしたらこんな壊れ方になるのか想像もできないようなビルがあちこちにある。上
から大きな鉄の玉を落としたような形で真ん中部分だけ屋上か途中まで抜け落ちてい
るビル。中でモスラのようなバカでかい芋虫がはいずり回ったようにそこここが虫食い
のように壊れているビル。もちろん3階や4階の途中階だけがへしゃげているビルもいく
つか見た。

  鉄筋コンクリートのビルがこんな風に壊れるような衝撃はどんなものか想像もつか
ない。そして中にいた人達はその瞬間どんな気持ちがしただろうかと思うと、考えただ
けでも身の毛がよだつ。

  これもテレビの情報だが、特別な耐火基準に基づいて作られているガソリンスタンド
は一つも火災被害を受けなかったという。その通りで、焼け跡の中に営業をしているス
タンドがいくつかあった。

  1時間も歩いただろうかようやく兵庫の駅が見える。JRで1区間神戸で降りる。H君
とはそこで別れる。三宮行きのシャトルバスの列に並ぶ。なかなかバスが来ない。やっ
と一台来たが僕たちは乗れない。マイクで三宮までの所用時間は40分だと叫んでいる。
距離感がないからそれがどういうことかわからない。Mさんは時計を見ながらこのまま
私たちと西宮まで行ったのでは遅くなるので、ここから船に乗ると言った。私たちだけで
帰れるかと心配して下さるが、もう十分好意に甘えてしまったので、そうして下さいと告
げる。それから15分も待っただろうかようやく私たちに順番が回ってきた。所用時間4
0分と言われたが、実際には20分ぐらいで三宮着いた。

18時15分ごろ バスを降りた。
  案内係の人に阪神の代替バス乗り場の方角を確かめて歩き始める。行く時に見え
たそごうや三井信託、興銀のビルが見えたので迷うことはなかったが、行く手に黒山の
行列、こりゃ大変だと心配しながら進んで行くとそれはJRのバス待ちの列、阪神の乗り
場は「もうちょっと先」だそうだ。

  人込みをかきわけてだいぶん歩くと、ようやく阪神の看板が見える、意外に少ない。
が、それは各駅停車用。しかも阪神は2台分ほどずつに列を区切っているので、その
後にまだまだ列は続いている。いやな予感。御影直行のバス乗り場は「もう少し先」とい
う案内係の叫び声に従って進んで行く。あれはとても「少し先」とは言えない。かなり歩
いて、ようやく直行バスの先頭が見えた。

  すると今度は「御影行き直行バスの最後尾はもう少し先です」という誘導の声。また
「もう少し先か」と思いながらも歩くしか他にしようがない。行けども行けども最後尾にな
らない「最後尾はもう少し先です」という誘導の声は一人だけではなかった、少なくとも
三人はいたはずだ。「ええかげんにせえ」と心の中で関西弁でどなる。あせっていたの
で列の長さがどのくらいだったのかわからない。とにかく列の一番うしろに並んだ。さっ
きのシャトルバスの列の何倍あっただろうか、少なくとも5〜6倍はあったと思う。

  シャトルバスはあれだけの行列で3〜40分は待たされた、これはいつになったら乗
れるかわからないぞ、ということでYさんに電話をしておこうと、二人を残して列を離れガ
ソリンスタンドに入って電話を借りる。僕の前に一人先にいた、彼もこの行列で帰りが
遅くなくことを家に連絡するだけだからすぐ終わったので、ほとんど待つことはなかった。
電話に出たY(妻)さんに「今三宮でバスを待っているが、すごい行列だから、乗れるま
でに何時間かかるかわからない。食事は済ませて帰る」とだけ告げてガソリンスタンド
を出る。

  ものの5分も経っていなかっただろう。だが、二人が見えない。先に進んだのだろう
と思って、前方に進む。でもいない。おかしいな。見逃したのかな心配になったけれど、
もうちょっと進んでみようと早足で歩く。また心配になるが、同じ方向に進んでいく列の
進み方は意外に早い。この分だともっと先かもしれないと、もっと行く。目測で半分ぐら
いは来たかなと思ったころようやく二人を見つけた。ずいぶん進んだので二人も僕のこ
とを心配していた。

  人が乗っている様子が見えるところまで来ていた。もう50メートルはない。バスはど
んどん来ているみたいだ。しかも2台ずつ発着している。ようやく二人の姿が見えた。二
人に追い付いてから2台目の到着で乗れた。結局待ち時間は20分もなかったのでは
ないかと思う。昼と同じく、バスレーンのおかげで、右車線の渋滞を尻目に、運行もスム
ーズに行った。30分ほどで御影についた。昼間乗った場所とは違うところで降ろされた
みたいで、駅までは近かった。歩いて2〜3分で着いた。

  ここまでくればもう帰り着いたも同然で、阪神の急行に乗り甲子園に降りたのは7時
を少しまわったころ。ホームから駅の隣のスーパーが開いているのが見えた。営業は
8時までとのこと。そこで食事と買物を済ませて、Yさんの家にたどりついたのは8時過
ぎだった。

  夕方のラッシュにぶつかったころから、暗くなったのとあせっていたのとで、シャトル
バスを待つころからは周りはあまり見ていない。

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