らくりんバンバン

〈 落 鱗 板 々 〉

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おじきさんへ   投稿者:Genko  投稿日: 6月24日(月)06時20分17秒

どうしても分かってもらえないみたいなので、もう一度だけ繰り返します。

>Genkoさんのゆう論旨と
>Genkoさんの現実が矛盾だらけやなぁと思いました。Genkoさんはいつも人間は自己矛盾
>するもんやって言いますけど、それって都合のいい言い訳なんちゃうのんと思います。

「都合のいい言い訳」でないつもりは毛頭ありません。
<完全なる正論>というものを想定した立場からすると、どんな仏教徒も、
己れの「生活の糊口」や「足場」を守るために、言い訳せざるを得なくなること必定です。
仏教徒ならずとも、我々の年収から一人あたりにつき数千万円以上を得ている国会議員や、
大学の学部長や教授連などは、普通のサラリーマンの二倍以上の所得があります。
そうすると、彼らは、我々以上に生活が贅沢だからという理由で、
「国家や資本主義」に纏わる仕事や議論は、やってはいけないのですか?
フーコーやアルチュセールやブルデューらだってみんな大学教授でした。

私の立場は、例え或る人が「世界一の大金持ち」であっても、
この議論の参加資格は同等にあるし、またその彼が「資本主義」を批判しても、
「言うててることと、やってること」が矛盾しているとは全く考えません。
だってこれだけの事実関係では、彼のホンネの部分が分からないからです。
貴族制を打倒すべくロシア革命を準備した多くは、貴族の末裔である青年たちだったし、
一部の新左翼系運動を裏で資金援助していた西部の堤○二みたいな経営者だっていたのです。
「清貧洗うが如し」の仏教徒が現代にもし存在し得たなら、
おじきさんにとっては尊敬に値するのかもしれませんが、この時代にあって、
殆ど誰もついてこないことだけは確実です。
私は現代人に求められている「仏教」というのは、そう言うものではないと思っています。


ゆうてることと、やってること。 投稿者:おじき  投稿日: 6月24日(月)02時04分26秒

大まかに言えば「資本主義や国家や構造が諸悪の根源だ」というGenkoさんの「論旨」
自体には僕もほぼ同意します。だからこの部分を批判するつもりはありません。

ただ「ヤクソウ」の話題があった時、お寺のゆうてる理想と、お寺がやってる現実の
あまりの乖離にイヤな気持ちになりました。それと同じ様にGenkoさんのゆう論旨と
Genkoさんの現実が矛盾だらけやなぁと思いました。Genkoさんはいつも人間は自己矛盾
するもんやって言いますけど、それって都合のいい言い訳なんちゃうのんと思います。

書き手の生活を問題にするのは最低限のルール違反だそうですが、僕の学んでいる仏教は
教えが生活の中でいきてこそというものです。生活を問題にしない議論は机上の空論だと
学びました。Genkoさんが今までどのように仏教を学んでおられるのかよくわからないの
で申し訳ありませんが、今の所僕が「仏教徒であるGenkoさん」に言いたい事は以上です。
もう僕からはからみませんので、立ち去るなんて言わず思いっきり議論なさって下さい。

ヘルメット無事到着してよかったです、もう盗まれない様に気をつけて下さいね。


内在的な批判を。 投稿者:Genko  投稿日: 6月23日(日)23時26分07秒

欧米のように、幼少期の段階から「学校教育」等で、
<ディベート>中心の授業を殆ど訓練されておらず、
ひたすら上意下達式の一方的教育しか経験していない私達日本人は、
他者との間で交わす「議論」というものが、
どうしても下手でうまくいかないことが多いものです。
その一つに、他人の意見に「内在的な批判」が出来ない、ということがあります。
主題がどんなゲスなものであっても、誰かのある一つの「見解」には、
必ずその人固有の「コンテキスト」があるものです。
反対者はその「コンテキスト」にそくして、その<内部>で彼の「主旨」に反論するのであって、
決してその<外部>へと逸脱してはいけないのが、最低限のルールなのです。
例えば、今私が読んでいるらくりんさんの『読み解く』という本でも、
もし反論者がいれば、著者によるある主題に基づいた立論に展開されている、
一定の「コンテキスト<内>」の「主旨」または「論旨」の部分において、
反対の立場から当該の内容を<批判>するのであって、
決して著者の生活がこうだからとか、性格がこうだからといった、
いわばテキストの<外部>的事象へと踊り出た部分を<批判>してはならないのです。
これは完全にルール違反であり、もはや<批判>などではなく、只の<非難>となります。
私は今までこのサイトで、折りに触れ、このことをさかんに言い続けてきました。
どのような他者でも、決して<非難>してはいけない。
するなら「内在的な<批判>」だけです。
そもそも「議論が出来るから」と言って、私をここに導いたのは、おじきさんでした。
議論と言うのは、「内在的な<批判>」的関係に置かれることによって、
お互いの内容が緊張感の中で発展し、反省しつつより高度化していくことだと心得ます。
そうして、そこには先述のルールが尊守されなければならないことはもちろんのこと、
礼儀とマナーが常に要請されるべきものです。
罵詈雑言や相手のプライバシーに関することは、原則的にご法度でありましょう。
ましてはここは、記録され、公開されてしまう場所であるからにはなおさらです。
これが少しでも出たら、もうそれは議論ではなく、誹謗中傷の戦場に変わってしまいます。
私は何も、自分の私生活が暴露されるのが嫌だから、
こんなことを申し上げているわけではありません。
良識ある大人として、良い人間関係を維持したい一心で、
いわば当たり前の事を言っているだけです。
今後これが遵守されないようであれば、私は折角紹介されたこのサイトを、
「議論の場に値しない」ということで、残念ながら立ち去っていかざるを得ないでしょう。


お留守居役様へ 投稿者:我苦生  投稿日: 6月23日(日)23時05分07秒

 すいません。酔っています。

 お留守居役という役職は私も知っています。だから『芸風』と記したのです。
 
 で、酔っていますので、いわせてもらいますが、勝海舟のお父さんはいいですね。
 勝海舟も良いですが、あのお父さんのいきいきした文章は最高ですね。
 実は私、歴史大好きな人間でして、『お留守居役』という言葉を聞いただけで、わくわくする人間です。

 今は、ネット喫茶でこの掲示板を利用しているので、メールで連絡をとる事が出来ませんが、
 パソコン買って、メールできるようになったら、又、掲示板に書きにくいことも含めて、色々指導、教えてください。お願いします。


おじきさんへ 投稿者:Genko  投稿日: 6月23日(日)22時49分16秒

こんなところへ、個人的な連絡事項をカキコするのは、気がひけるのですが、
貴方が先日それをしたので、そのまま返します。
昨日、送ってもらった箱が自宅に無事に届きました。
とりあえず、お礼かたがた、伝えておきます。
お手間をとらせて申し訳ありませんでした。どうも、ありがとう。


酔ってます 投稿者:我苦生  投稿日: 6月23日(日)22時48分00秒

 >ステレオタイプの差別ということであのカルピスの黒人キャラはどっかいってしまったけど。

 以前住んでいた大阪の下町には、喫茶コロンボというお店がありました。
 ですが、看板はどう見ても「クロンボ」を無理やりに「コロンボ」にした看板でした。


金子みすゞ の世界 投稿者:ぐっちん  投稿日: 6月23日(日)22時16分44秒

  積もった雪

 上の雪/さむかろな。/つめたい月がさしていて。
 下の雪/重かろな。/何百人ものせていて。
 中の雪/さみしかろな。/空も地面もみえないで。

 ブレイクしてしまって何だかちょっとくやしい気持ちもする、みすゞさん。あれは忘れもしな
い小学校一年のとき、図画の時間に詩をテーマに絵を描くというのがありました。どういう本に
載っていたのかは定かでないのですが、『大漁』という詩の世界をそのとき描きました。

 満26歳の若さで自ら命を絶った彼女の墓のある金子家の菩提寺はお西の遍照寺ですし、家の
2階では『歎異抄』を読んだり、法話を聞いたりする会がもたれており、彼女も祖母や母と共に
よくその会に顔を出していたとのことでした。

 彼女を生んだ仙崎のある長門市内26ヶ寺の仏教寺院の内、真宗寺院が17ヶ寺(すべて本派)、浄土宗寺院が4ヶ寺。彼女の世界の底流には、確かにお念仏が流れているようです。


セントーを知らない子どもたち 投稿者:ぐっちん  投稿日: 6月23日(日)21時18分32秒

 ♪フケすぎてるからと 大人料金取られ〜
  髪の毛が長いと もう10円取られ〜

 お風呂はゴクラクであります。だからお風呂やさんには唐破風(からはふ)というお寺の
玄関なんかで見かける装飾があるのでございます。お風呂屋さんに従事するのは、北陸の方
でございます。新潟4、富山2、石川2、福井1、その他1というのが業界出身者のふるさ
とです。

 そして、その人々は圧倒的に真宗門徒であります。勤勉さやねばり強さ、そして夜遊びに
行くのをガマンできる。『真宗門徒の倫理と風呂業界の精神』略して「フロ倫」は、私にと
って長い間暖めているイボ痔のような課題であります。

http://mecenat.bento.ne.jp/machida/sento/sento3.html


おやじ度チェック 投稿者:ぐっちん  投稿日: 6月23日(日)20時40分54秒

 佐藤アイ子 というのを見て まず最初に<藍>という字を思い浮かべなかったあなたは、
オヤジです。


ガンダーラ、ガンダーラ 投稿者:ぐっちん  投稿日: 6月23日(日)20時20分19秒

 仏教とアーユルヴェーダに興味をお持ちの方は、このサイトをお読みください。玄奘や義浄の
インド旅行記にアーユルヴェーダが言及されてます。

 >たとへば良医の善き八種の術のごとし

 の八種の術とは何かもわかります。あ、石蜜とは氷砂糖だと↓にカキコしましたが、さとう
きびの茎でした。山辺・赤沼の教行信証本だったか、石田充之の現代語訳だったかにそうあっ
たので鵜呑みにしてました。

 で、話しは変わりますが去年の秋に東大病院に緩和ケア病室ができました。大派でビハーラ
運動を推進しておられるT師などは、韓国や台湾の国立病院に<仏間>があるのに、日本では
政教分離政策によって国立病院から宗教色は抜かれています、語っておられました。京大病院
の構内に実験動物の供養碑があるだけです、と。(※しかし緩和ケアという名称には宗教色が
ないということです)

 <近代化>のある時期までは、科学と宗教の縄張りはハッキリしていたのでしょうけど、
生命倫理という問題が浮上してきてその境界線が崩れてきたという印象を受けます。が、しか
し医療の現場に宗教がしゃしゃりでるのもどうかな?と思います。病気を治すと言う事の専門
家である医者と、死をどう迎えるかという事の専門家である宗教家。できあがってしまった宗
教家とできあがってしまった医者がぶつかるのは目に見えているような。。。

 病床ケアの伝統がない、あるいは切れてしまったところで、さあどうなんだろ?余計なお
世話かも知れない、とぐっちんは思いました。あと、老人病院で働いていたとき都民の電話
相談を受けてましたけど「ホスピス紹介してもらえませんか?うちのおばあちゃんを入れた
いんです」との声をよく聞きました。現代の姥捨て山化してますね。。。

http://www.genshu.gr.jp/DPJ/syoho/syoho34/s34_171.html


なかなかやるな 投稿者:おじき  投稿日: 6月23日(日)05時37分57秒

ぐっちんさん紹介の「涅槃経セット」さすが奈良って感じしますね。
この「涅槃経」は釈尊入滅の説法だから、このセットを買って食せば釈尊のように
腹こわしてゲリピーになるんちゃますか、特に牛乳に涅槃とは買う人おるんかな?
家に帰ってきて嫁はんが「涅槃経セット」買って来てたら保険金殺人の心配するわ。
でもスーパーに買い物行ってチーズ味の「涅槃経セット」や、素材そのままありのままの
おいしさ「法華経パック」あるいは「空」腹時に飲む「般若心経ドリンク」、七日間で
効果が出てくる「阿弥陀経ダイエット」とかあったらおもろいな。


あ、忘れてた 投稿者:ぐっちん  投稿日: 6月23日(日)01時18分39秒

 オウム真理教(現・アレフ)の

 上U史浩 さんっていうネタもあった。。。(ヒント:ああ言えば。。。)

http://www.joyu.to/


実名報道、個人情報 投稿者:ぐっちん  投稿日: 6月23日(日)00時40分02秒

 う〜ん、気をつけなくちゃ。

 Q州O谷短期大学学長、F氏というのもほとんど実名かも知れない。

 昔、こんなの考えた。

 竹下K子  名取U子  佐藤I子 。。。亀井静香(仮名)。。。


追加 投稿者:ぐっちん  投稿日: 6月23日(日)00時14分47秒

 カルピスのカルは、カルシウムのカルと醍醐の梵語、サルピスのピスからとったので
あります。
ほんま、どうでもええなあ。。。


どうでもいいこと。 投稿者:ぐっちん  投稿日: 6月22日(土)23時57分08秒

 >たとへば良医の善き八種の術のごとし。まづ病相を観ず。相に三種あり。なんらをか三つと
 >する。いはく、風・熱・水なり。風病の人にはこれに蘇油を授く。熱病の人にはこれに石蜜
 >を授く。水病の人にはこれに薑湯を授く。

 涅槃経の一節。蘇油とは、チベット人がバター茶として飲む、バターですね。密教でもこれが
法要に使われる。バターがお灯明です。石蜜とは、氷砂糖のことで、薑湯はしょうが湯です。
これはアーユル・ヴェーダ(インド古代医学)治療のこと。

 風病、熱病、水病というのは、特定の病気を指してるのではないですね。アーユルヴェーダで
いう三つの体質。ヴァータ、ピッタ、カパのことを指している。で、食事療法のことが記されて
います。食べ物を六つのラサ(味)に分類する。すなわち、甘味・塩味・酸味・苦味・辛味・渋
味。で、グナという質を考えるのだけど20種あるので解説はパスします。

 風病を癒す要素は、味なら塩・甘・酸味で、質なら重くて油っぽくて熱いもの。それでバター。
熱病を整える要素は、味なら苦・甘・渋味で、質なら冷たくて重くて乾いてるもの。それで、氷
砂糖。水病を治す要素は、味なら辛・苦・渋味で、質なら軽くて乾いてて、熱いもの。で、生姜
が選ばれてるのだと思います。

 ホントどうでもいい、雑業・雑修の雑学だ。。。

http://www.kitora.com/nehannesetto.htm


カルピスと近代 投稿者:ぐっちん  投稿日: 6月22日(土)23時26分35秒

 ネットカフェにいるとドリンク飲み放題です。卑しい性格。もとをとろう。それでついつい
腹をこわす。腹ばかりでなく、消化液を薄めるみたいで、食事を摂ると内臓がいたくなる。
(ってオイオイ大丈夫かいな?)
 ぐっちんが好きなのは、カルピスに紅茶を少々ブレンドするティーピスや、コーラを混ぜる
カルピスコーラという飲み方です。そう初戀の味、カルピス。

 そのカルピスを発明した男。三島海雲は、大阪の西本願寺の末寺出身です。あの大谷光端門下
生でもありました。ぐっちんは、毎日新聞とってないから「アミダが来た道」という連載を読ん
でませんが、三島のことは出てくるかなあ?出てこないだろうな。関係ないもんな。でもあの
時代精神だな、カルピスを生んだものも。。。

 カルピスといえば、あのストローでコップからカルピス飲んでる黒人の広告ですねえ。ぐっ
ちん幼い頃、大阪の天王寺ステーションデパートの壁面を飾っていた、ネオン広告が頭に焼き
付けられてます。ステレオタイプの差別ということであのカルピスの黒人キャラはどっかいっ
てしまったけど。ちなみにカルピスの最初のキャッチ・コピーは、「めっぽうかいに美味い」
でした。めっぽう美味いじゃないとこがミソ。

http://www.jmam.co.jp/hrd/sougyousya/s03_1.html


偉い者ではございません。 投稿者:お留守居役様  投稿日: 6月22日(土)22時33分08秒

お留守居役様(おるすいやくさま)は、
江戸時代の役職名で、大名が江戸に常駐させていた渉外担当者のことです。
殿様が国元にいる間の留守番というわけです。
幕府や他家との折衝、接待に当たり、
自家の不利益になる幕府の土木工事などの命令を
受けないように巧妙に立ち回る役目でした。
江戸住まいが長かったので、洒脱な文化人であったようです。
子母澤寛「勝海舟」に登場する薩摩藩の益満休之助のイメージでもあります。
私自身は、東京生まれの東京育ちなもので勝海舟がご贔屓なのです。

あるチャットルームのようなところで、
誰も来なかったので一人で書き込んでいたときに
留守番役みたいだと思い「お留守居役様」と名乗ることにしたのです。
「様」を自称するのは、そこに「王女様」や「王子様」がすでにいたからです。


四海同朋は可です。 投稿者:お留守居役様  投稿日: 6月22日(土)22時32分14秒

私が申し上げたいことは、四海と兄弟は次元が違う。
兄弟という言葉で四海をなぞらえるのは、インチキで、
人をだます言葉である、ということです。
「四海同朋」と言われるのでしたら、何も申し上げることはございません。
なぜなら「四海」も「同朋」も同一次元の
共同の幻想の言葉だからです。


反論と、お願い。 投稿者:我苦生  投稿日: 6月22日(土)20時57分37秒

 >正解は、全てB−C−Aの順です。一部、C−B−Aも正解とします。

 この、正解は誰が定めるのでしょうか?
 だれが、どんな理屈で、正義で、正解を定めるのでしょうか?
 国家や、権力、権威は荒っぽく言えば、共同幻想でしょう?
 >きわめて排他的な仲間意識を表した言葉なのです。
 という自分の言葉を、どう読むのですか?
 まあ、遊びなのでしょうが。

 また、「お留守居役様」という、ネットの中での芸風なのでしょうが、偉そうです。
 その、偉そうな態度も、
 >「地球は一家。人類は兄弟。お父さん、お母さんを大切にしよう。」と同じ発想で、思想の論理構造が同一と思われます。
 で、あって、自分に従わない者は非国民にするのと、
 >同じ発想で、思想の論理構造が同一と思われます。
 のではないのですか?

 他者は、尊いものです。自分の限界、閉ざされた自分をきづかしてくれるので。
 だから、人から指摘される事に対しては真剣に考えますし、自分の考えを意見します。
 で、対話が、関係が成り立つのでは?
 それを同朋(ともだち)と、私は呼びます。
 仲良しクラブ、傷のなめあいは、私も嫌いです。
 
 以上、意見してもらい、よく解らないなりに、私も、意見、反論します。
 お願いですから、少しづつでもかまいませんから、具体的に意見ください。
 関係している事実を粗末にしないでください。

 あ、もちろん芸風なのでしょうから、偉そうな態度はかまいません。芸風じゃなくてもかまいません。偉そうな態度でもかまいません。
 「真宗に出会ったら、謙虚になる。」
 など、という人もいますが、お留守居役様が真宗者かどうか知りませんし、
 「真宗に出会ったら、謙虚になる。」
 などと勝手に決められるのは、腹が立ちます。
 偉そうな態度はかまいませんから、もっと、具体的に、私に解るように指摘ください。
 お願いします。


結論 投稿者:我苦生  投稿日: 6月22日(土)20時14分46秒

 >「私」は「公」に優先すると考えます。

 と、全く同意見です。
 だが、私は、その私を確立するために念仏が必要だった。それだけです。


つづきです。 投稿者:我苦生  投稿日: 6月22日(土)20時04分29秒

 つづきです。

 ある先生から聞いた事でそうだな、と感じたので、紹介します。
 「念仏とは、『なにものも頼らない』と、いうものだけには、頼る。」
 また、
 「頭は人に下げるものではありません。」つまり、弥陀一佛だから、人にあたまを下げる必要がない。
 ありと、あらゆる権力、権威(それが、真宗のものであっても)ひれ伏す事のない、個人、私を確立させるための念仏です。
 奪われていた主体性の回復が、私にとっての真宗です。
 だから、
 >この言葉が嘘であろうが、無かろうが、私には関係ありません。なぜなら『好きな言葉』だから。だれがなんと言おうと、どんなにお偉い先生が言おうと、関係有りません。
 仏教の言葉であろうと、無かろうと、どうでもいい。
 と、いいきるのであって、
 またいいきった自分に対して、批判という形でかかわってくれるなら、それは、ありがたい話です。
 念仏者であろうと、なかろうと、関係なく。


お留守居役様へ 投稿者:我苦生  投稿日: 6月22日(土)19時36分43秒

 よく解らないのですが、返事いたします。また指摘くださると、ありがたいです。

 まず、四海兄弟を、その部分だけで読むと、その意見は私もその通りの意見です。
 例えば、念仏。南無阿弥陀仏と、となえる人だけを、兄弟とするなら、カルトです。
 また、今の私のイメージの中で兄弟と言うと、上下関係というのも含まれます。
 ゆえに、例えば天皇を親とする兄弟というと、へどが出そうです。
 また、兄弟は兄弟であって、姉妹ではない。また、へどが出そうです。

 天皇家を、大谷家に変えても同じである。
 大谷派教団に変えても同じである。
 だれか、個人、もしくは政党、団体、抽象的な概念。何でもいい。
 それに近い人たちが、『偉い』、詳しい人が偉い、そんな閉ざされたような世界は大嫌いです。

 意識して書いてないのでしょうが、四海兄弟は、論語顔淵の言葉かもしれませんが、私が読んだのは真宗聖典の『同一念仏 無別道故』
 『遠く通ずるに、四海の内、皆兄弟』(すいません、ネット喫茶に聖典もって来てないので、うる覚えです。)
 という言葉です。
 この言葉でも、念仏している人を、真宗門徒に限ってしまえば、むちゃくちゃ排他的で、へどが出ます。
 戦時教学の事、よく知りませんが、真宗門徒の人たちを、教団が戦争に送り出すときに使いそうです。
 真宗史、よく知りませんが、真宗王国と呼ばれた所で、真宗門徒以外の人たちに、真宗門徒の人たちが、なにをしたのでしょうか?

 縁起とは、つながりを生きている事実のことです。
 だから、他人事でなく、私の責任です。
 だから、『敵』にはできません。唯除は、敵になりません。できません。
 先に記した『へど』がでる話は、私のなかにある事です。
 だから、わたくし事に出きるのであって、かかわっていけるのです。関係している『事実』を生きていけるのです。世界中のどんな事も、わたくし事として、関係していけるのです。


紹介 投稿者:らくりん  投稿日: 6月22日(土)13時26分23秒

ジャーナリストの田中伸尚さんから、
6月20日に発行された岩波新書『靖国の戦後史』
宣伝メールをいただきましたのでご紹介いたします。

岩波書店のホームページにインタビュー記事もあります。
 ↓ から
「編集部だより:新書」 ―→クローズアップ
と入っていってください。

http://www.iwanami.co.jp/hensyu/sin/


ぐっちんさんへ 投稿者:モモ  投稿日: 6月22日(土)08時50分20秒

すかっとさわやか好青年、なんかこう言われるだけで
恥かしくなりますが、アリガトウございます。

アウトドアといっても、カヌーやキャンプがメインです。
しかし、最近地元で子どもたちとカヌーを教えたりも
してます。きれいな川に各地から人が集り、シャワー
クライミングやラフティングがブームになってます。
山登りはあまりしないのですが、

「それで、沢登りについてお伺いしたいのですが。
ぐっちん、雨のあとの山に登って道が川状態
っていうのはよく遭遇しましたが。」

渓流釣りやシャワークライミングと同じと考えると、
基本的に濡れてもイイ服装で無いとキツイですね。
今、ユニクロなんかでもドライ生地の服が増えてきました。
ジーパンなんかだと濡れると動けなくなるし、綿パン
でも同様ですね。LLbeanやMontbellなんかで買い揃え
たら一番良いんでしょうが、結構そういう専門のは
高いですからね。いっそのこと、ウェットスーツに
してはどうですか?沢登だと、渓流釣りの友人は
鮎釣り用の足から胸ぐらいまである長靴というか、
漁師さんがよく付けているエプロンみたいなのを
着たらイイかも。しかし、雨後の山はコンディションが
悪いし、危ないですよ。気を付けて下さい。

靴も、釣り用の足にフィットしたブーツみたいなのが
あります。これだと、川の中でも十分だし脱げません。
今日はこれからカヌーです。ウキウキ


風力発電 投稿者:ぐっちん  投稿日: 6月22日(土)05時52分47秒

 真宗寺院の境内にも風力発電装置をつけてみたらオモシロイんではないでしょうか。
おばあちゃんが、「あれっ。本願寺さんも水子供養やりだしたんかいね」なんて誤解
されたりして。。。


モダン・シティ・ボーイ 投稿者:ぐっちん  投稿日: 6月22日(土)05時43分38秒

 世の中にはへんな人がいるもんだ。むかし、ぐっちんには金のかからない趣味があった。それ
は、ただ町をぶらぶらして目に付くへんなものを見つけることだった。これは、とっても楽しか
った。誰にも邪魔されない自分だけの世界だった。本来は、近代に建てられた名建築を眺めて写
真に納めるのが趣味だったのだけど、だんだん銭湯とか理髪店とかの商店建築とか身近な隠れた
一品に関心が移り、さらにもっと名もないキッチュなものに興味を持ち出したのがきっかけであ
った。

 しかし、それが突如「超芸術トマソン」という名でメジャーになってしまった。仕掛け人は、
赤瀬川原平・南伸坊ら。トマソンとは、そもそも鳴り物入りで入団し、高い契約金を払ったにも
かかわらず、ちっとも活躍しなかった巨人の外人選手からとった。つまり無用の長物というわけだ。発見された、第一号の物件が名づけて「四谷階段」

 なんのことはない、ビルの一階の外壁にドアに入るための階段があるのだけど、何らかの理由
でドアが閉鎖され、役に立たなくなった階段なのだ。このような「前衛芸術運動」は後に、宝島
という雑誌にVOWという、おかしな広告・看板を紹介する投稿コーナーによってさらに脚光を
浴びてしまった。

 がしかし、この赤瀬川一派、つまり「路上観察学会」のメンバーに飛び切りへんなひとがいた。
林丈二と一木努である。林丈二は、「マンホールのふた」という実にくだらない写真集を出して
いる。日本のみならず、ヨーロッパにまで出かけていってマンホールを撮ってくるのである。
さらにもっとおかしなことに、この林氏、スニーカーで町を訪ね歩いた際に、そのスニーカーに
はさまった小石を採集ビンにコレクションしているのだ。まったくあきれるばかり。

 そして一木努という人はというと、「建築のわすれがたみ」。解体される名建築の現場をたづ
ね、そのかけらを採集するのだ。たとえば、美空ひばり邸の門扉にあったト音記号の装飾。他に
もあさま山荘、手塚治虫や、赤塚不二夫、石ノ森章太郎などそうそうたる漫画家が住んでいたト
キワ荘、旧国技館、鹿鳴館などなど。

 実は、ぐっちんも大阪・道頓堀にある松竹座という映画館が解体されるとき、こっそり盗んで
きた瓦礫があった。けど、あまり保存状態がよくないので捨ててしまった。それに松竹座は正面
のファサードを残して改築してあるので、まあ見栄えはいい。大阪の難波別院の向かい側にある
テラコッタが美しい旧大谷仏教会館の建物も同じような例だ。つまり建物の外壁だけを保存して
ある。


おじきさんへ(補足)  投稿者:Genko  投稿日: 6月22日(土)04時25分17秒

>Genkoさんが何をどうしたいんか、<非近代>なんて抽象論じゃなく具体的に考えて
>いきましょうや。

私が目下あるいは今後、何をどうしたいんか、という主題については、
これまで折に触れ、ここで時々に発言してきました。
それらは読まなかったのですか?

それから、具体論も確かに重要ですが、
そもそも何ほどかアカデミックな議論というのは、抽象のレベルで行われるものでしょう。
貴方の明るいであろう仏教教学に内在したことが問題の対象になった場合、
貴方だって抽象化した真宗教学的<概念>構成をやりながら議論を進めざるを得ない筈ですよね。


再度おじきさんへ 投稿者:Genko  投稿日: 6月22日(土)04時01分57秒

>あなたのカキコ読んで呆れてるだけです。
>国家、資本主義、構造、などなどを悪の親玉に仕立てて、今の自分や社会の現状は
>そいつらのせいやって責任転嫁してボヤいてるだけですやん、ほんまおもろないわ。

おもろなかったら、おじきさんは私のカキコを読まなければいいだけですやん。

それに、私は別に「国家、資本主義、構造、などなどを悪の親玉に仕立てて、
今の自分や社会の現状はそいつらのせいやって責任転嫁してボヤいてる」つもりなど、
最初から毛頭ありませんが、貴方が何と印象を持たれようと、20世紀後半から現在に至るまで、
この「国家、資本主義、構造」問題は、今では最も焦眉の現代思想の最前線の主題です。
私の尊敬するフランス文学者杉村昌昭氏の講座でも、目下通っている四谷のスガ氏の講座でも、
昨日の法政大の「日本文芸史」の授業でも、このことは常に議論の俎上に上る主要テーマでした。
それが「おもろない」と言って唾棄するのはあくまで貴方の自由ですが、
同じ僧侶のCHINCHINさんのような、こうした問題に敏感な仏教徒も、
世の中には少なからずいてくれることが私には心強い限りです。
貴方がいつの日にか私にご教授下さった内山愚堂や高木顕明氏らにしても、
当時の思想的限界状況の中で、
これらの問題性が既に何らかの形で主題化されていたものと推察されます。、
彼らの認識の射程距離に入っていたがゆえに、弾圧の対象とされたのでしょうね。


ぐっちんさんへ 投稿者:Genko  投稿日: 6月22日(土)03時39分12秒

>それをGenkoさんのように、いつの時だって「労働者」の方が「僧侶」よりひどい状況に
>置かれているとか、宗憲に「役僧」の規定をしたとしても体制に飲み込まれるというような意見
>を書かれたら、ぐっちん「この人はいったいどないなってんねん?」と思います。

ぐっちんさん。お願いですから、こういう「発言の文脈的改竄」と、「論旨の歪曲化」は、
今後二度とやめてもらえませんか。そうでないと、そもそも私は、
答弁したり、反論したりする気力と意欲そのものを失ってしまいます。

まず、前者ですが、私は、
「ヤクソウ問題」への少々物騒な発言を訴えられた我苦生さんなどの身を案じて、
彼の怒りにある種「水をさす」意味を込めて、「(僧侶のみならず)労働者だって、
「僧侶」よりひどい状況に置かれている場合だってあるんだよ」と言いたいのであって、
「いつの時だって」という副詞句は、決して「常に」という意味でなく、
「いつの時代でも、苦しむ<衆生>がいたんだ」ということを
「(僧侶たるもの)忘れないで欲しい」という願いとニュアンスを含意させて、
彼に一種の「利他心」をうながしたかっただけなのです。
前後の文脈と行間に、私の動機をよくお読みください。

また、「宗憲に<役僧>の規定をしたとしても体制に飲み込まれるというような意見」は、
完全にぐっちんさんの事実誤認です。もしこんな主旨の発言を私がしたんなら、
これまでに、CHINCHINさんは決して放ってはおかず、真向から反論してきたことでしょう。
私はこれまで、むしろこの逆の主旨のことをさかんに繰り返してきている筈です。
私の主張を、もう一度ここで確認しておきましょう。

まず、「宗憲に<役僧>の規定を」すべきで、そのために闘うべきです。
これは基本です(=<近代>の反復)。

また、これが実現するとせざるとにかかわらず、我々は大概何らかの形で、
最初から(国家と資本の)「構造」(注-<体制>ではない)に飲み込まれている本質だけは変わらないので、
例えこれが実現しても、それをもって「よし」としないようにしよう(=<近代>からの脱出)。
と、大略そう言っているのです。
いわば、あまりにも「あたりまえ」のことを言っていたに過ぎないので、
CHINCHINさんを半ばあきれさせ、最後まで苛立たせていたというわけなのでした。
CHINCHINさんは私の文章をおおむね汲み取って下さるのに、
どうしてぐっちんさんのところでは、そんなふうに解釈が変わってしまうのでしょうか?


ROMってた僕の感想です。 投稿者:おじき  投稿日: 6月22日(土)03時34分54秒

別にGenkoさんを恨んではいませんよ。あなたのカキコ読んで呆れてるだけです。
国家、資本主義、構造、などなどを悪の親玉に仕立てて、今の自分や社会の現状は
そいつらのせいやって責任転嫁してボヤいてるだけですやん、ほんまおもろないわ。
そんなことゆうててもGenkoさんの魅力がすたれていくだけなんやないかなぁ?
社会構造のせいで支店長が自殺した、借金が数千万ある、なんとかしたいんでしょ?
Genkoさんが何をどうしたいんか、<非近代>なんて抽象論じゃなく具体的に考えて
いきましょうや。あんたが西洋哲学、現代思想、日本文学などなどに明るい事はもう
ようわかりましたから、その豊富な知的財産を具体化し、現状を打破する案を書いて
ほしいんです。組織悪論や構造悪論はもう満腹なんです。


らくりんさんへ 投稿者:Genko  投稿日: 6月22日(土)02時50分28秒

アップ・ロードの件、了解致しました。
そういうことであれば、しばらく、我慢致します。


おじきさんへ 投稿者:Genko  投稿日: 6月22日(土)02時44分56秒

>Genkoさん、あんたがマイナス数千万から出発するのは、あんた自身が過去において
>享楽の限りを尽くし、バブリーな放蕩生活をしてたツケが回ってきただけですやん。
>それをしっかり見つめんかい!

もうこうなってきたら、まるで私怨のうさしばらしみたいな言葉の連続ですが、
そもそも私が貴方にそれほどの恨みを買うようなことを過去にした覚えがないのですがね。
私にしてみたら、まるで「ブルータスよ、おまえもか」という心境で、
昨日まで親交を暖めてきた親友に、突然手のひらを返されたような意外さですよ。

それに、少なくとも私は、貴方の人生の倍近くを生きてきたつもりです。
ご自分の主観で、私の<生>の表層部分をそこまで直接的に批評なさるのは、
そもそも失礼千万というものではありませんか?
貴方は、それ程のことを言えるまでに、かつて私の人生に立ち入ったことがおありですか?
第一、貴方は、何故にそれほどまでに、私の個人的な過去を詳しくご存知なのでしょうか?

まあ、私の場合は、確かにそういった要素が半分はあったことは否定致しません。
しかし、私の少なからずの周囲の同年代の元サラリーマン達の現状は、
私よりもっと(物質的に)豊かな生活をやっていたにもかかわらず、
必ずしも彼らの本意ではないところで、ある日突然、
解雇や希望退職の憂き目に遭遇しているのです。
彼らは、それまで続いてきた人生設計の<急転>を迫られるわけで、
私の業界の友人だったさる会社の重役や某有名企業の支店長などは、
残った借金額の負担の多さに耐え兼ねて、実際に列車に投身自殺してしまったほどでした。
それを「享楽の限りを尽くし、バブリーな放蕩生活」と非難されるのはご自由ですが、
戦後日本でこれまでそこそこ出世したサラリーマンなんて、欧米のそれに比べて、
例え一部上場系の社長であっても、その「豊かさ」のスケールがあまりにもチンケ過ぎます。
これでは、何十年も滅私奉公的に「会社」に貢献してきた彼らが、
あまりにかわいそうだし、浮かばれないではありませんか。

この度は、「それをしっかり見つめんかい!」とキツイお言葉を頂いておりますが、
私は貴方に己れの人生について「命令」される義理も覚えも全くないとしても、
それでは、私がまるで全く「見つめていない」みたいですね。
そこまで確信を持って私の個人的な心の内部まで観透せる貴方は、果たして何者なのですか?

また、何かある専門領域に明るかろう人が、その対象領域にかかわることを「論ずる」場合は、
自己にまつわることどもから一端離れないと、議論そのものが不可能になってしまいますよね。
前に出した事例で言いますと、私生活でいくら出鱈目かもしれない色川大吉でも、
彼の専門である「日本史」の学会では、歴史学的研究の成果発表は大いにして良いのです。
私が比較的明るかった「政治」的文脈でも経済学的文脈でも、
或いはある面での「現代思想」に関する文脈でも、たとえ私が今以上に「放蕩無頼」であっても、
私は貴方などに何と言われようと、これからも機会の許す限り発言し続けていくつもりです。
仏教徒だからとか、○○だからとかに関係なく、人は誰でも心に感じたこと、思ったことを、
黙って安全圏にいるよりは、こうした他者の非難を浴びてでも、やはり語るべきなのです。
だから私は、引き続きめげずに語ります。
もし私が沈黙を決め込むとしたら、その批判が、完全に当を得ている場合に限ります。


掲示板の表示について 投稿者:らくりん  投稿日: 6月21日(金)22時17分14秒

>おじきさん
いろいろとお気遣いありがとうございます。
掲示板の表示は自動改行になっていますので、
ディスプレイの解像度(800×600とか1024×768)と
表示に使っているフォントの大きさ、
ブラウザソフトの表示モードの選択、
Windowの開き具合
などいろいろな要素の組み合わせによってまちまちになります。

ただ、おっしゃる通り、読みやすさということで言えば、1行40字程度以内
ぐらいが読みやすいようです。
書き込み者が40字ぐらいで改行を入れるというのも一つの解決策では
あるのですが、
次々といろいろな人が出入りする掲示板では、
書き方を規格化するのはなかなか難しいようです。

一行が長すぎて
読みにくい場合は、窓をすこし絞り込んで1行40字ぐらいにするとか、
表示フォントを大きくするなどの工夫によって、改善できる場合もあります。
いろいろ読みやすい表示を試してみてください。


ほんまや 投稿者:ぐっちん  投稿日: 6月21日(金)21時36分00秒

 見にくい表示になった。


定型詩について 投稿者:ぐっちん  投稿日: 6月21日(金)21時35分05秒

 サント・ブーヴは、こう書いている。仮面舞踏会に入って行くときにはすべてが目新しく見える。しかし、いずれはこの目くるめく色彩の群れすべてに向かって「美しい仮面よ、私はおまえ
を知っている。」と言い得る時が来るものだ。(『婦人の肖像』)

 〈世界〉の入り口に立っているときは、〈世界〉は、その奥底に恐るべき魅惑を秘めた、欲望
の対象として現れている。だがいったんこの〈世界〉を通り過ぎてみれば、わたしたちはそれが
何であったかを言うことができるわけだ。

 この「通過」の経験は、そこを通り過ぎた大人にとっては、青年の〈世界を知りたい〉という
渇望に対する貴重な解答であるように見えてくる。だから、大人の、「美しい仮面よ、私はおま
えを知っている」は、彼が青年に対して優越感を持ってちらつかせたい〈真理〉のようなものに
なる。したがってこの〈真理〉がまた、大人の言説の欲望を強くそそるものとなるのだ。

 つまり、青春の喪失を自己哀惜の形で歌うことが一つのロマン主義的定型であるとすれば、そ
こを通過したのちに、「美しい仮面よ、私はおまえを知っている」と苦虫を噛みつぶすのもまた、ロマン的世界の挫折という〈物語〉的定型になり得るのである。


書き込み方について 投稿者:おじき  投稿日: 6月21日(金)21時01分59秒

この掲示板は書き込みスペースに全角横書きで44文字書けるようです。
しかし表示される段階で41文字目以降は自動的に改行されるようですので
たまに読みにくい表示になることがあるようです。できれば40文字目あたりで
改行して書き込めば読みやすい表示が出来ると思います。


再論・四海兄弟 投稿者:お留守居役様  投稿日: 6月21日(金)20時46分40秒

>敵じゃありません。四海兄弟、同朋(ともだち)です。

確信犯のようなので、再度申し上げます。
「地球は一家。人類は兄弟。お父さん、お母さんを大切にしよう。」と
同じ発想で、思想の論理構造が同一と思われます。
臣民は天皇の赤子である。
国家は親で、国民は子である。子が親を愛するのは当然である。
愛国心を持たないものは、非国民である。
(注:親と子の関係と国家と国民の関係は同じ関係ではありません。
   次元が異なります。
   「愛」は男と女の間の関係のことですから、国家とは次元が違います。
   異なる次元の理念を混在させるのは虚偽です。
   少なくとも、国民が国家を作ったのであって、
   国家が国民を作ったのではありません。)
「私」は「公」に優先すると考えます。
また、「四海兄弟」は、四海の内の者は兄弟であり、
みんな兄弟のように仲良くしよう、
という主張のようですが、そうではありません。
秘密結社が好んで「四海兄弟」と称したように、
きわめて排他的な仲間意識を表した言葉なのです。
それは、八紘一宇が世界を一つの家とすることであるにもかかわらず、
鬼畜米英と共存していたのと同様です。

ちなみに、5月9日に掲載した「共同幻想テスト」を一部修正して再掲します。

問い1 次のABCを価値の高い順に並べなさい。
A国家(四海) B家族(恋人) C個人(自分)

問い2 次のABCを大きい順に並べなさい。
A国家(四海) B家族(恋人) C個人(自分)

問い3 次のABCを発生が古い順に並べなさい。
A国家(四海) B家族(恋人) C個人(自分)

問い4 次のABCを価値の高い順に並べなさい。
A国政選挙に行く。 B家族(恋人)と遊園地に行く。 C昼寝。

正解は、全てB−C−Aの順です。
一部、C−B−Aも正解とします。


ノン・タイトル 投稿者:ぐっちん  投稿日: 6月21日(金)20時13分47秒

 もし社会科学的視点をもって本願とせば、
愚鈍下智の者は定んで往生の望を絶たむ。しかも智慧の者は少なく、愚痴の者は甚だ多し。

 『いのちを奪う原発』というブックレットの中にこんなお話が出てきます。
珠洲市の反原発運動の中でのこと。作業の調査車の前に、自分の身を投げ出してこういった
ばあちゃんがいた。「さあ、轢け。この身が轢かれることで原発が止まるならそれでよし。
こどもたちや、孫たちにこれで顔向けができるようになる」と。

 さて、このばあちゃんは「社会科学」なるものを学んで、こういうことをするのでしょうか。
「社会科学的視点」からこの言葉を発しているのでしょうか。答えは、ノーでしょう。
浄土に生きんとする願いを、踏みつけにするものへの怒りが、この行動を促しているので
しょう。

 再び、らくりんさんの文章『〈摂取不捨の論理〉と〈選別・排除・強制の論理〉』から。

  >いろいろな社会問題に関わる中で、「浄土に往生せんとする願いに対する妨害であるから
  >闘うのだ」と、こういう発想は私たちの中にはあまり明確に意識されていなかったのでは
  >ないかと思います。

 知識のある差別者は、もういらない。本願があなたの中でハッキリするか、どうかでしょう。

http://web2.incl.ne.jp/fujiba/goma/99haijo.htm


すかっとさわやか好青年 投稿者:ぐっちん  投稿日: 6月21日(金)19時55分05秒

 >モモさんへ

 アウト・ドア分野がお詳しいのではと、にらんでおります。あ、これも情報公開か。。。
それで、沢登りについてお伺いしたいのですが。ぐっちん、雨のあとの山に登って道が川状態
っていうのはよく遭遇しましたが。

 どういう装備でやればいいのでしょうか。たとえば近畿ではどこで楽しめるでしょうか?
よろしくご指導お願いします。


CHINCHINさんへ 投稿者:我苦生  投稿日: 6月21日(金)19時20分38秒

 >お好み焼どんぶりを発明したよォ〜 

 甘い、甘い。今は『たこ焼き茶づけ』の時代です。
 作り方。たこやきをソースなしの状態で買ってくる。で、それをご飯の上に載せ、だし茶をかける。紅しょうがを載せると、なおよし。きざみしばづけでも良。


お留守居役様 へ 投稿者:我苦生  投稿日: 6月21日(金)19時11分03秒

 >敵じゃありません。四海兄弟、同朋(ともだち)です。

 この言葉が嘘であろうが、無かろうが、私には関係ありません。なぜなら『好きな言葉』だから。だれがなんと言おうと、どんなにお偉い先生が言おうと、関係有りません。
 仏教の言葉であろうと、無かろうと、どうでもいい。

 >仲良し兄弟もいれば、憎みあっている、敵対している兄弟もいます。

 同じひとついのちを生きているから、関係している事実があるから、憎しみあったり、争う事も出来るのでは?べつに仲良くなくてもいい。ただ、敵にするのは違うと思う。敵という言葉から来るイメージは人にもよりますが。
 闘争堅固という言葉がありますが、仏教徒が殺しあうのは、変。
 法蔵菩薩の前の名前、無争(念)王。と、いう言葉。大好きです。
 大悲。という言葉も大好きです。
 
 私が、救われるのなら、それが仏教の言葉であろうと、なかろうと関係有りません。私は学者でありませんから。私にとって、仏語と、仏教の言葉とは違います。もちろん、違いを決めるのは、私です。
 だから、論語顔淵であろうが、善導であろうが、別にどうでもいい。
 ただ、指摘くださったことは、ありがたく感じます。また、ひとつ勉強出来た事は感謝します。なにぶん浅学なもので。
 お留守居役様 の仏教に引かれる所を、聞かせて頂ければ幸いです。お願いします。


お好み焼どんぶりを発明したよォ〜 投稿者:CHINCHIN  投稿日: 6月21日(金)17時00分31秒

<ヤクソウ>問題について<匿名>性の中でしかモノがいえないというのは疑問です。イノチはって自己開示してもこれでは・・・・。
名前と顔をだしてすでにこのような問題提起を何度もし、そのつど非難や、<匿名>のイヤガラセにさらされていますが、それを今になってあえて<匿名>で語る必然性を見出しえません。BBSの限界でしょうか?

>薄野高麗王さま

意味は了解しましたが、そのような論をすすめるのに、特定の個人を指名して、素性を尋ねる必要があったのかは疑念があります。これからの論の展開が分かりませんので現段階で抗議するにはおよびませんが。論そのものには好意的な感情をもっております。つづきを楽しみにしています。


>Genkoさま 投稿者:CHINCHIN  投稿日: 6月21日(金)16時25分11秒

その点はおっしゃるまでもなく、私自身が了解していることです。
その予防策もすでにとっております。(これ以上の具体的な話は↑のらくりんさんのお願いにもあるように慎重にならざるをえません。)

ご心配いただいてありがとうございます。しかし私としては、他人事ながらGenkoさんのことが心配で・・・・


三吉さんへ 投稿者:CHINCHIN  投稿日: 6月21日(金)12時46分46秒

>「錯誤的論理」「三吉のほうがドンキホーテ的論法」ということたが、
>これは「正当なる評価」なのか「個人への冒涜」なのか。

正当なる評価かどうかは断言できませんが、いみじくも三吉さんご自身が認めておられるように
>「複雑な現実諸関係」を生きられる方々すれば、「空論」ではあり
>ましょうが。。。
ということへの批判であって、個人の人格への冒涜では決してありません。

それをいいますならば、三吉さんの「あなたはえらぶりすぎる」との言はあきらかに私の論旨に対する批判ではなく、私の人間性そのものへのご批判だと理解しますが。
議論の際にこのようなことをされるのは、議論そのものの放棄であると考えます。私が尊大な態度であるとのご批判は、甘受するとしても、本旨からずれてこのような<捨て台詞>ともいえる発言でしめくくられるのは議論以前の問題です。




横レス 投稿者:らくりん  投稿日: 6月21日(金)11時00分44秒

>大悲さんは、寺院出身のようであられますから「寺族」でしょうけど
これまでのネットづきあいから得られた私の認識では、
大悲さんは、寺院出身ではなかったはずです。


>Genkoさんへ 投稿者:らくりん  投稿日: 6月21日(金)10時48分49秒

この掲示板は保存書き込み数に制限があるため、200件以前の書き込みは
消滅してしまいます。
ただ今のところ、洪水のように流れ去る書き込み保存を途切れさせないように
ダウンロードしていくだけで手一杯で、
ログ整理をしている精神的余裕がありません。
というわけで
過去ログの整理とアップロードはしばらくご猶予願います。


養子論 投稿者:モモ  投稿日: 6月21日(金)09時41分50秒

ぐっちんさんのご指摘の通り
「よくよく考えてみたら、ぐっちんの知り合いでもお寺に「在家」
から「養子」に入り、その後離婚。消息が不明というような人もいる。」

ウチの知人でも、養子に行くために京都の専修学院に行っている時に
結婚する予定の相手に好きな人がいて、その養子話がパーになったとか、
蓮如の御旧跡でもある大きなお寺に養子に行ったけど、「あんたは
外様やから」と、彼だけが出入り出来ない部屋があったり、何か無作法が
あったら「だから、在家は嫌や」と生え抜きのババアに嫌味ばかり言われたり。
ホント、人を育てるどころか、人を腐らせるような伏魔殿ですね。
ご門徒さんには愛想がよく、家では滅茶苦茶な人が多いものなぁ。
ある意味、そういう形で精神を保たざるをえないお寺ってナンなんだろうか?


サラブレッド論 投稿者:モモ  投稿日: 6月21日(金)09時33分21秒

真宗僧侶のサラブレッドとは……!? 投稿者:薄野高麗王

サラブレッドとはイイ得て妙ですね。すごく、ヨク分かります。
寺族であるか無いかでまず大きく違うし、そしてそのお寺の大きさ、
格がどうなのか、そして長男かどうかでまず違いますね。
それから、宗門の大学卒かどうかこれも何か大きいようですね。
阿弥陀経の速さはどうか分かりませんが、やはり無菌室で純粋培養
で育つと、外にでるとコンタミ(異種の菌が混じる事)してしまい
死んでしまう人が多いようですね。全員とはいいませんが。
何かハングリー精神がないから、欲しいものを手に入れるために
自分でバイトして苦労して手に入れることなしに、ナンでも
手に入る世界はホント珍しいですね。
ホント小生も、サラブレッドで無かったから見えてくる
世界に感謝しています。


雑感 投稿者:らくりん  投稿日: 6月21日(金)08時59分36秒

頭の中がぐちゃぐちゃになりそうですが、とりあえず興味深く読めている。


訂正 投稿者:ぐっちん  投稿日: 6月21日(金)04時03分23秒

 ずっと下の方にいってしまった「替え歌」について。

 「みうらじゅん」とあるのは「みうさじゅん」の誤りでした。また
 「奥村チヨ」とあるのは、「奥村チコ」の誤りでした。関係者の方々にはご迷惑をお掛けし
ました。

 権名林檎 とあるのは、誤りがありません。権(けん)です。権名林檎(けんなりんご)さん
です。


おおおっなつかし 投稿者:おじき  投稿日: 6月21日(金)03時34分54秒

僕は昔「競馬」と「仏教」で食うていきたいとずっと思ってました。
で「京都第4レースの勝ち馬における大乗菩薩思想」などという戯言を
大学の講義中によく書いてました。


ゴメンね 投稿者:おじき  投稿日: 6月21日(金)03時18分45秒

Genkoさん、あんたがマイナス数千万から出発するのは、あんた自身が過去において
享楽の限りを尽くし、バブリーな放蕩生活をしてたツケが回ってきただけですやん。
それをしっかり見つめんかい!
それに
>私は、個人(自己)と他の個人(他者)の、<関係>を駄目にしたと主張しているのです。
>市場社会の貫徹は、あらゆる領域に<売り−買い>という原則を不可視に介在させ、
>人間関係そのものに<商品化>をもたらしたことにあったのでした。
みたいな眠たいこと言いなさんな。あんさんには「友達」おらんのか?僕とぐっちんさんの
<関係>に<売りー買い>みたいな領域なんかあるかい!人間関係を<商品化>してるんは
あんたの脳みそじゃ。
>「個人的なことども」こそが仏教の視点である。
というから、僕はあんたの「個人的なことども」を問題にしてるんやで。

それから事務連絡、さっき宅急便でヘルメットをGenkoさんとこに送りました。
到着予定は22日の午前中です、料金は着払いで950円です。


薄野小魔王の説法の「二本の柱」 投稿者:薄野高麗王  投稿日: 6月21日(金)02時55分06秒

 「僧籍剥奪」より先にこのことについて書かせていただきます。
 薄野小魔王の説法の大本は何かと尋ねられると以下のように答える。
 東京優駿(日本ダービー)における府中(東京競馬場)の直線で最後に勝つのはサラブレッドの王である。これが第一の柱の内容。
 次に、「学問に王道はない」といわれます。「道」は無数にあります。
 ex.国道、道道、府道、県道、高速道路、市道、私道…。
 ex.書道、華道、茶道、剣道、柔道…etc.
 だが、「道」の中の「王」たる道、「王道」が存在するならば、それは「仏道」という道である。
 これが二本目の柱です。
 ちなみにこの「二本の柱」は深層意識の二種、即ち第一の柱は「末那識」の極致を、そして第二の柱は「阿頼耶識」を表現しています。
 それではまた。


あつあつあつ(高石太) 投稿者:おじき  投稿日: 6月21日(金)02時54分01秒

konegiさん、私は「自分が資本主義の権化でない」などと発言しておりません。
私の出遭った仏教は「私自身の生き方を常に問い続ける」というものでもあります。
個人の生活のあり方を問題にしない仏教なんて仏教とは言えません。そういう意味で
Genkoさんを批判したのです。資本主義や国家を悪の親玉として批判する事なんてもう
今更なんだかなぁって感じです。その悪の親玉を欲してるのは我々自身じゃないですか。
資本主義や国家、差別、戦争などという怪物を作り出しているのは、まさに私の煩悩
執著であり、それらを問うのが仏教でしょう。仏教を学んで耳が痛くならないなら、
その耳の痛みが自分の生活の中に生かされないのなら、仏教を学ぶ事なんて何の
意味もありません。ましてそんな己を棚に上げて資本主義や国家制度や権威権力「のみ」
に全ての責任を押し付けて、そいつらが駄目なんだって言ってても、ぐっちんさんの沸点が
上がる以外に何の面白みもありませんなぁ。


それに。。。 投稿者:ぐっちん  投稿日: 6月21日(金)02時42分55秒

 さっぱり皆さんは話題にされないけど、「大悲」さんのカキコが気になってました。
大悲さんは、寺院出身のようであられますから「寺族」でしょうけど、イマイチよく事情が
飲み込めませんが、決して「坊守」問題ではなかったはず。

 大寺・小寺。そして、離婚(?)されたため、坊守でも異姓衆徒でもなく、ヤクソウでも
ない立場になられた、と。よくよく考えてみたら、ぐっちんの知り合いでもお寺に「在家」
から「養子」に入り、その後離婚。消息が不明というような人もいる。こういうことも考える
といったい「お寺」という世界は何なのだろう。伏魔殿かいな?と思ってしまう。

 お寺じたいが、封建制社会の遺物みたいなもので、「近代化」が必要だとぐっちんは思ってる。


Genkoさんへ 投稿者:薄野高麗王  投稿日: 6月21日(金)02時29分14秒

 >サラブレッド発言について 投稿者:Genko  投稿日: 6月20日(木)23時06分53秒

>CHINCHINさんの次のご質問へのお答え。

>>Genkoさんは薄野高麗王さんの態度をどうお考えになられますか?

そうですね。その「サラブレッド」発言については、
私は彼のそれまでのカキコの論旨の連続性を念頭においてますから、
基本的にネガティヴなご指摘であったろうと受けとめて解釈していました。
つまり、われわれが「サラブレッドでない」から、逆に良かったんだという意味です。
確かに不用意な、誤解を誘う表現だったかもしれませんが、
私はむしろ、彼の教団裏面史に学ぶところ多く、その芸風に魅せられていましたから、
あんまり気になりませんでした。
 まず、わたしが一人言の如く書いているのは「教団裏面史」ではなく、いまのところ「表」の範疇ですよ。わたしの文章を好意的に評価していただいたことについては光栄に思います。つまり、「宗政史についての一般教養」も、真宗僧侶のサラブレッドレースのハイレベルクラスにおける「競走科目」の1つに含まれてくるでしょう。
 それと、「サラブレッド発言」についてですが、先の書き込みから、GenkoさんとCHINCHINさんが「真宗僧侶のサラブレッド」ではないとわたしは考えていることは確かです。ただ、わたしが「サラブレッド」という語を用いて如何なることを検証したかったのか、その理由は真宗僧侶が身分の貴賤によって差別されることがあっていいのか否か(もっと考えると、身分の貴賤の存在そのものも問われることになる!?)、具体的に考えると、「ヤクソウ」や「一般衆徒」は真宗教団によって擁護されない身分であっていいのか否か、この点についてです。
 今度は、「大谷派僧侶が僧籍を削除・剥奪・またはそれに類する行為をされた例」について検証したいと思います。


>Genkoさんへ 投稿者:ぐっちん  投稿日: 6月21日(金)02時19分35秒

 私の義父は、ある商店街で店を35年間にわたって経営してましたが、どんぶり勘定のワンマ
ン経営がたたり借金を抱え、倒産しました。更に帳簿もええ加減な付け方でどうしょうもない状
況でした。(もう十年近くになるか。。。)で、困ったすえ何を思ったか、私に相談を持ちかけ
ましたから、知り合いの弁護士事務所へ一緒に行って話し合いました。

 その後、ひとりで2・3回行ってすっきりした顔をしておりました。現在も別に逃げ隠れるわ
けでもなくコツコツ働いて少しづつ借金返しております。Genkoさんが再三、借金の問題を
持ち出して自分の状況は苦しい、とおっしゃりますが、誰しも何がしかの問題を抱えて右往左往
しているものです。で、一人一人がまたその荷を背負う忍耐力も違う。ある人には、どうってこ
とないように見えることでも当事者にはひどい重荷だったりする。

 Genkoさんは弁護士やらとご相談になられたのですか?されど、にっちもさっちもいかず
万策尽きて途方にくれてヤケになっておられるのか、それとも月額18万円でしたっけ?それを
コツコツ返せば、ヤクザに追われるでもなく生きていけるのでしょうか?そんなことほっとけ、
プライベートな問題じゃい!といわれても、Genkoさんの方からその話題を出されています
のでこちらは、イライラしっぱなしです。

 ヤクソウ問題は、わたしにとっても大きな問題でした。そして、今もこうしてトラブルを抱え
るヤクソウさんがおられるから、わたしだけが辛抱すれば終わり。あるいは、今はもう関係ない
とは、いえない。そこで、いろいろ無い知恵しぼり解決に向け意見を交換しているわけですよね。

 それをGenkoさんのように、いつの時だって「労働者」の方が「僧侶」よりひどい状況に
置かれているとか、宗憲に「役僧」の規定をしたとしても体制に飲み込まれるというような意見
を書かれたら、ぐっちん「この人はいったいどないなってんねん?」と思います。

 いまGenkoさんが抱えてる問題を少しでもどうにかしようということに関して<国家>と
か<近代>を学問的レベルで「乗り越えた」とか「乗り越えられん」とか、語り合うことが本当
にメリットがあるのかどうか。そういう議論でもやっとかな、どうにもならん、というような状
況であるのか。それとも。。。


らくりんさんへ 投稿者:三吉  投稿日: 6月21日(金)02時18分23秒

いわんとされることは、了解しました。
利敵行為というのは、異存はないのです。

ただ、僧侶間の「私物化」批判の原理は「娑婆の論理」ではなく、
「仏教の論理」が妥当なのではないかと、私は考えています。

どなたかのおっしゃっていましたように私は、「当事者性」を
有していませんし、外部から伺い知れない「現実」はしりません
ので、出だし「傍観者の戯言」とアリバイ作りはしておりますが、
それにしては、しゃべりすぎたように思います。

「複雑な現実諸関係」を生きられる方々すれば、「空論」ではあり
ましょうが。。。
究極の「私物化」批判原理は、釈尊のサンガ内経済の完全平等
という「再分配方法」であると私は思います。

それでは、例のごとくしばし雲隠れいたします。


真宗僧侶のサラブレッドとは……!? 投稿者:薄野高麗王  投稿日: 6月21日(金)01時55分46秒

 まず、書き込みが遅れたことを謹んでお詫びします。
 さて、「真宗僧侶のサラブレッド」たる条件について考えてみたいと思います。
 まず第一に、宗門内において「強大な力」を持つ寺院の長男或いは嫡子であること。
 第二に、宗門(立)大学※をできるだけ早く卒業して、「教師資格」を取得していること。
 第三に、阿弥陀経を7分で読めること(漢音に限らない)。
 ※宗門大学とは、この場合龍谷大学(西)、大谷大学(東)を指します。
 他にも条件は定められるかも知れませんが、基本的にはこの3点だと思います。このように愚考すると、殆どの真宗僧侶が「競走除外」されてしまいます(条件を厳しくされるにつれてわたしも対象になる!?)。
 重ねて申し添えますが、真宗僧侶のサラブレッドでないからといって真宗僧侶として大成しない、或いは成仏しないということはあってはならないしありません。
 ただ、真宗教団団体の宗門法規は、基本的に真宗僧侶のサラブレッドの権利と義務を護持するためにできています。すると、真宗僧侶のサラブレッドの「レース」の敗者、「競走除外」された者は差別されていることになります。これでは、涅槃経の「一切衆生悉有仏性」の理念にも反することにもなってしまいます。
 どうしてこんなシステムになっているのだろうか……。大谷派に限定して愚考しますと、やっぱりあの「巨大な3本柱(相続講・院号法名・法揄チ算)」について検証する、ということに行き着く…ような気がいたします。ひとまずここまで。 


長文ごめん 投稿者:三吉  投稿日: 6月21日(金)01時27分31秒

H大乗非仏説は、三度唱えられたと私は認識しているのですが、一度目は、大乗興起した
とき。竜樹は、「経典における種種の矛盾は、世間の言葉にあわして語られているから
で、真実の立場からいえば、矛盾はない」と中論で展開し、世親が「釈軌論」で、端的に
「君たちの伝承に大乗がないといって、大乗が仏教じゃないというならば、大乗の伝承に
君たちの伝承はないから、君たちの言う仏教も仏教ではない」と。二度目は、江戸時代、
富永さんが。これは無視された。貴兄のおっしゃるのは三度目ですので、その論法は強引
すぎると思いますが。。
I「親鸞の時代には大半の経典が真の仏説として捉えられており」とのことですが、前秦
の道安は、著作「綜理衆経目録」で疑経録を作ってますし、唐の時代には「疑惑再詳録」
に14部19巻。「偽妄乱真録」には393部1041巻挙げられてますので、偽経はいっぱいあった
と、親鸞はしっていたと思いますが。。。
J「親鸞の読み替えは釈尊の言葉にたいする批判の意味も含まれている」とのことです
が、疑経とされなかった大蔵経を釈説と思ったからこそ、教行信証で大乗の涅槃経を引用
して、「如来の所説は十二部経なり。ただ六部を信じて、未だ六部を信ぜず。このゆえに
名づけて「聞不具足」とす(略) 論議のためのゆえに、勝他のためのゆえに、利養のための
ゆえに、諸有のためのゆえに(略)」といわれているのではないかと。Konegiさんの「どこ
まで自分の了見を除いて理解する事なのです。自分の事を権威化する為、あるいは、自分
が心地いい為に仏教の教えを聞いていませんか。」は、この部分を踏まえてのことではな
いかと私などは読み。。「うぅぅぅ、耳が痛い」と感じていたところでした。
読み替えは、「論理」としては、「顕彰隠密の義」なのではないてしょうか。
「読み替え」=「釈尊批判」というのがわからない。
K「排他的原理主義の立場」「タリバンの思想の仏教版」といのもわからない。

誠実な回答をというのは、ウソで。。。
以上ネチネチとすいませんです。

言いたかったことは、どうも貴兄とは違う仏教理解を私がしているということです。
それと私は人様にいえる立場でもないですが、あえて。。。
「あなたはえらぶりすぎる」


では、私も聞いておこう(笑) 投稿者:三吉  投稿日: 6月21日(金)01時26分17秒

では、私も聞いておこう(笑)
貴兄の論は難解すぎて私には理解不能ですから。。。優しく噛み砕いていただくと
助かる。
「錯誤的論理」「三吉のほうがドンキホーテ的論法」ということたが、
これは「正当なる評価」なのか「個人への冒涜」なのか。

@<私の視点はいつも釈尊在世当時の社会状況や釈尊のそれへの対応に言及>
とのことだが、例えばここの過去ログhttp://web2.incl.ne.jp/fujiba/ban_log/2k-4-13_5-10.htmの:04月27日(木)21時14分23秒の文章では「釈迦在世当時」から論を展開して
ないので、<いつも>という評価は、残念ながら事実誤認だと私はおもうが。。。
A<それをそのままそっくり現在にあてはめる立場>だとのことたが、
私は直前のカキコでは、読み取りにくかったかもしれないが、「釈尊」は、完全
に差別を克服できていないが、とはいえ「僧団内経済は共産制」といってるわ
けで、「そっくりそのままあてはまてない」と思っているのですが、貴兄は、何
をもってそういわれているのか
B<表面的な歴史的事象>とはなにか。
「金銭浄」なのか、「僧団内共産制」のなのか、別の何かか。
C明確にはまだ展開していないが、私は、時代超えた(つまり普遍性)として、
「僧団内共産制」(再分配は完全平等)を「願い」として持っているのですが、
これは、あなたからすれば「錯誤的」なのか。
D「釈尊の行動や言葉をそこまで絶対化」とのことだが、私の想いとしては、
釈尊を例示しているだけであって、(古きよき仏教教経済とは、釈尊のコミューンなのかと
確認の意図。であれば、賛成だが、既に、マンガと批判された。)心中では絶対化している
が、文章上は未展開だと思うが、どの辺をもって、絶対化といわれているのか、明示され
たい。
(釈尊を絶対化しているという評価は、私に対する「誤認」だと思っている)
E「世界のラディカルな仏教徒」とは、具体的に誰と誰のことですか?
F<釈尊を釈尊たらしめた「法」>とはなにか。
G<仏教の再解釈>とのことだが、らくりんさんにしろ、誰にしろ、つまり、私にしろ「ド
ンキホーテ的」と貴兄がお感じになられようと、「再解釈」ではないのか。「再解釈」と
「ドンキホーテ的」の差別の価値判断基準は何なのか。


CHINCHINさんへ 投稿者:Genko  投稿日: 6月21日(金)00時33分24秒

それでは。去る6月18日に私がらくりんさんへの返答として提出した以下の問題については
如何ですか?

><主>が<奴>なくして存在出来ない以上、<奴>がその<主>に対して、
>生存を賭した命懸けの闘争の末にようやく勝利して獲得できるものとは、やはり、
>新たな<奴>なくして己れの存在が担保されない<主>という座に過ぎない、というわけです。
>それに対して、私が力点を置いて示唆したかったのは、
>まずこのことの限界性を十二分に認識しつつ、この陣地戦を現場において戦い抜き、
>しかも同時に「こうした「<近代>的アポリア」に陥ることなく、
>軸足を<非-近代>に立脚した上で、改めて「問いを立て直す」という、
>「もうひとつの複眼的視角」を備えることだったのでした。

私のCHINCHINさんに対する「批判のモチーフ」は、何よりもまず、
より「したたか」になって頂きたかったが故に、方法論的補強を願っての故です。
目前に(どんな人格者も指さない)<構造>として立ち現れる<敵>に、
貴兄自身が「取り込まれない」ように、充分な事前の理論的整備を図って戴きたかったからです。
むしろ私がしていたのは、「批判」というより、
いわば「サポーターによる応援」といった方が正確でしょう。


ぐっちんさんへ 投稿者:Genko  投稿日: 6月21日(金)00時08分37秒

>そ、勇名果敢なことおっしゃっているけど、「営業」って<近代>で<資本主義>そのもの
>なんじゃない?<カイシャ>に入れなかったら、国保や国民年金に加入せなしゃあないやろって
>思う。うちは生活保護世帯じゃ!!!立派に<国家>のお世話になっております!!

私も、今後莫大な借金を返済し、しかも己れ自身の「生活」を成り立たしめていくからには、
これからもずっと(今までと同じように)、ご多分にもれず、
<資本>や<国家>のお世話になっていかなくてはなりません。
好むと好まざるとに関わらず、少なくともこの時代の<国民>として登録された以上、
これは宿命的な現実です。
誰一人として、この現実から逃れることは出来ません。
もし私が、こうした立場になかったら、この問題を自己の主題とすることは、
一切なかったでしょう。私もまた「当事者」の一人なのです。
しかし、現実の中で当事者たらざるを得ないとしても、
こうした<関係性>や<構造>の呪縛から、必ずしも私一人だけでなく、
出来れば全員が逃れゆくすべについて考えを深め、問題にし、皆さんと議論していくことは、
そんなに意義のない無意味なことなのでしょうか?
私とて例外ではなく<資本>や<国家>に世話になりながらも、
それらのありように苦しんでいるちっぽけな存在の一人であることには違いないのですから。


<近代>論議について へのレス 投稿者:CHINCHIN  投稿日: 6月20日(木)23時53分51秒

それについては了解しました。


<近代>論議について 投稿者:Genko  投稿日: 6月20日(木)23時48分27秒

CHINCHINさんへ。

>三吉さんの論法のほうが、よっぽどドンキホーテ的じゃないですか?そこには何もふれないで、>私の考えのみ時代錯誤的といった指摘は腑におちません。

それは、いささか弁解めきますが、貴兄が多くの場合、
私を名指して質問し、議論のターゲットにしてきたことが主たる原因です。
私も生身の人間ですから、ここに参加される方のすべてのカキコ全部に、
いちいち細やかに目配りが効かないことは、往々にしてありますから。


>お詫び(CHINCHINさんへ)  投稿者:CHINCHIN  投稿日: 6月20日(木)23時46分14秒

ご理解いただいてありがとうございます。
公のサイトで言えない色んな事情もありますのでそこに触れることはご容赦ください。


<ヤクソウ>問題での<近代>論議について 投稿者:CHINCHIN  投稿日: 6月20日(木)23時42分41秒

それは理解いたします。
しかしながら、その問題を<ヤクソウ>問題の解決への方法論をめぐる議論にまで持ち込んだことを批判しているのです。その議論の結果、なにか<ヤクソウ>問題で得るものはあるのでしょうか?
わたしは、以前にも申し上げた通り、<近代>という問題について(その問題に限定して)Genkoさんと議論を深めることにはその意義深さを認めております。


お詫び(CHINCHINさんへ) 投稿者:Genko  投稿日: 6月20日(木)23時41分07秒

>Genkoさんの事実を提示すれば済む話であって、私と比較することはないではないですか?

そうですね。貴兄の許可なく、個人のプライバシーに触れかねない事態を、
勝手に「邪推」して、しかもどうせHNだからと名前まで特定してしまったことは、
完全に私のミスでした。ここにお詫び申し上げます。すみませんでした。


CHINCHINさんへ 投稿者:Genko  投稿日: 6月20日(木)23時35分57秒

私は、このサイトには、去年から参加しております。
一回一回のカキコには、必ず以前からの<連続性>を持たせて、論旨を展開してきたつもりです。
そして、その都度己れの「発言」には、私の「個人的責任原則」を賭けて、必死の思いを込めて、
主題の統一性を保持せしめんと努力してきたつもりです。
従って、「いきなり<近代>の問題といった大きな問題から」入った事実はありません。
当時の自分自身の周辺問題から始まって、あくまで、以前からの流れを継承しながら語っている。
<近代>の問題性にしても、CHINCHINさんの参加される遥かに以前から、
しばしば触れ、ここに呈示しておりました。
そうして、ぐっちんさんも、ある時期は、
私のそうした議論に、ある部分で少しくつき合ってくれてもいました。

私がCHINCHINさんとの議論で、そのことをとりわけて前景に出したのは、
貴兄が、その問題域に詳しく、実りある議論が出来る方だと判断したからです。


ただ、私の表現が舌足らずだったせいか、文章がヘタなせいか、はたまた頭が悪いからか、
問題が大きすぎてここにまとめて全部を明らかに出来ないもどかしさも手伝って、
おいおい手を変え品を変え、小出しにせざるを得なかったと言うべきでしょう。
ですから、私にしてみれば、少しも「いきなり」ではなかったのです。



ちなみに 投稿者:CHINCHIN  投稿日: 6月20日(木)23時31分54秒

>CHINCHINさんらは目下、生存のゼロ次元からの出発であるかもしれませんが、
>私の方は、マイナス数千万円次元から再出発しなくてはならないのです。

という部分が<比較>だといっています。


比較について 投稿者:CHINCHIN  投稿日: 6月20日(木)23時12分03秒

Genkoさんの事実を提示すれば済む話であって、私と比較することはないではないですか?


Genkoさんへのお答え 投稿者:CHINCHIN  投稿日: 6月20日(木)23時10分33秒

具体的問題を考えるについて、いきなり<近代>の問題といった大きな問題からはいらないということです。Genkoさんの借金も、資本主義が崩壊すればチャラですが、こんな話は、なんの具体的解決は生み出さないじゃないですか。
私の考えをドンキホーテとおっしゃいますが、三吉さんの論法のほうが、よっぽどドンキホーテ的じゃないですか?そこには何もふれないで、私の考えのみ時代錯誤的といった指摘は腑におちません。げんに、私の提示した<近代の反復>以外に具体的方法がないことは、あなた自身も認めておられましたよね?それは私達の時代で考えうるベターな方法だという認識をお持ちのはずなのに、なぜ、それがドンキホーテ的といわれるのか?そのようなGenkoさんの批判への反発からでた言葉です。


比較でなく事実 投稿者:Genko  投稿日: 6月20日(木)23時09分15秒

>Genkoさん、逆境を比較するのはやめましょう。
>不幸自慢対決にしかなりませんよ。

不幸を自慢したいのではなく、また「比較」しているのではなく、
単なる「事実の指摘」です。
何事であれ、事実は伝わらないより、伝わった方が良い、という私の信念からそうしています。


サラブレッド発言について 投稿者:Genko  投稿日: 6月20日(木)23時06分53秒

CHINCHINさんの次のご質問へのお答え。

>Genkoさんは薄野高麗王さんの態度をどうお考えになられますか?

そうですね。その「サラブレッド」発言については、
私は彼のそれまでのカキコの論旨の連続性を念頭においてますから、
基本的にネガティヴなご指摘であったろうと受けとめて解釈していました。
つまり、われわれが「サラブレッドでない」から、逆に良かったんだという意味です。
確かに不用意な、誤解を誘う表現だったかもしれませんが、
私はむしろ、彼の教団裏面史に学ぶところ多く、その芸風に魅せられていましたから、
あんまり気になりませんでした。


(無題) 投稿者:CHINCHIN  投稿日: 6月20日(木)22時58分57秒

Genkoさん、逆境を比較するのはやめましょう。
不幸自慢対決にしかなりませんよ。
反論はあえてしないので、とにかくそういうことはやめてください。


CHINCHINさんへ質問 投稿者:Genko  投稿日: 6月20日(木)22時57分35秒

それと、あなたのおっしゃる「ぐっちんさんのような視点」て、なんですか?


CHINCHINさんへ 投稿者:Genko  投稿日: 6月20日(木)22時55分32秒

>Genkoさんにも少しぐっちんさんのような視点で考えていただきたいとも思います。

とおっしゃいますが、そうしたくとも、
ぐっちんさんは、以前から、私からの質問に対して、一貫して応答してくれませんから、
問題の接点が明らかにならないし、議論が前に進みません。

それと、私を名指しで批判してくれませんから、
私が矢面に立っていることが、推測の域を出ず、100%確定的でない。
だから私は応じようがないのです。


(無題) 投稿者:CHINCHIN  投稿日: 6月20日(木)22時50分38秒

Genkoさんは薄野高麗王さんの態度をどうお考えになられますか?


おじきさんへ(2)  投稿者:Genko  投稿日: 6月20日(木)22時48分32秒

>「仏教者に社会科学的視点を」というのもいいけれど、
>「自分を見つめる」という仏教者の視点を忘れたくはないなぁ。

これも、今までの私のカキコを再読下さい。
「個人的なことども」こそが、仏教の視点であり、認識の出発点であるということは、
以前に私が再三にわたって強調してきた主旨です。
しかし、私が言いたかったもうひとつの視点は、その「私」性の内部に、
今度は篭ってしまっては、政治も経済も文字通り「私」自身の置かれた世界内状況も、
逆に見えなくなってくる、といったことです。


どうなったの? 投稿者:CHINCHIN  投稿日: 6月20日(木)22時46分47秒

>薄野高麗王さま

あなたは、私やGenkoさんの素性をたずね、その後、「サラブレッドでない」などと、聞き様によっては個人への冒涜ともとれる言葉を残し、その意味も明らかにすることもなく、姿を消してしまいました。
このようなことが、許されるのでしょうか?納得のいくレスがいつまでもない場合、私は一方的に侮辱されたと理解します。
早急に、誠意のあるご回答をいただけるものと信じております。


おじきさんへ 投稿者:Genko  投稿日: 6月20日(木)22時36分11秒

>資本主義を批判しても、実のGenkoさんの生活ぶりは、資本主義の権化、
>余す所なく資本主義の恩恵を享受してらっしゃいますよね、故に説得力ゼロ。

おじきさん。人を批判するのも大いに結構ですが、
その前に、相手の文章を穴のあくほどよく読んで下さい。

私は、同個所において、「・・・(世界、人間<関係>、自然環境、その他)を、
駄目にした」と言っている筈です。
何も今日びでなくとも、近代以降、人は基本的にこの<関係>性から自由になれないのです。
資本主義の<恩恵>を何らかの意味で受けない個人など、この世にいません。
商品社会が全面化した社会では、諸個人は必ず<消費者>として立ち現れます。
<消費>とは、<恩恵>のことでもあります。
具体的な人間個人を駄目にしたかどうかは、私が何も全員を見てきたわけではないので、
判断できません。
私は、個人(自己)と他の個人(他者)の、<関係>を駄目にしたと主張しているのです。
市場社会の貫徹は、あらゆる領域に<売り−買い>という原則を不可視に介在させ、
人間関係そのものに<商品化>をもたらしたことにあったのでした。

あなたが外観的に私の生活を「贅沢」とみなそうが、それは主観的には自由ですが、
私の方は主観的には生涯最大の「窮乏」生活であることには何ら変わりはありません。
CHINCHINさんらは目下、生存のゼロ次元からの出発であるかもしれませんが、
私の方は、マイナス数千万円次元から再出発しなくてはならないのです。


>ヒロへロさま 投稿者:CHINCHIN  投稿日: 6月20日(木)22時30分57秒

浄土宗の状況についてもう少し詳しく教えていただけないでしょうか?


らくりんさんへ 投稿者:ヒロヘロ  投稿日: 6月20日(木)22時21分19秒

それは気のせいです。
私は三吉さんに対して晴らすべき鬱憤はありません。まして敵などと考える事はありません。
彼のとの2ch、その他でのお話をここに持ち込むつもりはありませんが、卑怯な遁走の性癖
の持ち主ならば、見かけたときに咎めるべきでしょう。

ニフティでの私をご存知の方なら、哲学、宗教学、仏教学、浄土学では三吉さんなど相手で
はないことをよくご理解いただいていますが、私は彼を諭すつもりなのです。


>ぐっちんさま 投稿者:CHINCHIN  投稿日: 6月20日(木)21時28分46秒

>CHINCHINさんへ 投稿者:ぐっちん  投稿日: 6月19日(水)03時26分28秒 へのレス

遅くなりました。
私見ではお寺そのものがNPOだと思っていますが、現実は甘くないですから・・・
お寺に併設したNPOってのはたしかに面白いですね。
私達がかかえる問題はホントいっぱいあります。これにどう関われるか?いつも考えています。
NPOの経営について、『非営利組織の経営』(P・F・ドラッカー著〜ダイヤモンド社)は必読書です。ただしアメリカ式なので、日本にあわせたアレンジが必要ですが。
このドラッカーという経営学者のおっさんは、自分の所属する教会に、もっと効率のよい、成果重視の経営をやれ!といつも喧嘩しているというおっさんです。仏教書ばっかり読んでると、見慣れない<勝つ>とか<リスク>とか<市場>とかといった言葉が多数でてきますが、NPOも本格的にやるとなると、ビジネスをはじめるような気持ちと態度が必要なようです。
娑婆の活動はやはり娑婆を背負うものなんでしょうかね?

7月6日、いい天気になるといいですね。
それではまたお便りします〜 
ぐっちんさま〜  貧給


>ぐっちんさま 投稿者:CHINCHIN  投稿日: 6月20日(木)20時56分49秒

ちょっと言い過ぎのような・・・・
しかし、これはあくまで個人的な感情ですが、Genkoさんにも少しぐっちんさんのような視点で考えていただきたいとも思います。


今更ながら・・・ 投稿者:CHINCHIN  投稿日: 6月20日(木)20時33分57秒

人指を以って月を指し以って我に示教するに指を看視して月を視ざるが如し
(大智度論巻九・大正25の125a)


仏教女性学 投稿者:CHINCHIN  投稿日: 6月20日(木)20時21分54秒

KONEGIさんが示したリンクの先にこんなんがありました。
韓国ではこんな状況なんて!!サッカーだけやないっすね〜

http://www.josei.com/bwo/sae-deung2_2.htm


四海兄弟 投稿者:お留守居役様  投稿日: 6月20日(木)19時54分51秒

>敵じゃありません。四海兄弟、同朋(ともだち)です。

「地球は一家。人類は兄弟。お父さん、お母さんを大切にしよう。」と
同じ発想で、思想の論理構造が同一と思われます。
「四海兄弟」は、論語顔淵「四海之内皆兄弟也」から出た言葉で、
仏教(仏の教え)ではありません。
「四海」と「兄弟」と次元が違うものを短絡するのは詐術と言えます
仲良し兄弟もいれば、憎みあっている、敵対している兄弟もいます。
「四海兄弟」という言葉には、「兄弟」のリアリティーがないのです。
つまりは、嘘の言葉です。


エロ集団アルカイ〜ナ 投稿者:CHINCHIN  投稿日: 6月20日(木)19時51分14秒

>娑婆社会における奴隷性については、批判の視座を持って
>ませんでした。奴隷は、雇い主の許可なしに出家できませんでした。教団が
>いれませんでした。(許可貰ってから来い、と)

三吉さんの視点はいつも釈尊在世当時の社会状況や釈尊のそれへの対応に言及し、それをそのままそっくり現在にあてはめる立場です。ヒロヘロさんはこれを「本質論」とおっしゃっていますが、
わたしは、表面的な歴史的事象を普遍化するという錯誤的論理としか思えません。
釈尊の行動や言葉をそこまで絶対化するのが果たして仏教なのか?という疑問をいだかざるをえません。KONEGIさんの女性への釈尊の差別性への指摘もしかり、世界のラディカルな仏教徒は釈尊を釈尊たらしめた「法」によって、仏教の再解釈を試みています。
このような手法は実は親鸞がとった手法でもあります。親鸞は経典を大胆に読み替えることによって、仏教の真精神をその時代において顕そうとしたのです。近代仏教学の成立によって、大乗非仏説がとなえられましたが、親鸞の時代には大半の経典が真の仏説として捉えられており、親鸞の読み替えは釈尊の言葉にたいする批判の意味も含まれていることは想像に難くありません。
何がなんでも釈尊の言葉や行動にとらわれる立場は今日の時代状況をふまえた新たな仏教理解の世界的趨勢に逆行するものであり、排他的原理主義の立場です。言うなれば、タリバンの思想の仏教版です。

<おことわり>Genkoさんに無許可でGenkoさんご発案のタイトルを用いましたこと、ご了承ください。



注釈 投稿者:konegi  投稿日: 6月20日(木)18時04分38秒

>果たしてお釈迦様が言う事は全てが正しいのでしょうか。それに関して、
>女性である私は多いに疑問を感じるのです。

↓参照

http://www.josei.com/bwo/sae-deung1.htm


つづき(おじきさんへ) 投稿者:konegi  投稿日: 6月20日(木)17時53分11秒

自己の閉ざされた世界を問うという事は、究極のところ宗教にしか出来ない事です。
しかし、その宗教自体、私は仏教教団に属していますので、あえて仏教を問うのですが、「自己内省の名」のもとに、どれだけ多くの差別が肯定されてきたかと、思うのです。
例えば、女性差別の場合だと、自己内省的立場からすると「私は女性差別をしない」と言ってしまえば、それで、その人の中では差別解消なのです。その結果、その人の行う無意識的な行動は自分の主張である「女性差別しない」というものに消されて、何ら、問われず、この事により例え差別を受けた人が訴えたとしても、のれんにうで押しで、「私は差別しないから差別しない」という所で差別者から差別を受け放題と、いう事により、被差別者は陰で泣くしかないのです。
しかし、社会科学的な知識があれば少しは、状況的変化も生じてくるのではないかと思うのです。
社会全体を包括的に見る視点がなければ、めまぐるしく変化する現在において、その道を見出す事は困難ではないでしょうか。お釈迦様は、すべてを解決してくれてはいないのです。
ただ、人間が苦しめられている状況に対して、抜け出し、共に全ての生き物が生きる世界という方向性を提示してくれただけなのです。私達自身が、浄土というものをよりどころとし、生き、その中で様々な思索をしていく、その過程が大事ではないのでしょうか。何度もいいますが、
「お釈迦様はこうだから」では、解決しないのです。

 私は、Genkoさんの議論に対して疑念はあります。ただ、恐らくそれは、おじきさんのいう「内省」をGenkoさんは社会科学的方法論を用いてしているのでしょう。
ただ、一点、Genkoさんと同意見なのですが、僧侶の社会科学的視点は必要だと思うのです。
僧侶自身の社会科学的視点の欠落には、私自身、ずいぶん苦しめられました。
つまり、さっきから何度も言いますが、「私は差別しないからいいんだ」という僧侶達に無意識の差別によって私達女性は苦しめられてきたのです。差別からの解放を願うのが宗教ではないでしょうか。今の時代、昔のような単純な社会ではないので、社会科学的の視点がなければ、社会を問う事は非常に難しいのではないでしょうか。その視点から、もっと仏教自身変化があると思うのです。

 それから、「Genkoさんの生活が資本主義の権化なので、説得力がない」というのは、この場で言うのはふさわしくない事だと思うのです。個人の生活のありかたを批判するような論拠で、その人が言う事の全てを否定する事はできません。それを言うのなら、もし、私があなたを知っていて、私もあなたのありかたを問いましょう。どんな気持ちですか。それから、個人のプライベートを連想させる事をいう事はどうでしょうか。あなたが、どんな人かよく存じませんが、もしされたら嫌でしょうね。
そこの所は、「内省」ではどうなのでしょうか。


おじきさんへ 投稿者:konegi  投稿日: 6月20日(木)17時52分36秒

おじきさんの、Genkoさんに対する反論に対して意見を述べさせていただきます。

 まず、おじきさんは、Genkoさんの生活に対して、資本主義の権化とご指摘さていましたが、では先進国に居住する人間において、資本主義の権化でない生活をされている人間は、存在するのでしょうか。「私は違うと」おじきさんは思われますか。

 だとしたら、平生の生活を、よく見直してみてください。
日常生活において、おじきさんが享受されている食品や、日用品やお酒などの様々な物は、実は先進国が資本によって、貧しい国々の人の自然や物を奪って成り立つものであります。
では、一体どういう根拠で私がこのような事を言うのか、少し考えれば分かる事ではありますが、さらに分かりやすく例を出して考えてみます。

 この例は「なぜ南は飢えるのか」という日本ユニセフの本からの引用です。
たとえば、日本に住む人が一ヶ月に100グラムの豚肉を余計に食べますと、年間12万トンの豚肉が必要です。その結果、90万トンの飼料用穀物が必要になり=インド人400万人の一年分の食料に等しいそうです。しかし、実際には日本にはアジアの100万人の一日の食料が東京都では一日で捨てられています。今の日本は、買うお金があるから、必要以上に買い、必要以上に消費しています。その結果、貧しい国々の人々は買うことができないのです。
今の日本現状は、このような現状なのです。

 従って、このような社会的実情より、おじきさんがどう思われようとも、おじきさん自身も資本主義権化の中で生活しているのです。おじきさんは、それでも、「私は違う」と思いますか。
私達の生活は、その殆どが資本による略奪によって、生活が成り立っているのです。
このような視点を抜きに、自己の内省をするとしたら、それは、自分だけが善人で肯定されている狭い世界に閉じこもっている状態なはないでしょうか。魔境以外なにものでもないと思うのです。

 また、おじきさんが言います「内省」という行為に対しても、おじきさん自身は仏教の精神から行っていると思うのですが、もう少し、深く考えてみますと、果たして、それがどこまで、仏教の精神での思考方法なのかと思うのです。

 まず、最初に仏教的な思想でものを見る際の、仏教の理解の方法であります。
仏教の理解をする際に、どこまで自分の了見を除いて理解する事なのです。自分の事を権威化する為、あるいは、自分が心地いい為に仏教の教えを聞いていませんか。
そして、次に、果たしてお釈迦様が言う事は全てが正しいのでしょうか。それに関して、女性である私は多いに疑問を感じるのです。
第三に、自己内省の過程において「私がこう思うのだから、こうだ」という思考をしていませんか。いくら、仏教の教えに照らし合わせた上の思考であったとしても、
「われ思うゆえにわれあり」という、デカルト的思考方法は、われわれ現代人において骨の髄まで染み入っているものであり、いくら、仏教的な思考をしていると言っても、それは、所詮仏教を自己の正当化の為に使っているしかないのです。
そのような、自己の思考方法を思索(内省)された事はありますか。これは、仏教でないと言われるかもしれませんが、そういう自己の閉ざされた宇宙を問うのが、仏教ではないのでしょうか。

 


黄色札 投稿者:らくりん  投稿日: 6月20日(木)17時30分17秒

ヒロヘロさん、お久しぶりです。
三吉さんのあとを追っかけて登場してこられるような感じですが、
私の気のせいでしょうか。

>三吉さんはあらゆる場面でこの種のスカタンが多すぎる。
この一行がなければ、気持ちよく読めたんですが……

この掲示板の管理人としては、この一行には、二つの問題点があると思います。

一つは、私の印象にすぎませんが、この掲示板の上だけの問題ではなく、
他の掲示板などでの三吉さんの言動に対する不満や「うっぷん」が持ち込まれている
ように見受けられる点です。江戸の仇は長崎ではなく、江戸で決着をお願いします。
くれぐれもよそでの「いきがかり」を、ここに持ち込まないようにして下さい。

もう一つは、書き込み内容自体に対するコメントではなく、
一方的なラベリングにすぎない捨てぜりふのような非難は
極力控えていただきたい。
2チャンネルのような、匿名の無責任さがもたらす罵倒合戦は、
この掲示板では見たくないからです。


役僧問題について 投稿者:ヒロヘロ  投稿日: 6月20日(木)16時21分24秒

お久しぶりです。私は浄土宗でしたが、役僧そのものの数は各宗派のなかで少ない方でしょう。
その代わり、既に教師資格のある随身が寺院に住み込みで従事しており、その待遇は様々でした。

役僧問題と随身問題とは恐らく同列に語れるものであり、現代仏教に根付く深い問題である事は確かだと考えます。私個人としては既成宗教、組織宗教は原則的に否定するいわゆる原理主義的な立場です。しかし、個々の問題、今回は役僧問題ですが、これを語るには役僧をお願いしている立場、あるいは役僧経験者(現役含む)で無ければ見えてこないものが多いのです。もっと言えば、当事者性の問題であって、本質論を振りかざして当事者で無い者が云々する資格は絶対にないと考えます。

三吉さんはあらゆる場面でこの種のスカタンが多すぎる。


恐い恐い 投稿者:モモ  投稿日: 6月20日(木)09時50分58秒

ぐっちんさんのご指摘の
「立松は、この後神仏習合はものすごい発明で、イスラームのように他宗教を排斥しないなど
と評価してます。この程度でもの書きとして名をあげられるんだから、ちょろいなあ。」
について

去年か、NHK大阪支局の建物が新しくなったことでモックン主演の
ドラマもしたけど「聖徳太子」ブームがありました。その一環だったか
忘れたけど、日本人の太子信仰についてのドキュメンタリーが
ありました。その中で、太子ゆかりの名寺で修行する立松さんが
出ていて、北海道に太子堂を作った事が出てました。
僧侶がまもる太子堂ではなく、その周辺の住民があつまり
お守りするお堂として扱われていましたが、ナンだか妙な
胸騒ぎがしました。何か、広告塔みたいにウマク使われている
ように思うのは私だけ。


酔ってます 投稿者:ぐっちん  投稿日: 6月20日(木)08時17分25秒

 CHINCHINさんとKONEGIさんが死のうと思った思いつめた気持ち。
そんなカキコ読んで、ジジェークがどうたら、コジェーヴがこうたらいうてる
人をぐっちん、信用せん。


訂正 投稿者:ぐっちん  投稿日: 6月20日(木)08時09分11秒

 勇名→勇猛


イエス 投稿者:ぐっちん  投稿日: 6月20日(木)08時04分03秒

 そ、勇名果敢なことおっしゃっているけど、「営業」って<近代>で<資本主義>そのもの
なんじゃない?<カイシャ>に入れなかったら、国保や国民年金に加入せなしゃあないやろって
思う。うちは生活保護世帯じゃ!!!立派に<国家>のお世話になっております!!
 
 福岡正信みたいに、粘土団子こねて自然農法やったらええんチャウとか思う。釜のおっちゃ
んみたいに住民登録しない覚悟でもあんのかいな、ええ加減に机上の空論ゆうてんと自分の現
実お考えになったら?借金返すことまず考えんかい!韓国なんか旅行行ってる場合やないやろ!
と思う。

 うちの自殺したヨメはんと、精神科のクリニックあっちこっち行ったけどラカンの域に達した
医者なんかまったくいてない。そんな医者いてたら、ヨメはん死んでないわい!社会運動は、ア
ルチュセール以降の学問とやらの成果をどういう風に取り入れたんかいな。竹田さんのいうまま
何も変わってへん。職業差別もなくなってるワケないやろ!人の痛みわかってんの?

 曹洞宗の坊主、町田発言のように「日本には部落差別はありません」というのといっしょ。ま
ったく現実わかってない。ホンマ世の中とヒトなめとんのか!!って思います。


こんな男に資本主義がした? 投稿者:おじき  投稿日: 6月20日(木)04時41分51秒

>資本主義がひとり仏教を駄目にしたと言っているのではなく、
>仏教のみならず、それを含む全て(世界、人間関係、自然環境、その他)を、
>駄目にしたと言っているのです。
とGenkoさんが資本主義を批判しても、実のGenkoさんの生活ぶりは、資本主義の権化、
余す所なく資本主義の恩恵を享受してらっしゃいますよね、故に説得力ゼロ。
で、資本主義(近代)がダメで、前近代はもっとダメで、脱近代もダメだって。
非近代ってどういうものなのかしらね?
「仏教者に社会科学的視点を」というのもいいけれど、
「自分を見つめる」という仏教者の視点を忘れたくはないなぁ。


らくりんさんへお願い 投稿者:Genko  投稿日: 6月20日(木)02時21分27秒

5月17日以降の「過去ログ」を、もうそろそろアップして頂けると嬉しいです。
(↓の三吉さんの私に対する異論に、一部誤解が生じているのは、
17日以降の私のカキコで言ってきた主旨の流れを確認出来なかった可能性が考えられるので。)
ご多忙のこととは思いますが、よろしくお願い致します。


三吉さんへのご返事(続)  投稿者:Genko  投稿日: 6月20日(木)02時04分45秒

>私は初期仏教が、「お金」(交換価値・物神性)を批判して、「食べ物」「衣」(個別
>使用価値)の布施しか受けなかった「感覚」(センス)に驚嘆します。
>釈尊は「マルクス主義者」だと思っています。

面白いご見解ですが、これについては、過日おじきさんが、
「あれは北部インド地方の<自然的環境条件>のなせるわざだったろう」
と指摘していたことが思い出されます。
どういうことかというと、単純に「暖かい大地には、食べるに困らないだけの果実が、
そこらへんにいくらでも成っていたし、寒風を凌ぐ家すら不要だから可能だった。」
というわけです。
だから私は、たとえ比喩としてでも、釈迦が「マルクス主義者」だったとは到底思えません。


三吉さんへのご返事 投稿者:Genko  投稿日: 6月20日(木)01時43分44秒

>貴兄の分析には2.3異見あります。
>「懐柔され、飼い殺しされ、従軍化」したとの分析ですが、
>私は「積極的に加担することで教線の伸張を意図した」と見ています。
>で、戦後もその質は同じで「平和憲法」「反差別」になったので、それ
>に積極的に乗っているだけじゃないかと。

私も過日、別のカキコで、貴兄の仰る「積極的に加担することで教線の伸張を意図した」
風の観方を呈示しています。私にとっては、表現の角度はどうでも、
いずれにせよ「近代<国家>」の政策的要請に加担し、逆用していることには違いないからです。

けだし、<国家>が問題になるとき、ひとの態度はおおむね次の三つしかありません。

1)その中に、従属する。
2)その中で、抵抗する。
3)その中で、別の<国家>を建設する。

このうち上記3)は、昔ならさしずめ「一向一揆」、
現代なら「ヤマ○シズム」みたいなことになるのでしょうか?
しかし、これでは我々の複雑な社会的諸関係下においては、マンガになってしまいますよね。

>教団内経済が「資本主義」に沿ったのが、仏教を駄目にした真犯人というのが
>ちとわかりません。
>貴兄の想定される「古きよき仏教経済」とはなんでしょうか

まず、私は「古きよき仏教経済」(=プレ・モダン)を想定なぞしていません。
基本的な前提として、プレ・モダン(=前<近代>)が、
資本制(=<近代>)よりもっと駄目だ、というところから論を立てています。
かといって、モダン(=<近代>)もまた決してベストではない、と申し上げています。
ここまでは、大かたの意見とほぼ共通認識を同じうするのではないでしょうか?
では「脱-<近代>」(=ポスト・モダン)を志向するのか? というと、実はそうです。
ただし、ポスト・モダンは今日、<思想>としても<批判>としてもあまりにも世間ズレし、
規範としても手垢に塗れ、実践論としてもあまりに安っぽい<商品>に成り下がってしまった。
そこで、やむをえず、「非-<近代>」(=デ・モダン)という、
何とも歯切れの悪い概念を、苦肉の策で、一方で勝手に捏造せざるを得なかったわけなのです。

また、私は、資本主義がひとり仏教を駄目にしたと言っているのではなく、
仏教のみならず、それを含む全て(世界、人間関係、自然環境、その他)を、
駄目にしたと言っているのです。
従って当然、その結果として、教団内外にも、その論理(=資本制)は貫徹致します。


うむむ。 投稿者:三吉  投稿日: 6月20日(木)00時29分34秒

私の特徴としまして、
@自分の好き勝手に、自分の都合で読んでいる。
A理解できないとこは飛ばし読みする。
で、「明治以降の歴史」やらも私なりの都合で読んでいますれば。。。
貴兄の分析には2.3異見あります。
「懐柔され、飼い殺しされ、従軍化」したとの分析ですが、
私は「積極的に加担することで教線の伸張を意図した」と見ています。
で、戦後もその質は同じで「平和憲法」「反差別」になったので、それ
に積極的に乗っているだけじゃないかと。

教団内経済が「資本主義」に沿ったのが、仏教を駄目にした真犯人というのが
ちとわかりません。
貴兄の想定される「古きよき仏教経済」とはなんでしょうか?

余談
仏教の歴史は長く、釈尊在世時代は奴隷制が健在でしたが、釈尊はサンガ内
(厳密に言いますが、この時代のサンガは、出家集団のみです)での差別は容認
しませんでしたが、娑婆社会における奴隷性については、批判の視座を持って
ませんでした。奴隷は、雇い主の許可なしに出家できませんでした。教団が
いれませんでした。(許可貰ってから来い、と)
サンガ内の経済は共産性ですので、これは一種のコミューンだと私は思って
います。
私は初期仏教が、「お金」(交換価値・物神性)を批判して、「食べ物」「衣」(個別
使用価値)の布施しか受けなかった「感覚」(センス)に驚嘆します。
釈尊は「マルクス主義者」だと思っています。

ところで釈尊は、その当時発展しつつあった「商業」を積極的に肯定しています。
(すごく原始的だけど商品経済が起こりつつあった時代です、釈尊の時代は)
「商人は 情報戦を制し 素早く判断・行動して ライバルを出し抜き 利益を
獲得すべき」とのことです。そして巨万の利益を得たら、その利益を自分で独占
したらいかん。そんなことしたら、他人恨まれて、墓穴を掘る。
自分の生活維持のために社会奉仕(施し)せよと。(在家が在家に「金」を施すのは問題なし)
出家者に対する在家の布施に「金」をヨシと認めたのは釈滅後100年のことで、分裂した多数派からですね。「金」は凄く便利であった。


我苦生さんへ(U)    投稿者:Genko  投稿日: 6月19日(水)23時47分58秒

>勝ち取るだけなら、脅迫すれば良い。テロを起こせば良い。
>テロを起こして、英霊になっても仕方が無いし、意味が無い。
>解り会える事。教学的見直し、システムの改善。歴史の見直しと、反省。それしかない。

まず、この「ヤクソウ」問題の発端のひとつは、貴方の「殺したろか」という、
少々物騒な表現から始まったことを忘れないで戴きたい。
それと、「わかりあえること」というのは大いに賛成ですが、
それで、第二、第三の貴方が今後、再生産されないという確証がありますか?
私は、世襲制が連綿と続いていく中で、<主−奴>という関係性が再生産される以上、
「ヤクソウ」問題の<構造>は、根本的には解消されないと考えるものです。

ちなみに、私にとって、例えばマルクスの思想は資本制の<構造>からの出口を、
また釈迦の思想は「業」の<構造>からの解脱を、それぞれ示唆しうるものです。


我苦生さんへ   投稿者:Genko  投稿日: 6月19日(水)23時28分20秒

>敵じゃありません。四海兄弟、同朋(ともだち)です。

私が「敵」と言っているのは、人格者に対してではありません。
「構造」に対して指している比喩です。
今までのカキコをお読みくだされば分かります。


カメののろい 投稿者:ぐっちん  投稿日: 6月19日(水)21時25分42秒

 何故だか、この5年ほど東京・新宿のH神社から「神道時事問題研究」という新聞が送られ
てきます。その最新号を読みました。立松和平の「聖徳太子と宗教」というのが載ってます。

 立松さん、この八年間、法隆寺で正月行われる吉祥悔過という修法をしているそうです。
で、般若心経をよんで祈るそうです。その祈りの内容は、@地味増長・・・土地に力を下さい
A五穀豊穣・・・食べ物が実りますようにB万民豊楽・・・人々が幸せでありますように
C鎮護国家・・・政権が安定しますように、と。

 1200年続いてるそうです。また、呪いもかけるそうです。堂塔伽藍を破壊せしもの。
山林を破壊せしもの。そして、千古の神秘を破壊せしもの。これらのものは、生きているうち
は、三災七難を受け、死後は無間地獄へ落ちよ、と呪うそうです。ああ、こわー。

 立松は、この後神仏習合はものすごい発明で、イスラームのように他宗教を排斥しないなど
と評価してます。この程度でもの書きとして名をあげられるんだから、ちょろいなあ。。。


今から。。。 投稿者:ぐっちん  投稿日: 6月19日(水)20時46分46秒

 謝りますから、仕事いただけないものでしょうか。。。このとうりでございます。勘弁して
下さいまし。ご住職様、所長様、先生。ね、ね、そこをなんとか。。。


ゴネ得。ゴネ損。 投稿者:ぐっちん  投稿日: 6月19日(水)20時34分41秒

 二宮忖度。ぐっちんがいたあるお寺。通信の秘密が守られない。
個室があるのですが、そこに電話を引いてはいけないということになっていました。

 もっとも、イマは携帯があるから遠い昔の笑い話でしかありませんが。庫裏の電話で呼び出
され、そしてその廊下でしゃべる。話しの内容、まる聞こえ。

 また、ポストをつけたらダメなのでした。郵便物は、○○寺御院内ぐっちん様で来るのですが
お寺の人が振り分けて来る。誰から来てるのかチェックされました。ホントですよ。いろいろ、
あって辞める時、「彼は真面目な青年なんだが、戸次や玉光だめにした!」と私の出身校の
院長先生に語ったようです。

 いや、ぐっちんは、玉光・戸次・尾畑・菱木というお坊さんを前に「あんたらが、向こう三軒
両隣りにチラチラする人の話をせえへんから、ぐっちんおよびぐっちんより若い奴らが、出て
これん。目の上のタンコブや!」と言って大ヒンシュクを買ったのですが。。。

 でも、ぐっちんがいろいろゴネた寺では、その後いろいろ働く条件が改善されたようです。
だいたい、お坊さんの世界は知り合いばかりですから、ウワサを聞きます。ゴネてやっと、
寺族のかたがたもわかるようですなあ。。。


「アホの坂田」先輩の母 投稿者:CHINCHIN  投稿日: 6月19日(水)19時24分24秒

モモさんが「アホの坂田」こと坂田利夫さんのお話をされていましたので、一言。

坂田利夫さんは、私の中学の大先輩で、野球の野茂さんとならんで、わが中学が誇る偉大な卒業生です。
坂田さん(本名は別ですが、わかりやすいようにこう呼びます)のお母さんは、いつも「アホのおかんや!」などと、子供にからかわれていました。それが悔しいみたいで、「うちのコはアホやないねん!あれは芸や!!ほんまのアホにはあんなことできんわ!」と言い返していました。
仲のいいご夫婦で、いつも自転車を二人のりしてた姿が印象的でした。そして、お二人とも、自分の子が「アホの坂田」であることを誇りにしていたようです。

坂田さんは、「アホ」を演じることで、「ほんまのアホ」とは何か?を教えてくれているような気もします。


図式 投稿者:らくりん  投稿日: 6月19日(水)09時26分47秒

三吉さんのおっしゃっていることは、
大谷派の宗務役員の職員組合つぶしの論理としてよく使われました。
しかも、よくもののわかったような顔をしている人が、振り回していた。

いわゆる宗教活動から発生する収入は、一旦すべて宗教法人の会計に
繰り入れられて住職も「ヤクソウ」も、
宗教法人から給料として個人の収入を受け取る。
所得税は、当然のことながら源泉徴収されます。
その帳簿は、責任役員さんのハンコをいただいています。
私のところではそのように処理しています。
お寺の財務処理の基本であろうかと思います。

したがって、住職も「ヤクソウ」も給与所得者です。
ご門徒のお布施は、宗教法人に対してなされているのであって、
住職個人に対してなされるものでも「ヤクソウ」さんの労働に対する対価でも
ありません。
しかしながら、
その再配分として受け取る「ヤクソウ」の給与が、
布施の原理によって説明されることについては、私は疑問です。

株式会社の主権者は株主、社長=筆頭株主というような、
いわゆるオーナー社長以外は社長も基本は雇われ人。

労働組合の交渉相手は、雇われ人だろうがなんだろうが社長と行うわけで、
労働者が、株主と直接交渉するということは通常はありません。

住職はいわゆるオーナー社長ではない。
問題にされるべきは、ちゃんと給料払ってくれと言っている「ヤクソウ」ではなく
住職による宗教法人の私物化であろうと思います。

経営が赤字で、払えないわけでもないのに、給料の支払いが滞っているというのは
法人の私物化以外のなにものでもない。

そこのところに、
布施の原理を持ち込むことは問題のすりかえにつながると思います。

[食えなかったら「死ぬ」覚悟もないのに坊主をやっているのはけしからん]
[食えなくて泣き言をいうくらになら、とっととやめちまえ]
ということなのかもしれませんが、
住職も、すきっ腹をかかえているんなら、
「いっしょに我慢します」「いっしょに餓死しましょう」と
言いたい気持ちになることもあるかもしれんけど、
「ヤクソウ」さんだけにそれを言ったら
ぬくぬくとしているやつだけが、ますます肥えていくことになる、
だけじゃないかい?

ご門徒の味方を演じる人を、悪徳住職が大歓迎する図式はあまりいただけない。


「アホ」と「バカ」論 投稿者:モモ  投稿日: 6月19日(水)09時14分25秒

Genkoさんの
「私も負けずに充分「あほ」ですが、
少なくとも「あほ」は、「ずるい」人とかよりも幾分「まし」
な存在だと自信を持っています」

大阪人にとって、「アホ」は憎めんヤツと好意的に使われるのに
対して、「バカ」というのは悪意的に使うとされています。
東京では逆だと聞きましたが。吉本の「アホの坂田」という
芸人がいますが、東京モノにとってはゲテモノの彼も、大阪では
好かれています。最近はマラソン選手になった感のある間平ちゃんも
あの下品な芸が懐かしいです。吉本のそれこそ新喜劇の笑いは
同じフレーズを徹底的に使い倒す事にあります。不器用でいて
そのパターンにはまってしまいます。坂田さんにしても
間平さんにしても、人のよさが出ていて「ずるい」というのが
見えません。これが、少しでも見えたらダメなんでしょうね。
アホこそ、最高の讃嘆なのではないかと、思っています。


らくりんさんへ 投稿者:CHINCHIN  投稿日: 6月19日(水)08時39分26秒

整理してくださって、ありがとうございます。
大体それで結構ですが、私は本音をいえば別に本気で<労働者>として100%認めて権利をよこせとは思っていません。実際、社保つきで、という条件が実際には果たされなくても別に食べていけたらいいや、と思って<ヤクソウ>していました。しかし、その後、条件がどんどん切り下げられ、それでも食べ物があるうちはまあいいか?と思ううち、とうとう賃金不払いの憂き目にあい、食べるものにも事欠く状況(別にそれ自体は宗教的意義があってそうなったのではなく、住職が賃金を支払わなかったというだけでひきおこされた事態)になっても、それを打開してくれるシステムが全くなかったことへの問題提起です。40万の口約束が20万だったということは民間企業でもある話です。しかしもし、これはことの始まりにしかすぎず、20万が0になることもあって、そうなっても<ヤクソウ>にはどうにもならんようになるのだ、ということが言いたかったのです。餓死しても、国家や教団から知らん顔される、と。少なくともそうなる前に何とかしてくれ、というのが私の思いです。

>三吉さん

お考え、よく分かりました。私が僧侶となったころに、東京の真言系の寺院で、<ヤクソウ>が組合を結成し、寺院に対し、裁判を起こし勝訴した、ということがありました。(これが私のいう<ヤクソウ>が労働者であるという判例です)
内部事情をあまりしらず、ただ、親鸞という人にひかれて教団にはいった私には、彼らの行動が理解できず、やはり「違和感」を覚えました。
三吉さんのおっしゃることは、自分の中にある僧侶の理念とかなりの部分で合致するだけに、三吉さんへの反論は、私にとって、自分への反論でもあります。三吉さんのような視点は見失いたくないし、今でも見失わないように気をつけているつもりです。だから、他者である三吉さんのご意見は非常にありがたいご指摘です。
しかし、同時に内部にいて体験した上記のような状況(餓死しても無視)もあり、どうしても<労働者>であるという立場も放棄できないのです。ジレンマをかかえながらの主張です。(しかし、御門徒にこのような主張をぶつけるつもりは更々ありません)

>ぐっちんさん

ごめんなさい!時間がないのでまた後ほどレスします。


高齢者虐待問題 投稿者:ぐっちん  投稿日: 6月19日(水)04時34分59秒

  ぐっちんが会社で最後に取り組んだ仕事が、高齢者虐待の予防・ケア方法の開発という
調査でした。調査会社って面白かった。早い話がアンケート屋さんなんですが、ひとびとの
「なま」の声が聞こえてきてとっても勉強になりました。中には、こんなアンケートやって
本当に改善されるのか?と怒っておられる方もまあ、いらっしゃいましたけど。

 ぐっちんはやっぱり、娑婆っ気がありすぎるなあ。。。一人暮らしのお婆さんとこへ逮夜ま
いりにうかがったとき、配食サービスのお姉さんとよく遭遇しました。なんや、こんなんやった
らお寺から「お弁当」持ってきたら一石二鳥やけどなあ。ホトケさんの功徳付きのおときでっせ
なんて思ってた。。。

 秋田さんとこの活動で、「介護」の分野が整備されていません。将来、出来たらそこの職員に
なる。これがホンマの法務ヘルパーやいうて。。。

http://www.inochi-club.com/esp/esp_04.html


お寺とNPO活動 投稿者:ぐっちん  投稿日: 6月19日(水)04時06分47秒

 秋田さんの仕事で面白いと思うのはお寺とNPOとの協働活動です。これは、東京にいた時
全国青少年教化協議会というところのJINJINというやつと知り合いになったのですが、
彼の弟さんもまた自殺で亡くなっていて、青少年の問題と仏教について真摯に取り組んでいる
んです。

 で、彼が提案しているのが寺子屋NPOです。お寺とNPOが連携して、地域で根を張り
不登校や引きこもりやいじめの問題と取り組もうという活動です。NPOとお寺という発想、
なかなかいいと思います。希望があると思います。お寺だけでは、なかなか動けませんから。

http://www.zenseikyo.or.jp/japa/activity10.html


>CHINCHINさんへ 投稿者:ぐっちん  投稿日: 6月19日(水)03時26分28秒

 秋田住職の応典院で6月20日(木)六時半から九時まで「遺児たちの心に七色の虹を」と
いうタイトルのあしなが育英会の方々のお話があります。大悲さんのHPにはあしなが関係の
リンクがありますが。。。(唯我独尊 明教寺さんです)

 あしなが育英会といえば、ぐっちんの子供の頃は交通事故でお父さんを亡くした遺児をサポ
ートする団体だと思っていたのですが、最近は自殺で亡くなる方の方が多いと聞きます。
 
 ぐっちんのつれあいの命日が7月6日であります。自殺したので何かあしながのことが気に
なります。また応典院さんは、不登校の生徒たちの活動の場でもあります。ぐっちんもつれあい
も不登校生徒でした。そんなこともあって、ここのお寺の動向は東京に行く前から気になってい
たのですが。ぐっちんの家の宗旨は浄土宗。同じ寺町にある一心寺さんに先祖のお骨はあります。今ようやく機が熟したのかな。足を運んでみようと思います。

 釜ヶ崎の労働者の問題は、キリスト者が取り組んでおられます。ここにも以前ちょっとお邪魔
しましたが、これから本格的に関わっていきたい。以前はやっぱり、自分は真宗人だというこだ
わりがあったのですが、自分のやりたいことを先にやっておられるところにお世話になってみよ
うと思います。

 東住吉高校に芸能文化科という学科があります。来年、ここを受験して高校生になってみよう
かな?と思っています。仏教万歳というジャンル。これは、すたれてしまっています。鼓や胡弓
をバックに今でいうところのラップのようにコトバを繰り出す芸。こいつを習得して、いつか応
典院さんのホールに立ってみたい。


もうひとつの貧給さん 投稿者:ぐっちん  投稿日: 6月19日(水)02時48分59秒

♪母上様 お元気ですか
 ゆうべ はんかがいで 火事があって お客さんと働いていた
 お姉さんたちが 焼け死にました
 ゆうべ ホームレスの おじさんが お兄さんたちに かこまれて
 なぐられて 亡くなりました
 ゆうべ 中央線という 線路で 一日で三人目という 男の人が
 飛び込んで 電車に跳ねられました
 ゆうべ 保育園で 園長先生に 長い間 なぐられていたことが理由で
 男の子が死んだことが わかりました
 私は 星にはなします 何と哀しい世の中なんだと
 くじけませんよ ほとけの子です さみしくなったら 話しにきますね
 いつか たぶん
 それではまた お便りします
 母上様  ひんきゅう


Genkoさんへ 投稿者:我苦生  投稿日: 6月19日(水)01時31分34秒

 >今日の「ヤクソウ」問題を「待遇問題/労働契約違反」に限定して陣地戦を闘ってみても、
<敵>の方は「手の内を全部見抜いている」ので

 敵じゃありません。四海兄弟、同朋(ともだち)です。

 勝ち取るだけなら、脅迫すれば良い。テロを起こせば良い。
 テロを起こして、英霊になっても仕方が無いし、意味が無い。
 解り会える事。教学的見直し、システムの改善。歴史の見直しと、反省。それしかない。


里村から児玉へ 投稿者:我苦生  投稿日: 6月19日(水)01時17分51秒

 児玉暁洋という先生がいる。前々の大谷派の教学研究所の所長である。
 この人が入寺した理由というのが解り易くて、確か、娘さんが大学に行くのに金が無かった。という理由だったと思う。解り易い。

 苦悩のぐんもうとは、生活者だと思う。生活のなかからの、うめき、叫び。だからこその親鸞だ。生活感の無い話は、ゆゆしき学生さんに任せておけば良い。
 そういった意味で、玉光さんが教学研究所の所長になったことは『すごい!』『大谷派やるジャン!』で、ある。


うちの住職 投稿者:我苦生  投稿日: 6月19日(水)01時01分58秒

 ついでに、うちの住職のことを書いて置きますと、うちの住職は貧乏寺の次男坊として生まれ、その後思春期のころより『生きるとは?』みたいなことを考え始め、自殺にとりつかれ、専修学院や、ヒッピー生活の後、ある時、連合い、子供連れでパチンコ屋の住み込み店員をやっていたとき、窓の外のパチンコ屋のネオンの『光』を見たとき、『あ、坊主しよ!』と、決めたらしい。詳しくは聞いていないが、そのとき師の言葉がよみがえり、念仏申せたそうだ。
 自我、こだわり。そんなもんのせいで、連合いや、子供に苦労かけてどうするんだ!と、感じたんではないかと思う。
 だから、面接の時も『求道』の大切さを語り会えた。仕事始めの日も、『良いか、求道が根本やぞ!』と、ひつこく言われた。まあ、似た者どうしか。
 とはいえ、新しいベンツを買ったりしているのはどうかと思う。それは、私の責任なんだが。

 私なりの、役僧問題を整理すると、まず寺院の現場で起こったことは、出来るだけ人間関係だから、粗末にせず、声をかけていきたい。ただ、それだけで解決できないシステムの問題は、システム、つまり教団しか解決できない。
 役僧という立場、寺院内の身分(つまりは教団内の)からの研究、教学が必要だと感じる。
 ぐっちんさん、まかせた。


書き込み 投稿者:我苦生  投稿日: 6月19日(水)00時35分44秒

 なんでもいいが、この掲示板、昨日一日通夜に行ってて見れなかっただけなのだが、ものすごい書き込みですね。
 で、昨日は通夜。人間のどうしようもない悲しみ。諸行無常と、いわなきゃならんような、悲しみ。ふらふらだ。
 あ、葬式は住職が行きます。余程のことがない限り。葬儀屋さんが怒りますので。
 うちの住職の声明は、上手いとか、下手とかとは、全く別物で、ただ『すごい!』。30年近くプロの葬式坊主をやってるだけあって、『すごい!』。そのくせ、涙もろく、いちいち涙ぐんでるんだけど。


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